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山形六日町教会

2022年4月24日

聖書:詩編118編5~9節 ヨハネの黙示録1章4~6節
「恵みと平和をいただいて」波多野保夫牧師

先週、私たち山形六日間町教会に3名の転入会者が与えられました。神様のご計画を賛美しつつ、ご一緒に礼拝に集い主に仕える喜びを共にして行きたいと思います。さて先週、説教の最初の言葉は、「イースターおめでとうございます。この日、主は復活なさいました。」でした。最後も「イースターおめでとうございます。この日、主は復活なさいました。」この様に結びました。イースターの喜びを共にするのにふさわしいと思ったからです。 同じ言葉「イースターおめでとうございます。この日、主は復活なさいました。」今日もこの様に始めたらいかがでしょうか? 皆さんにいらぬ心配をかけるといけませんから、申しませんでしたが気持ちはこの通りです。ユダヤ教は神様が天地創造を成し遂げて休まれた土曜日を安息日として神様の前に集って礼拝を献げる日としましたが、キリスト教は日曜日に礼拝を守ります。主イエスが復活なさった日だからです。
「疑り深いトマス」は復活の主が来られた時にいなかったことから、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」この様に言って、他の弟子が「主を見た」と言うのを信じませんでした。
八日の後とありますが、ユダヤの暦ではその当日を一日目と数えますから、「八日の後」はイースターの一週間後の日曜日、今日にあたります。ここに日曜日ごとに集って主を礼拝する原点を見るのです。週に一度、この様に日常の生活から主の前に呼び集めていただき、兄弟姉妹と共に礼拝を守る。私は素晴らしい神様のご計画をそこに見るのです。イエス様は再び来られてトマスに傷を示して「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」この様におっしゃったのです。トマスは「わたしの主、わたしの神よ」と答えました。主にお会いし、主を信じる信仰を回復して「わたしの主、わたしの神よ」と告白する。これが私たちの礼拝です。
さて本日は教会定期総会が礼拝後に持たれますが、毎年教会総会に先立つ主日礼拝では、長老会が提案します年間主題聖句の候補とした聖書箇所からみ言葉を聞いています。昨年度は主題が「揺るがぬ希望をもって」。主題聖句は「約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。」でした。年間を通してコロナ禍の下にあったにもかかわらず主日礼拝を続けることが出来ました。聖霊の働きに感謝したいと思います。その一方で、祈るべき課題が多く残されていることも確かです。礼拝に出席できない方を覚えます。争いが止むことはありませんし、自然も大きな脅威となりました。しかし、私たちは知っているのです。罪を全て負ってくださり、十字架に架り墓に葬られた方は、3日目に復活なさり死に勝利された方なのです。真の人として来られた主は私たちの苦しみを知る方です。共にいてくださる方です。そして、主に従う者に「永遠の命」を与えてくださる方なのです。ですから、私たちは主イエス・キリストから「揺るがぬ希望を」いただくのです。2021年度を振り返り、主の豊かな恵みと導きを感謝します。
さて、2022年度の年間主題候補は「恵みと平和をいただいて」。主題聖句は黙示録1章4節5節から「今おられ、かつておられ、やがて来られる方、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。」 これらを提案します。しかし、「「恵みと平和をいただいて」と言われても、私たちの世界では戦いが続いています。「平和はまだいただいていない」のではないですか?」 確かに人類の歴史は争いの歴史でした。後ほどこの疑問に戻ることにしましょう。
イースターの日の夕方、弟子たちは「主を十字架に架けた者たちが、今度は自分たちを捕まえに来るのではないか」の不安から、部屋にカギをかけて閉じこもっていました。「恐れ」が心を支配していたのです。 そんな夕方、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」と告げられたのです。恐れが私たちの心を支配するのであれば、悪魔にとって格好の餌食となります。神様への信頼が薄れた時に、悪魔はやすやすと心の中に入り込むことが出来るからです。
この1年、折に触れてヨハネの黙示録からみ言葉を聞きたいと思いますが、聖書に収められている書の中で最も難解なものの一つと言われています。その概要を見ることから始めましょう。1章1節です。イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストにお与えになり、そして、キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったものである。まず名前の由来ですが、イエス・キリストの黙示。とあります。「黙示」と言う言葉は聖書以外で耳にすることはほとんどないと思いますが、「隠された真理を明らかにする。」「覆いをとって真相を明らかにする。」と言う意味です。さらに、キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったものである。とあることから、ヨハネの黙示録と呼ばれます。
聖書学者は、だれが、いつ、どこで書いたのかを問います。聖書の言葉は永遠の真理を伝えていますが、その表現は直接の読者が理解し易いように語られているからです。著者ヨハネが12弟子の一人の使徒ヨハネなのか別のヨハネなのかが問われます。4節は ヨハネからアジア州にある七つの教会へ。と語り、また9節には わたしは、あなたがたの兄弟であり、共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである。わたしは、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた。 この様にありますから、当然使徒ヨハネだという学者がいる一方で、ヨハネ福音書と神学的な主張の違いを指摘します。これは私にはまったくわからないのですが、ヨハネ黙示録のギリシャ語は粗削りだと指摘します。ハッキリ言えば新約聖書の中で一番下手なギリシャで、ヨハネ福音書の流麗さとは別物だそうです。しかし、2000年前の漁師出身のヨハネです。外国語のギリシャ語が下手なことこそが使徒ヨハネの証拠かも知れません。
次に書かれた時代ですが、1章9節に パトモスと呼ばれる島にいた。とあることから、西暦95年ころ自分を神として礼拝することを求めたローマ皇帝ドミティアヌスの時代に迫害を受け、エーゲ海のパトモス島に島流しの刑で送られた際に黙示を与えられたのだと言われます。しかし、他の学者は、皇帝ネロが西暦64年のローマ大火の責任をキリスト教徒に負わせた際の大迫害が背景にあると言います。13章18節に 獣の数字にどのような意味があるかを考えるがよい。数字は人間を指している。そして、数字は六百六十六である。 この様にあるのですが、この六百六十六と言う数字は皇帝ネロ・カイサルを意味する暗号だと言うのです。 要するに著者も著作年代もはっきりしないのですが、教会が、そしてクリスチャンがローマ帝国の激しい迫害のもとにあり、神様の助けを強く祈り願っていたことは確かです。
現在、少なくともこの日本の教会は、直接命に係わる迫害のもとにはありません。しかし、収束を見せないコロナであり、戦火であり、頻発する自然災害であり、また長期にわたって日本の教会が抱える教会員の減少や高齢化の問題、一人一人が抱える重荷・苦しみ、あるいは陰湿ないじめなど、「神様なぜなんですか!」この様に問わざるを得ない状況と無縁ではありません。私は書かれた時代も著者もハッキリしない点に、かえって2022年に生きる私たちに向けた神様の真理の言葉を聞く思いがするのです。
先ほど新約聖書の中で最も難解な書だと言いましたが、一つはローマ帝国の迫害下にあって、暗号の様に語られている点にあります。皇帝ネロについて語りました。聖書には理解が難しい箇所があり、いつも申し上げています。「神様が私たちを愛してくださっている。」このことを前提として聖書を読むのです。
もう一つの困難さは、ヨハネの視点にあります。聖書はその時々の状況をとらえて語っています。私たちはその中に「永遠の真理」、すなわち「変わることの無い神様の愛」を見るのです。天地創造から始まり、アダムとエヴァの犯した罪は神様に選ばれたイスラエルの民へと受け継がれました。神から遣わされた預言者たちは悔い改めを求めたのですが、彼らは立ち返ることを拒み続けました。バビロン捕囚と言う警告を受けると一旦は神様に立ち返ったものの、大いなる恵みによって捕囚から解放されるや、再び罪に支配されたのです。そんなイスラエルの人たちに、そして今度は世界の全ての民に、救い主が与えられました。真の神・真の人、主イエス・キリストの誕生です。主が「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)この言葉で始められた宣教の旅は、3年後エルサレムでの十字架刑によって終わりました。私たちの罪を負っての十字架での死です。「波多野先生、チョットまってください。主の十字架は私たちが生まれる2000年も前の出来事です。なんで、それがまだ生まれてもいない私たちの罪の為なのですか?」 良い質問です。私たちが罪と無縁でない。すなわち「神と自分と隣人を愛する」ことと隔たりがあることはいつもお話ししていますから繰り返しません。私の罪と主の十字架の出来事が無関係だとしましょう。そうであれば、犯した罪の責任は、当然自分で負わなければいけません。そして罪のもたらす結果は体と魂の死です。体の死は神様が相応しいと思われる時に必ずやってきます。問題は魂の死、即ち神様との断絶です。希望のない全くの暗闇を私たちの心はさ迷わなければなりません。しかし、キリストの十字架と復活の出来事は、キリストに従う者に永遠の命が与えられることを保証してくれます。そして永遠の命とは私達の心と体が永遠に神様の愛の中に置かれるということなのです。ヨハネによる福音書 11章25節 イエスは言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生いきる。」 これが主の与えてくださる福音、喜ばしい知らせの内容です。私たちが罪を犯す前から判決文であり処方箋はすでに明らかになっているのです。
天地創造からキリストの十字架と復活の出来事までをたどって来ました。2022年に生きる私たちにとって、いかに大切な出来事なのかを見て来ました。聖書はこの後、教会の誕生と、教会が様々な問題を抱えながらも聖霊に導かれて発展していく様子を伝えています。「旧約聖書の語る時代」「地上で主イエスが活躍された時代」、そして「聖霊に導かれた教会に宣教が委ねられている時代」を語った後に、「ヨハネの黙示録」がやがて必ずやって来る「終末」について語るのです。ヨハネの黙示録は、その視点を人類の歴史の終わり、即ち神様の支配が完全に世界を覆う「終末」の時に置いて、そこから現在起こっていることを眺め、苦しみの中にある教会を励ますとともに神様の裁きを語ります。
1章4節から6節です。ヨハネからアジア州にある七つの教会へ。今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、また、玉座の前におられる七つの霊から、更に、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン。アジア州とは現在のトルコにあたり、使徒パウロは3回の伝道旅行で多くの教会をたてました。七つの教会、七つの霊とあります。7と言う数字は天地創造が7日でなされたことからユダヤの伝統では完全数であり、聖なる数とされており、「全体」あるいは「全て」と言う意味も持っています。七つの教会へ向けられたメセージはまた私たちへのメセージなのです。七つの霊はそれぞれの教会を聖霊が導いてくださる意味で、別々の聖霊がいるのではありません。今おられ、かつておられ、やがて来られる方 は主イエスです。 この書は主が やがて来られてなさることを語ります。ヨハネは人類の歴史の終わり、神様の支配が完全に世界を覆う「終末」の時から、現在起こっていることを眺め、苦しみの中にある教会を励ますとともに神様の裁きを語るのです。
2022年度の年間主題候補を「恵みと平和をいただいて」としたのですが、「まだいただいていないように思える。」この疑問を残してきました。多くの日本語聖書は「平和」ではなく「平安」と翻訳しているのですが、状況は同じです。「平和」とは思えない状況、「平安」ではなく「不安」を覚える状況が私たちを取り囲んでいます。しかし、「平和」であり「平安」を最も嫌うのが悪魔です。残念なことに悪魔は自分が世界の王だと言わんばかりに振舞っている、そんな現実があります。しかし、このヨハネ黙示録は「終末」の出来事をハッキリと伝えます。神様の国、神様の支配の完成をハッキリと伝えるのです。 使徒パウロは次の様に言っています。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。ローマの信徒への手紙 12章19節です。ヨハネの黙示録はこのパウロの言葉の裏書をして保証を与えてくれています。
年間主題の候補「恵みと平和をいただいて」において「すでに、いただいているんだ」と言い切る根拠があります。「平和」と「平安」のために私たちに与えられている判決文であり処方箋がすでに明らかになっています。『主文。主イエス・キリストを救い主として信じて従う者を「罪のない者」と見なし、永遠の命を与える』 私たちはすでにこのことを知っています。ですから「恵みと平和をいただいて」なのです。そして、「いただいている者はどのように生きるのか」これを全員の課題としたいと思います。
詩篇118篇を最初に読んでいただきました。この詩はダビデが苦難の末に神様の恵みに満ちた導きによって王位に就いた時に詠んだ詩とも、あるいはバビロン捕囚から解放された詩人が詠んだ詩とも言われていますが、はっきりしません。しかし、宗教改革者マルティン・ルターは命の危険の中にあった日々を思い起して、次の言葉を残しています。「これは私が特に愛する詩編だ。なぜなら皇帝も、王たちも、学者たちや聖徒たちも、私を見捨てて誰も助けてくれなかった時に、この詩編は私の傍らにいて励まし苦悩から助け出してくれたのだから。」  
詩篇118篇は私たちが2022年度を歩み始めるに当たって、相応しい詩編です。ゆっくりお読みしますので、お聞きください。
1 恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。2 イスラエルは言え。慈しみはとこしえに。3 アロンの家は言え。慈しみはとこしえに。4 主を畏れる人は言え。慈しみはとこしえに。5 苦難のはざまから主を呼び求めると 主は答えてわたしを解き放たれた。6 主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう。人間がわたしに何をなしえよう。7 主はわたしの味方、助けとなって わたしを憎む者らを支配させてくださる。8 人間に頼らず、主を避けどころとしよう。9 君侯に頼らず、主を避けどころとしよう。10 国々はこぞってわたしを包囲するが 主の御名によってわたしは必ず彼らを滅ぼす。11 彼らは幾重にも包囲するが 主の御名によってわたしは必ず彼らを滅ぼす。12 蜂のようにわたしを包囲するが 茨が燃えるように彼らは燃え尽きる。主の御名によってわたしは必ず彼らを滅ぼす。13 激しく攻められて倒れそうになったわたしを 主は助けてくださった。14 主はわたしの砦、わたしの歌。主はわたしの救いとなってくださった。15 御救いを喜び歌う声が主に従う人の天幕に響く。主の右の手は御力を示す。16 主の右の手は高く上がり 主の右の手は御力を示す。17 死ぬことなく、生き長らえて 主の御業を語り伝えよう。18 主はわたしを厳しく懲らしめられたが 死に渡すことはなさらなかった。19 正義の城門を開け わたしは入って主に感謝しよう。20 これは主の城門 主に従う人々はここを入る。21 わたしはあなたに感謝をささげる あなたは答え、救いを与えてくださった。22 家を建てる者の退けた石が 隅の親石となった。23 これは主の御業 わたしたちの目には驚くべきこと。24 今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。25 どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを。26 祝福あれ、主の御名によって来る人に。わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する。27 主こそ神、わたしたちに光をお与えになる方。祭壇の角(つの)のところまで 祭りのいけにえを綱でひいて行け。28 あなたはわたしの神、あなたに感謝をささげる。わたしの神よ、あなたをあがめる。29 恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。祈りましょう