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山形六日町教会

2022年3月6日

聖書:ダニエル書4章6~9節 マルコによる福音書4章21~32節
「三つのたとえ」波多野保夫牧師

3月を迎えました。なかなか終息を見せない感染症、再び始まった戦いの日々、さまざまな物の値段が高くなっていくことは、我々の生活への影響にも増して従来から食料不足に苦しんで来た世界の子供たちに、さらなる苦難を強いるだろうと言われます。重い課題が迫っている昨今ですが、この山形の地に春が近づいて来ているのは確かです。世界全体への春の訪れ、平和の回復を祈りたいと思います。さらに3月は新しい年度に向けて様々な準備が進められる時です。若い人たちには入園、入学、進級、進学、就職など大きな変化への備えの時であり、学校や職場、社会においても、また教会においても新しい年度に向けての準備が進められます。その全てにおいて、神様のみ心がなります様に。私たちの祈りが聞き入れられます様にと願います。
さて、先週の水曜日、3月2日は「灰の水曜日」でした。この日からイースター前日までの40日間ですが、主が復活なさった日曜日はこの数に入れないので実質46日間をレント・受難節、あるいは四旬節と呼びます。主イエス・キリストの十字架の出来事、即ち私たちの罪をご自分の血で贖ってくださったことを強く心に覚えて過ごします。
もともとこのレントはイースターに行われる洗礼式の準備の期間で、洗礼志願者は訓練を受け、断食と祈りの中で過ごしました。40日は主が荒れ野で悪魔の誘惑を受けられた期間です。レントの習慣は2世紀の初代教会に起源が見られるそうです。主イエスは「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(ヨハネ3:3)この様におっしゃいました。自分が新しく生まれ新しい命をいただく洗礼の日を主の復活の日に重ねたのは素晴らしい習慣です。日本ではクリスマス礼拝で洗礼を受ける方が多いのですが、ヨーロッパでは圧倒的にイースター礼拝においてです。でも安心してください。どの日が良いかは、生涯その大切な日を覚えておくのに便利だという以上の意味はありません。教会は主の復活の日を覚えて日曜日に礼拝を守り、その大切さに差はありません。 肝心なのは、私たちが主の十字架に依って「贖われ」「生かされている」現実です。ちなみに私は1966年10月2日の主日礼拝で洗礼を授けて頂きました。
二つほど言葉の意味を補っておきましょう。「罪の贖い」です。「贖う」とは「何かを犠牲にして買い求める」程の意味で、主がご自分の命を犠牲にして私たちの罪を買い取る・担ってくださったことを意味します。ですから2000年前の十字架の出来事によって人の罪はすでに贖われました。ですから、主イエス・キリストを救い主と告白して主の愛の中を歩む時、即ち聖霊によって洗礼を授けて頂くことで、私たちは罪のない者と見なしていただき、永遠の命に与る希望が与えられるのです。これが「罪の贖い」です。
次に「灰の水曜日」ですが、先ほど申しました様に、イースターの46日前からレントに入りますから、その初日は自動的に水曜日になります。旧約聖書の時代、災いや困難は、罪の結果神様から与えられた罰だと考えられており、罪の気づきを与えられ者は、粗布を身にまとい灰を被って神様に立ち返るしるしとしたのです。灰は脂肪を分解したり、あく抜きに使われており、悔い改めの象徴として相応しいものでした。
ダニエル書 9章3節。 わたしは主なる神を仰いで断食し、粗布をまとい、灰をかぶって祈りをささげ、嘆願した。さて、レントに入りますとダニエルの断食をお勧めしています。初代教会で洗礼準備をする者は46日間野菜と水だけしか口にしなかったのですが、ダニエルの断食では、何を幾日断つのかは自分で決めます。それを食べたい飲みたいと思う度に、主イエスの苦しみを思い起こすのです。生活の中で十字架の恵みを思い起こし、感謝する一つの手段なのです。毎年のことですから詳細は申し上げませんが、来週発行予定の月報に記しますのでお読みください。
さて、この説教シリーズ「たとえて言えば」では、大切な教えをマタイ福音書から聞いて来ましたが、今回からマルコ福音書にうつります。出来るだけ重ならない様に聞いて行きたいと思います。マルコ福音書4章26節以下では「神の国」とはどの様なものなのかを語られました。人が土に種を蒔いて、 夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。種を蒔いたら後はほったらかしにしている。日本のお百姓さんでは考えられないことですが、当時のパレスチナの様子が4章3節以下にある「種を蒔く人」の譬えから知られます。農夫が蒔いた種は、道ばたに落ちたり、土の薄い石地に、あるいはいばらの中に落ちたというのです。そして良い地に落ちた種だけは、はえて、育って、ますます実を結び、三十倍、六十倍、百倍にもなった。この様にあります。粗放農業と言うのでしょうか、お相撲さんが土俵で塩をまくような種まきです。そして蒔かれた種はみ言葉です。やわらかい心で受け止めれば主イエス・キリストへの信仰として育っていきますが、この世の物事に心を奪われるのであれば、実を結ぶことはありません。
譬え話は全てをご存知の主が語られたものですが、身近な話題を用いて、真理を分かり易く語られたのであって、パウロの手紙の様に教理的に整理されたものではありません。ある幅を持った解釈が可能です。例えば「私はキリスト教からほど遠い環境でそだった。だから茨の中に蒔かれた種であって、信仰がぐらついても仕方がない。」 本当でしょうか? 実は、私たちに与えられたみ言葉は、本来良い土地に蒔かれた種なのです。先輩と教会の祈りによって、主イエス・キリストを知ったからです。私たちの心の中で信仰の種は育っていきます。そうでないとしたら、主の愛から目をそそらした隙に、茨が心を覆ったのでしょう。
4章29節。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。聖書が語る収穫の時とは、主が約束された終末の時、真の平和が実現する「最後の審判」の時です。しかし、個人的な終末、神様の御許へと召される時と読むのも良いでしょう。どちらもクリスチャンにとっては恵みの時であり安らぎの時だからです。
種まきから実りの時まで、まず茎、次に穂、そして豊かな実と言った段階を踏む必要があります。一足飛びに収穫は出来ません。ユダヤ人の中には、ローマ帝国と戦って一気にダビデ王の時代の王国を再建しようとする過激派集団がおり、60年代になるとユダヤ戦争が起こりました。結果はローマによってエルサレムは完全に破壊され、神殿も瓦礫となってしまいました。主が私たちに望まれるのは、信仰の種が成長して人々の心が主の愛によって満たされていく、根気と忍耐を必要とすることなのです。
パウロの言葉を二か所読みましょう。アポロと言う旧約聖書を良く学び、その上で主の福音を熱心に語った優れた伝道者(使徒言行録18:24-28)がコリント教会に現れると、教会内が「わたしはパウロ先生につく」「わたしはアポロ先生に」となりました。
コリントの信徒への手紙Ⅰ 3章5節から7節をお読みします。 3:5 アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。6 わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。7 ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。 教会の中に党派争いはそぐいません。成長させてくださる教会の頭は主イエス・キリストお一人です。
もう一か所はコリントの信徒への手紙Ⅱ 9章6節。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。 私たちが蒔くべきものは主イエス・キリストの愛、即ち主の福音です。2週間前の礼拝で主の言葉を聞きました。
「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた。だから「神の国」を受け継ぎなさい。」「いつそんなことをしたのでしょうか?」と問うのに対して『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』 私たちは祈りをもって主イエス・キリストの愛を届けるのです。そして自分が頂いた最高のものを隣人と分かち合うのが伝道です。諸先輩と教会の祈りによって私たちの心に蒔かれた信仰の種です。神様が成長させてくださるのです。
4章30節以下に「からし種」のたとえがあります。からし種は、地中海地方に生える草で数メートルの丈に成長しますが、その種は数ミリと大変に小さいのだそうです。「神の国」はそんなからし種に似ているとおっしゃるのです。数ミリと大変小さく始まり、そして数メートルの丈にまで成長する。しかも草でありながらしっかりした木の様になり、えだに鳥が巣を作るまでに成長するのです。
最初に旧約聖書ダニエル書4章6節以下を読んでいただきました。占い師の長ベルテシャツァルとあるのは、捕囚時代にバビロンの宮殿でネブカドネツァル王に仕えたダニエルです。神様から力を与えられていた彼が王の見た不思議な夢を読み解く場面です。4:17 御覧になったその木、すなわち、成長してたくましくなり、天に届くほどの高さになり、地の果てからも見え、18 葉は美しく茂り、実は豊かに実ってすべてを養うに足り、その木陰に野の獣は宿り、その枝に空の鳥は巣を作る、19 その木はあなた御自身です。あなたは成長してたくましくなり、あなたの威力は大きくなって天にも届くほどになり、あなたの支配は地の果てにまで及んでいます。 イエス様は旧約聖書の語るこの出来事を用いて「神の国」を語られました。私たちの心に蒔かれたからし種の様に小さな小さなみ言葉、信仰の種は大きく成長するのが当然なのです。心の中に茨を茂らせてはいけません。
からし種について主が述べられた言葉が他にもあります。お読みします。ルカによる福音書 17章20節です。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」主イエスのこの言葉。信仰があれば何でもできる、あるいは信仰をもって願えばかなえられる。なんて非科学的な言葉だろう。山が移るわけないじゃないか。もちろんこれは比喩的表現です。しかし、実際に山は動きます。今日では大陸移動説は広く受け入れられていますし、山の中から貝殻の化石が出ます。ダンプカーで山の土を動かすことも可能です。“山をも動かす”とは実際には起こり得ないことが起こることです。
一つの例をあげましょう。2000年前のパレスチナの地から地球の裏側にあります山形六日町教会に今私たちが集って礼拝をささげています。そしてこの場にこの私が加わっている。これはまったくの奇跡です。
皆さんが生まれた時からのことを考えてみてください。多くの偶然が重なって重なって、さらに重なって、今この礼拝に集っているのではないでしょうか。私たちの目からは山が動くほどの偶然ですが、それは神様の目から見れば必然的なこと、神様の愛のご計画に沿ったことなのです。
ところで、あなたに蒔かれたからし種ほどの信仰は育っているでしょうか? 信仰が成長するための最良の方法は、毎日聖書に親しみ祈る。そして週ごとの礼拝に集うことです。これは大きな恵みに違いありません。そのことを覚える私たちは、礼拝に集うことが叶わない方のために祈るのです。
4章21節以下、「ともし火」と「秤(はかり)」のたとえです。イエスは言われた。「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。」譬え話ですから異なった解釈が可能です。一つは、あなたの与えられた信仰のともし火を隠してはいけない。ハッキリと掲げて世の中を明るく照らしなさい。信仰はその為に与えられているのです。素直な理解でその通りです。以前お話ししたのですが、私は会社に勤務していた時には信仰を明らかにしませんでした。クリスチャンは品行方正と見られるところがあって、自分とのギャップが重荷だったのです。この状態を「隠れキリシタンだった」と言ったら、「「隠れキリシタン」は厳しい迫害の中で懸命に信仰を守り通したので、勇気がなかっただけのあなたがそれを言ったら「隠れキリシタン」に失礼だ。」と叱られてしまいました。実は7年前、「あのお前が牧師なのか。ゴルフに付き合わなかったのは教会に行くからだと知っていたけど。」こう言って同期入社の友人たちが訪ねて来て礼拝を一緒に守ってくれました。まさに「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。」でした。現在はZoomで会うことしかできないのですが、教会の話題から先に進めないもどかしさを覚えています。確かに、ともし火は燭台の上に置くべきです。
もう一つの解釈です。実は、旧約聖書に「ともし火」にたとえられる人物が登場します。列王記上11章36節。 わが僕ダビデのともし火がわたしの前に絶えず燃え続けるようにする。列王記下8章19節。 主はその僕ダビデのゆえに、ユダを滅ぼそうとはされなかった。主は、ダビデとその子孫に絶えずともし火を与えると約束されたからである。 そのダビデの子孫に現れたこの世に真理を告げるともし火、それが救い主イエス・キリストです。
実はこのマルコ福音書において、主はご自分がメシア、即ち救い主だということをしばしば隠そうとなさっています。「メシアの秘密」と呼ばれます。これはイスラエルの人たちが期待したメシアはローマ帝国から解放してくれるダビデ王の様な英雄であり、十字架上で殺されてしまう弱い人間ではなかったからなのです。主が本当のメシア、しかもそれは時間も空間も越えて2022年の日本の私たちも含めてのメシアだと明らかになったのは十字架と復活の出来事まで待たなければなりませんでした。
21節以下です。私が「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。」 そうです。聖書が証言する、十字架と復活の出来事によって、主イエス・キリストが救い主であり、私たちが本当に信じ従って行く方だとハッキリ知るのです。それを知っている私たちは、「ともし火」即ち主の福音をハッキリと掲げ相応しく行動するのです。大きな喜びです。24節。 また、彼らに言われた。「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。」 私たちの救い主が主イエス・キリストであることをハッキリと告白して愛のみ言葉に聴き従うのかどうか、その程度によって与えられるものが違うのだ。この様に理解するのは表面的過ぎます。神様は全ての者に同じ恵みを与えてくださっています。
主のみ言葉です。わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。(マタイ5:44,45)
しかし、与えられている恵みをどれだけ恵みだと理解できるのか、感謝して受け取れるのか。ここに差があるのです。25節。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。 心を柔らかくしてみ言葉を受け入れる人は、ますます主の愛が見えるようになります。み言葉に心を閉ざすことは、悪魔の誘惑に心を開くことです。23節。 聞く耳のある者は聞きなさい。 心を開いて聖書が語る主のみ言葉を受け入れる。そして隣人と分かちあう。これが幸せの法則です。祈りましょう。