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山形六日町教会

2022年5月8日

聖書:詩編73編23~28節 マルコによる福音書10章23~31節
「神の国に入るには」波多野保夫牧師

今日、5月の第二主日は「母の日」として覚えられています。CSでは母の日礼拝を子供たちと守りカーネーションをプレゼントしました。大正時代にアメリカの宣教師が伝えてくれたのですが、その起源はアンナ・ジャービスさんが、教会で亡き母を偲んで記念会を開いた際に、白いカーネーションを配ったのが始まりと言われています。アンさんのお母さんは南北戦争の際に地域の婦人たちのリーダーとして、南軍北軍を問わずに負傷兵を看護しました。激しい戦いの中にあってなお、敵を愛し、平和が来ます様にとの祈りを欠かさなかった方なのです。 一方、「父の日」は6月の第3主日だそうですが、「母の日」にくらべれば影が薄い様です。しかし、母にとっても父にとっても、そして私たちにとっても、毎日が「天の父、主イエス・キリストの父なる神様」の愛の下に置かれている。この事実に変わりはありません。
さて、受難週からイースター、そして教会総会へと、教理的な整理に基づいて聖書のみ言葉を聞いて来ました。今日は少し心を柔らかくしていただくためにビデオを見ることから始めたいと思います。与えられたマルコ福音書の並行記事、マタイ福音書19章16節以下に基づいたビデオです。イエス様と一緒にエルサレムへの旅を続ける弟子や婦人たちの中に私たちも加わっている。この思いで見てください。【映像】いかがだったでしょうか? 
聖書に戻りましょう。マルコ福音書10章23節24節です。 イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」 弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。なぜ、弟子たちは驚いたのでしょうか? 実は、聖書は財産があること、あるいはお金があることが「悪いこと」だとは言っていません。旧約聖書では、ヨブが自分の傲慢さに気づいて悔い改めた時、主はその後(のち)のヨブを以前にも増して祝福された。ヨブは、羊一万四千匹、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭を持つことになった。(ヨブ記42:12)とあります。神様が悪いものを以前にも増して与えられるハズがありません。当時、財産や富は神様がその信仰を良しとされた者に与えられる、即ち財産は神様から愛されている証拠であり、人格に優れた善人のしるしだと考えられていました。ですから、弟子たちは「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」 とおっしゃるのを聞いて、驚いたのです。なんで神様から特別の恵みをいただいている金持ちが「神の国に入るのが難しい」なんておっしゃるのだろうか? 全く理解できなかったのです。
マタイ福音書にあるイエス様のたとえ話です。主人から、五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』(マタイ25:14-30)忠実な良い僕とは、神様の言いつけ、すなわち「神様と自分と隣人を愛する」人です。そんな人には多くのものを管理させるとおっしゃいます。1タラントンは労働者の6,000日分と言いますから15年以上の賃金にあたり、たいへんな金額です。大金持ちです。ヨブの話も、この譬えも、確かに神様に忠実だった人に大きな財産が与えられたことを語っています。しかし、それを逆読みすること。すなわち弟子たちが考えていた様に、「沢山の財産を持っているから信仰深い人であり、神様から深く愛されている人だ。当然神の国に入れてもらえるはずだ。」この様に聖書は言っていません。そうではなくて、多くのものが与えられている人はそれをしっかり管理すること、すなわち神様に喜んでいただける使い方が求められているのです。

イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」 イエス様は大変表現力の豊かな方ですね。らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。こんなことは100% あり得ないのですが「金持ちは神の国に入れない」とはおっしゃらないのです。そもそもなんで金持ちが神の国に入ることが難しいのでしょうか? まあ、これは容易に察しが付くかと思います。お金への思いが心を覆ってしまう。お金を儲けることが人生の目的となってしまう。こんなことが容易に起こるからです。確かにお金が有ればいろいろなことが簡単に出来ると言った傾向は、いつの時代にもあるでしょう。
ある日のエルサレム神殿で、イエス様の目の前での出来事です。貧しいやもめはレプトン銅貨2枚、これは100円程でしょうか、彼女は生活費すべてを献げたのに対して、金持ちたちは有り余る中から献げたのです。お金への執着心がそうさせるのです。(ルカ福音書21:1-4)もちろん聖書が語るこの有名な話は、持っているものを全て献金しなさいと強制するものではありません。私は月定献金をいくらしたら良いのでしょうかと問われた時には「喜びの範囲でささげてください。ただし余ったから献げるのではなくチョットだけ無理してください。やがてその無理を喜びに変えてくださるでしょう。」この様に申し上げています。献金を献げることは強制ではなく、いただいた恵みに対して私たちの感謝と喜びを表すものなのです。
弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」神様が信仰深い者として多くの財産を与えられた金持ちが、神の国に入ることが難しいのであれば、「それでは、だれが救われるのだろうか」弟子たちの疑問は深くなって行きました。しかし、私たちは罪からの救いが、主イエスを信じてイエス様に従う信仰だけによって与えられることを知っています。
その理由はこの時、弟子たちが知らなかった、主の十字架と復活の出来事を知っているからです。世界を創造された神様は主イエスを死者の中から復活させられた方です。さらに従う私たちに永遠の命を約束してくさる方なのです。「神は何でもできる」方なのです。
28節。 ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。イエス様がガリラヤ地方で「悔い改めよ。天の国は近づいた」この様におっしゃって宣教を始められた時のことでした。 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。(マタイ4:18-22) シモンとアンデレは網を捨て、ヤコブとヨハネは舟を捨てて主に従いました。網や舟が無くては漁師の生活は成り立ちません。ペトロの言葉、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」。この言葉は大げさなことでも、自分を誇る言葉でもありません。彼らは生活の基盤を捨てて主に従ったのです。

さて、私たちが行動を起こす際の動機についてですが、心理学では5つの動機を指摘します。一番底辺にあるのが命をつなぐための行動で、次が安全を求める行動だそうです。戦火や大きな自然災害が起きた時には、それこそ命を保つために行動する必要があります。世界的に猛烈なインフレが襲っていると言われている中で、従来から最貧国と呼ばれている国の子供たちのことが気になります。それだけではありません。世界の中では豊かな国に数えられる日本ですが、長引くコロナ禍にあって「子どもの貧困問題」が顕在化しています。これは行政や政府を含めて、私たち大人の責任です。
次の段階は「交わり」だそうです。「美しい友情」から「金の切れ目が縁の切れ目」と言った「交わり」まで人の交わりは様々ですが、神様は「人が独りでいるのは良くない。」とおっしゃいました。確かに孤独は良くないのですが、イエス様は私たちにおっしゃるのです。「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」ですから、クリスチャンにとって絶対的な孤独はありません。反対にわずらわしさから一人になりたいと思うこともあるでしょう。大勢の人たちが毎日押し寄せてくる。そんな時にイエス様がとった最高の方法、それは人里離れた所に行って、神様と二人だけの静かな時間、祈りの時を持つことでした。 教会での交わりは主イエス・キリストを仲立ちとして、祈りを伴った最高の交わりです。もし、他の要因が教会の交わりに働くのであれば、そんな交わりは早めに壊れた方がむしろ良いのです。人の思惑が教会を支配してはいけません。
行動を起こす次の動機は、「人から認めてもらいたい。理解して欲しい。」という願いです。「承認要求」と呼ばれます。「目立ちたがり屋」は鼻につきますが、逆に「引っ込み思案(じあん)」と言うのももったいない話で、神様から預かった1タラントンを土の中に埋めておくようなものです。タラントンはタレントのもとになった言葉で、「際立った才能」と言った意味で用いられますが、それだけではありません。神様から与えられているものすべてです。それを用いて、奉仕をしたり献げたり、あるいは自分の仕事や家族の世話、将来のための勉強を一生懸命行います。さらに、神様にいただいた命と時間、そして信仰を大切にします。そうすれば、たとえ世間の人、あるいは教会の友が気づかないことであっても、神様は喜んで下さるのです。神様は全てをご存知の方だからです。安心してください。祈りをもって隣人を愛するとき、私たちの「承認要求」は自然に満たされるのです。
行動を起こす動機の最後は「自己実現」です。自分の思い描いた姿を実現するために、練習したり、勉強をしたり、働いたりすることです。場合によっては静養することもあるでしょう。素晴らしいことであり、大切ですが、どんな姿を思い描いて努力していくのか、それが問題です。キチンと「神様と自分と隣人を愛すること」をとらえた上で「自己実現」の為に努力するのであれば、最高です。 ぎすぎすした現代は競争社会と呼ばれます。スポーツはルールの許す範囲で相手を打ち負かして競争に勝つのです。最近調子を上げているモンテディオ山形はたしかに見る者に感動を与えてくれます。一方、他人を蹴落として競争に勝つ。政治家のスキャンダルがしばしば報道されます。先生・先生と周りから持ち上げられるのですが、「選挙落ちればタダの人」と言われる厳しい世界には、高い倫理感が求められます。最初から利権にありつこうとしている人は問題外として、多くは理想的な政治を行って人々を幸せにしようとの思いで議員を目指すそうです。そのためには権力を持たないと実現出来ない、そのためには当選し続けないといけない、そのためには・・・。自分の理想の姿から遠く離れてしまう方もいらっしゃるそうです。これは、政治家だけではなく、社会の様々な仕組みの中で起きることではないでしょうか。
確かに競争することで人々の暮らしが豊かになってきたことは事実です。医学や薬学の進歩であり、冷害に強いお米であり、スマホ一つで世界の人々とつながることが出来る時代です。
パウロも言います。コリントの信徒への手紙Ⅰ 9章24節25節 あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。 信仰者として一生懸命主のみ言葉に従って生きる。私たちの受ける賞は神様の愛に包まれた豊かな人生であり、永遠の命なのです。
心理学が言う5つの動機を見て来ました。それでは、ビデオで見たように主イエスに従うことが出来ないで去って行った金持ちと違って、網や舟を捨てて主にしたがって来た弟子たちの動機は何だったのでしょうか?
ここで、イエスは理解の難しいことをおっしゃいました。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。」
まず注目されるのは、福音の為に捨てるものの中に夫や妻が入っていないことです。なぜでしょうか? これは皆さんに考えていただきたいと思います。
さてここで主は「捨てた者は」とおっしゃいます。「親、兄弟姉妹そして子供を捨てる」と言う言葉にびっくりさせられます。例えば強い地震があった際に「自分の肉親であり、主にある兄弟姉妹、あるいは近しい人」を心配するのは自然なことです。
主はそんな関係を捨てなさいとおっしゃっているのではありません。では何を捨てるのでしょうか?参考になる主のみ言葉があります。ある日、母マリアと兄弟が尋ねて来た時のことです。ある人がイエス様に、「母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と告げると、その答えは「見なさい。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」(マタイ12-46-50)でした。
「母の日」に相応しくない冷淡な言葉に聞こえます。しかし、十字架の苦しみの中で主はおっしゃいました。これはヨハネだと言われていますが 弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。(ヨハネ19:27) ここから私たちの読み取るべきことは、兄弟、姉妹、母、子供、と言った関係に入り込んで来る、ベタベタしたものを捨て去ることです。家、や畑などの財産も、主の福音の中を歩んでいく、幸せな人生の妨げになるのであれは、捨て去る方が良いのです。とらわれてはいけません。
マタイ福音書6章33節 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。私たち神様の恵みの中を歩む者、あるいは恵みの中へと招かれている者は日本の人口の1%以下です。明らかに「先の者」です。しかし、私たちが、主の愛から目をそらして、「神と自分と隣人を愛すること」から離れるのであればこれは、最も「後の者」になります。ペトロを始め弟子たちが、そして私たちが主に従う者となった動機を問いました。人それぞれに異なることでしょう。しかし、そこに主イエスの祈りであり、先輩の祈りであり教会の祈りが有ったこと、聖霊の働きがあったことは確かです。だとしたらです。週報の表紙を見てください。「恵みと平和をいただいて」いる私たちです。主にある兄弟姉妹の為に、まだ福音を受け入れるに至っていない方の為に、祈ることからこの一週の歩みを始めて行きましょう。祈ります。