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山形六日町教会

2022年4月17日

聖書:イザヤ書53章6~8節 ヨハネによる福音書20章19~31節
「平和があるように」波多野保夫牧師

イースターおめでとうございます。この日、主は復活なさいました。大きな喜びを覚えつつ聖書の証言によって、主が私たちに「何を語られ」「何を求めていらっしゃるのか」聞いて参りたいと思います。本日与えられましたヨハネ福音書20章は、日曜日の朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアが主イエスの葬られている墓に行ったところ、石が取りのけてあるのを見た。この様に語り始めます。彼女は戸惑いの内に、ペトロともう一人の弟子の所に走っていって「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」この様に告げたのです。ペトロが墓で見つけたのは死者をくるむ亜麻布だけでした。9節に「イエスは必ず死者の中から復活されることになっている」という聖書の言葉を、まだ理解していなかったのである。とあります。彼らが家に帰った後も墓の外で泣いていた彼女は、「マリア」と呼びかける声を聴いたので振り向くと、それは主イエスでした。マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた のですが、弟子たちは主イエスの復活をにわかに信じることは出来ませんでした。
ほんの三日前に、自分たちを導いてくれた愛する主イエスは、宗教指導者たちの手によって捕らえられ裁判が行われました。ローマ総督ピラトは訴えに根拠がないことを知りながらも「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」と叫び続ける群衆の声に負けて、主を鞭打った上で十字架に架けたのです。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」主イエスの最後の叫びが今も聞こえてきます。そんな彼らは大いなる悲しみに沈むと同時に、今度は弟子だった自分たちが捕らえられるのではないかとの恐怖におののいていたのです。
20章19節。その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。のです。「あなた方の心が不安に覆われてはいけない。神様の愛が見えなくなってしまうから。私はここにいるではないか。安心しなさい。」この意味をこめて語られました。イースターの日の夕方に家の戸にカギをかけて隠れていた、イスカリオテのユダとトマスを除いた10人の弟子たちと、ガリラヤから主に従ってきた女性たちに向かって、そして私たちにむかって「あなたがたに平和があるように」と言われるのです。
さて、部屋に閉じこもっていた10人の弟子たちですが、彼らはつい3日前に大失敗をした者たちです。最後の晩餐の席でペトロは「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言い、弟子たちも皆、同じように言った。とあります。(マタイ26:31-35)ユダの裏切りによって、ゲッセマネの園で逮捕された時に弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。のです。(マルコ14:50)それでも主を心配して大祭司の庭に様子を見に行ったペトロは、3度主を知らないと言い、その時鶏が鳴きました。主が支えを最も必要とされた時に失敗してしまった弟子たちです。主を愛することに於いて明らかに欠けを持った「罪人」の所に復活の主が来られて「あなたがたに平和があるように」と言われた。のです。
私はここに教会の原型を見るのです。もちろんペンテコステの日に聖霊が降って教会が誕生するには50日程の時が必要でした。しかし、キリストに従う者が集まっていました。日曜日のことです。26節には八日の後とあります。次の日曜日もまた、過ちを犯した「罪人」たちが集まっていたのです。「でも、自分はそんなことしていない。」と思われるかも知れませんが、あのパウロは自分のことを「わたしは、罪人の中で最たる者です。」(テモテへの手紙Ⅰ1:15)と言います。
いつも申し上げています。「罪」とは、「神様と自分と隣人を愛すること」の不十分さです。 「でも、自分はそんなことしていない。」と思われるかも知れません。」 これもいつも申し上げています。マタイ福音書25章です。35 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、36 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』 最も小さい隣人を愛することは神様を愛することです。こんな社会は素敵です。世界がこの様になれば、テロリストが入り込む隙や、戦争や争いの起こる余地はなくなるでしょう。マタイ福音書25章はさらに続きます。『この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』
これが「罪」だと言われてしまうのですから大変厳しい言葉です。なぜなら多くの方が最も難しいとおっしゃる「敵を愛しなさい」と言うみ言葉に重なるからです。私は自分が神様の望まれることから隔たった「罪人」だと認めざるを得ません。皆さんはいかがでしょうか? 神様は聖なる方ですから「罪」をいい加減になさいません。
ローマの信徒への手紙6章23節。罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。 「死」とは肉体の死に留まりません。神様に見捨てられる、神様との断絶と言う魂の死でもあるのです。主イエスは十字架において本来私たちが負わなければならない肉体と魂の死を代わりに負ってくださったのです。息を引き取られる際の最後の言葉は「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)と言う叫びでした。肉体と魂の死を経験なさったのです。私の「罪」の為に。
主は三日目のこのイースターの朝に復活なさいました。肉体と魂の死に対する勝利です。人の「罪」によって損なわれた三位一体の神、父・子・聖霊の神との愛の交わりの回復です。そして私たちの「罪」によって傷ついた三位一体の神の愛の関係が修復された時、主イエス・キリストに従う私たちに「永遠の命」が約束されるのです。神様の大いなるご計画を賛美します。
しかし、ここに大きな問題が残っています。それは罪を赦していただいたキリストに従う者、即ちクリスチャンがいまだに「罪」と無縁ではないことです。イースターの晩に、そしてその一週間後の日曜日に集っていた弟子たちは主を見捨てた罪びとでした。ですからその出発から教会は罪びとの集まりだということが出来ます。それでは、福音を知らない人たちと全く同じなのかと言えば、全く違います。
私たちは、日々の祈りと聖書に親しむことで、何よりも週ごとの礼拝に集うことで、自分の罪に気づく機会が与えられます。その上で私たちが立ち返るところ、それが主の十字架だと知っていることです。この真理を知ると知らないでは、人生は全く違います。イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。私たちの真ん中に主がいてくださる。聖霊が導いてくださる。そして弟子たちに、また私たちに主はおっしゃいます。21節。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」  
礼拝が終わると私たちは教会を出て行きます。礼拝堂の中で主の招きを受けた者たちが集い、豊かな時を味わったのですが、一歩外に出ればクリスチャンは100人に一人です。その99人に主の福音を伝えるために私たちは教会を出て家路につくのです。私は復活の主によってこの世へと遣わされるのです。福音の伝道は祈ることから始まります。心に浮かぶ何人かの為に聖霊の導きを祈ってください。
神様の真理を神学的な言葉で整理して説明するのは素晴らしいことですが、牧師に任せることもできます。あなたにしか出来ないこと。それは、自分が神様から愛されている、その喜びを生活の中で表すことから始まります。主はわたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。とおっしゃってくださいます。困っている人の為に祈り親切にすることは、立派な伝道です。その上で礼拝に招いてください。私たちは大きな働きをしたペトロにはなれないかも知れませんが、ペトロを主のもとに連れて行ったアンデレにはなれるのです。22節23節。そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」創世記2章7節。 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。
主を裏切り、今は逮捕を恐れる弟子たちは、主イエスから聖霊をいただき、生きる者、神様との和解を心と体で感じる者に変わりました。教会の誕生は50日ほど後のペンテコステの日になりますが、一足先に復活の主から聖霊を頂いた者たちは、その準備を始めたのです。
続いて赦しの権能について語られます。理解の難しい言葉です。かつて、中風の人を友人たちが屋根をはがしてイエス様の目の前に吊り降ろしたことがありました。主は彼らの信仰を見て「人よ、あなたの罪は赦された」と言われました。その時律法学者たちは「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」この様に言ったのです。(ルカ福音書5:17-26) 確かに、罪を赦すことは神様だけにしかできません。それでは私たちは何をするのでしょうか。何が出来るのでしょうか? 二つあります。私たちに意地悪をする者、不利益を与える者の為に祈る、敵を愛し敵の為に祈るのです。大切ですが難しいことです。私はいつもお勧めしています。「あの、ひどい波多野が神様に近づきます様に!」この様に祈ることで始めてください。二つ目は私たちがイースターの出来事を知っているから出来ることです。復活された主イエスの御許へと導くことです。具体的には教会に誘うのです。祈ることから始めてください。すでにお話ししました。ペトロにはなれなくてもアンデレにはなれるのです。
教会がこの世に存在する大切な意義の一つは福音を伝えることです。私たちが地上に生を受けやがて神様の御許へと帰る。私たちに与えられた人生の大切な意義、生きる意義の一つは福音を伝えることです。主はおっしゃいます。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」 20章24節以下は次の日曜日の出来事です。この日は「疑り深いトマス」も一緒ですが、やはり戸に鍵をかけて閉じこもっていました。主は先週と同じように彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われました。彼らの抱く恐れは一度お会いしただけでは去らなかったようです。み言葉によって勇気が与えられるには時間がかかるようで、チョット安心すると同時に、毎週毎週この様に礼拝を重ねていく必要を思わされます。
ディディモと呼ばれるトマスについて見て行きましょう。ディディモは双子と言う意味ですが、聖書にその説明はありません。24節から25節です。24 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。25 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」 「疑り深いトマス」とか「疑いのトマス」などと軽蔑の意味を込めて呼ばれます。私たちはどうでしょうか? ことわざに「百聞は一見にしかず」といいます。人にくどくど聞くよりも、自分で見た方が確かだし、良く分かると言った意味です。確かに私たちが得る情報の8割は視覚によるそうです。しかし、錯覚や見間違いもあります。さらに「人は自分が見たいものだけを見て、信じたいことだけを信じる。」と言われます。正常化バイアスと呼ばれ、大きな自然災害が起きた時に、安全でありたいという思いからが、危険性を無視してしまうのだそうです。残念ながら「見ること」もそれほど確かではなさそうです。
現代において、キリストの愛を見ようとしない大勢のトマスがいますし、私自身の中にもトマス的なこと、神様が証拠を見せて下されば信じます。この様な面があることは、残念ですが否定できません。主はトマス向かっておっしゃいます。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 この「疑り深いトマス」は、この場面の他にヨハネ福音書に3回登場しています。まず11章16節です。 すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。マルタとマリアからイエス様に「ラザロが重い病気なので来てください」と連絡があったのですが、このころすでに宗教指導者たちは主をとらえようと必死になっていました。ベタニヤはエルサレムの郊外にありますから、ラザロを訪問するのは危険です。イエス様が「ラザロの所に行く」と言われた時に他の弟子たちは黙っていたのですが、「疑り深いトマス」は「ご一緒します」とハッキリ言ったのです。十字架の時が迫って来ます。ペトロが「あなたのためなら命を捨てます。」と言うと、主は「鶏が鳴くまでに、3度私を知らないという。」とおっしゃり、弟子たちに「あなたがたのために場所を用意しに行く。その道をあなたがたは知っている。」と言われた時のことです。14章5節。トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」 主の答えです。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」 愛して止まない主に従うトマスが見て取れます。

本日の聖書箇所20章27節です。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」主はトマスの求めた通りに受けた傷を示されました。私たちの場合はどうでしょうか。体に受けた傷や心の傷を隠したくなるのではないでしょうか。週報の裏にカラヴァッジョと言う画家の絵を載せました。この絵が聖書と違っているところに気づかれたでしょうか? そうです、トマスが主の傷口に触れているところですね。この画家の聖書解釈です。死に勝利なさった主は、私たちの罪の故に受けた傷に触れる様に招いてくださっているのですが、触れるためには主に近づく必要があります。そして主イエスに触れることによって主が本当に私たちの抱える痛みを知ってくださる方であり、主の愛がいかに深い愛なのかを知るのです。これは 信じない者ではなく、信じる者になるためなのです。28節。トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。一番「疑り深いトマス」の言葉です。実はこのヨハネ福音書の中で「主イエスを神」と呼ぶのはここだけです。その証言を聖書を通して私たちに伝えているのが一番「疑り深いトマス」なのです。29節。 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
私たちは復活の主を信じる幸いです。直接主を見ていなくても信じています。まだ信仰に至っていない方は、信じて幸せな人生を送る様にと招かれています。トマスはこの後どうなったのでしょうか? 弟子たちは鍵をかけた部屋から出て出身地ガリラヤ湖で再び復活の主にお会いしました。ヨハネ福音書 21章2節。シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒いっしょにいた。トマスは聖霊を受けた他の弟子達といっしょにペンテコステに向かって備えの時を送っていたのです。さらに教会に伝わる話では、彼はインドまで行って主の福音を伝えたそうです。
ヨハネの福音書を通して主の復活の出来事を聞いて来ました。20章31節です。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。「疑り深いトマス」は復活なさった主を信じ従う者となりました。私たちも復活の主に従って行きたいと思います。イースターおめでとうございます。この日、主は復活なさいました。祈りましょう。