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山形六日町教会

2022年2月13日

聖書:申命記6章4~7節 ペトロの手紙Ⅱ1章5~11節
「神の素晴らしい約束」波多野保夫牧師

説教シリーズ「あなたへの手紙」の12回です。この説教シリーズでは、新約聖書に収められている21の手紙、これらは著者も宛先も、書き送られた目的もそれぞれ違いますが、その全てが神様の霊感、即ち聖霊の働きの下に書かれ、そして一冊の聖書として編纂されています。ですから2000年後の今日において、そのすべての手紙は、あなたに、そして私に配達されているのです。郵便屋さんは聖霊でしょう。届けられた手紙をしっかりと読み、そして返事を書いていく。これがこの説教シリーズの目的です。
前回まで、7回にわたってペトロの手紙Ⅰからみ言葉を聞いて来ました。迫害の中にある異邦人を中心とした教会がキリストの再臨の時、裁きの時を希望を持って待ち望むなら、その試練は信仰を純粋なものへと鍛えてくれるのだ。神の恵みの管理者としてたてられているあなた方は何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。この様に力強く述べていました。聖書に収められている各巻について、いつだれが書いたものなのかが議論されます。書かれている内容とその意図を正確に理解し読み解くためなのですが、真の著者は聖霊です。ですから聖書としての価値には全く影響しません。そのことを前提に、聖書神学者の多くは、「ペトロの手紙は使徒ペトロよりも後の時代、すなわち、キリスト教の信者が増え教会が発展していくとともに、激しさを増していった迫害の時代にあって、ペトロやパウロの殉教を知っていた弟子が、彼らの信仰に立って書き送った。」この様に述べます。現在では人の名前を勝手に使って手紙を書き送ることは許されませんが、当時尊敬する人物の名前を用いることは美徳とされていました。
本日から2回に渡って、ペトロの手紙Ⅱを読みたいと思います。実はその著者について、多くの聖書学者たちはⅠとⅡでは違う著者だと言います。その主な理由はⅠで用いられているギリシャ語は、新約聖書の中で最も洗練され威厳があるのに対して、Ⅱは粗削りで力強く両者は全く違うそうです。私にはまったくわからないのですが、聖書は2000年に渡って深く深く研究されて来た書物です。その上で私たちは主の福音を安心して聞くことが出来るのです。もちろん神学は信仰そのものではありません。小難しい議論と聖霊が導いてくださる主イエスを愛し従う心とは別だと言って良いでしょう。しかし、神学は、信仰がよって立つ土台をしっかりと支えてくれているのです。「イワシの頭も信心から」と言われます。「節分に鬼除けとして軒先につるしたイワシの頭もそう信じればありがたいものだ」こんな意味でしょうか。私たちの信じる三位一体の愛の神は、イワシの頭ではありません。生きて私たちの日々の歩みの中に働いてくださる神様なのです。
さて、ペトロの手紙Ⅱですが、先の手紙と同じようにアジア州、現在のトルコに立てられた異邦人教会に宛てた全体で3章と言う比較的短い手紙です。1章ではキリストの福音の中をどの様に生きて行くべきかを述べています。本日はこの1章を読んで行きますが、2章には「偽教師についての警告」と言う小見出しが付けられています。当時の異邦人教会は外からの迫害だけでなく、教会にやって来る偽教師たち、即ち間違った主の福音を伝えるだけででなく、自身は退廃した生活に陥っていた偽教師によっても苦しめられていたのです。3章では、その様な状況にあってなお、主イエス・キリストの再臨、終末の日に希望を持つことが出来るのだ。しっかりと備えなさい。主が「10人の乙女のたとえ」を用いて語られたことを、彼の言葉で語り直します。「あなたへの手紙」第13回でご一緒に読みたいと思います。
さて、1章3節です。 主イエスは、御自分の持つ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださいました。 私たちは主イエス・キリストによって神の愛の中を生きる素晴らしさを知る者となったのです。4節。この栄光と力ある業とによって、わたしたちは尊くすばらしい約束を与えられています。それは、あなたがたがこれらによって、情欲に染まったこの世の退廃を免れ、神の本性にあずからせていただくようになるためです。 ペトロは 情欲に染まったこの世の退廃を免れ と言います。もちろんいつの世にあっても気を付けなければなりません。しかし、2章に登場する偽教師たちは、主の福音を語りながら彼らは退廃した生活を送っていたのです。2章1節以下に次の様にあります。あなたがたの中にも偽教師が現れるにちがいありません。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを贖ってくださった主を拒否しました。自分の身に速やかな滅びを招いており しかも、多くの人が彼らのみだらな楽しみを見倣っています。彼らのために真理の道はそしられるのです。 
教会は外からの迫害と、内からのみだらな退廃の危機に直面していたのです。そんなアジア州の教会に向かって、そして2000年後の私たちに向かって、ペトロは5節から7節で8つの階段を進んで行くように求めます。「信仰」、「徳」、「知識」、「自制」、「忍耐」、「信心」、「兄弟愛」、そして「愛」の8つです。一つずつ丁寧に見て行きましょう。
最初に「信仰」です。私たちの全ての行いや思いは元をたどればここに至るからです。宗教改革者たちが救いに至るのは「信仰のみ」この様に主張したことが思い起されます。何か良いことをする。功徳を積むというのでしょうか? これは信仰ではありません。もちろん隣人を愛すること、いわゆる善い行いは大切ですが、それは主イエス・キリストの愛を信じて従って行くときに、自然に出てきてしまうものなのです。
ペトロは言います。あなたがたは、力を尽くして信仰には徳を、加えなさい。「徳」とあります。いざ「徳」とは何かと問われると良く分からなくなってしまうのですが、辞書には「社会通念上よいとされる、気質や能力」とあります。しかし、私たちにとっては「キリストの持つ魅力を映し出すこと。反映すること。」と言って良いでしょう。パウロの言葉を借りれば すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値すること。(フィリピの信徒への手紙4:8)この様になりますが、これって主イエス・キリストご自身ですね。
ヨハネの手紙に次の言葉があります。3:2 愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。私たちキリストを知り、キリストを礼拝する者はすでに神の子なんだ。だから神様を父と呼ぶことが出来るのだ。 しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。(ヨハネの手紙Ⅰ 3:2) 神の御子が再び来てくださる時、即ち終末の時に私たちは主イエスにお会いして主イエスの愛を完全に知る様になるのだ。この様にヨハネは言います。
終末の時に神の国は完全な形で地上にやって来るのですが、その先駆けとしてすでに神の国は教会おいてやって来ているのです。私たちは週ごとの礼拝において、主イエス・キリストにお会いしているからです。聖書の証言とその解き明かしとしての説教、さらに聖礼典は十字架で示された主イエス・キリストの愛を明確に示してくれます。だからこそ、私たちは「キリストの持つ魅力を映し出すこと。反映すること。」すなわち、「神と自分と隣人」を愛すことが出来るのです。これが、賢い乙女の様に「油」を用意することであり、私たちの信仰に「徳」を加えることなのです。
ペトロは続けます。あなたがたは、力を尽くして、「徳」には「知識」を加えなさい。現代の学生さんは学校で沢山の「知識」を学び自分のものにする必要があります。暗記したり理解したりすることが求められ、節々でテストや試験を受けなければいけません。会社でも、農家でも、商店でも、役所でも知識が求められます。様々な教養講座も開かれています。そして、それぞれが私たちの暮らしであり人生を豊かなにする大いなる可能性を持っています。なぜ、このようなまだるっこしい言い方をするのかと言えば、先日東大受験の準備が進まないことを苦にした高校2年生が、大学入学共通テスト会場の前で受験生をナイフで刺す、たいへんショックな事件が起きたからです。学歴偏重主義の弊害、と言ってかたづけられないと感じました。解決は、「真の知識」を皆が持つようになる以外にはないと思いました。もちろんここで言われている知識は「キリストを知る知識」です。
パウロの言葉を3つ聞いてみましょう。知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。(コロサイの信徒への手紙2:3) だとすれば、主イエス・キリストの十字架が私たちに示してくれる、「主の愛」を知り神を畏れ敬うことが真の「知恵」なのです。
パウロの2つ目の言葉です。「我々は皆、知識を持っている」ということは確かです。ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。(コリントの信徒への手紙Ⅰ 8:1) もちろん最先端の学問を研究することは大切です。私たちの生活を豊かにしたり、飢餓から救ったり、病気を癒したり、神様の創造の御業の豊かさを知るからです。しかし、「神と隣人を愛すること」から離れた知識の発展に力を注ぐのであれば危険です。人を高ぶらせ、神様を低くするからです。
パウロの3つ目の言葉です。12:7 また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。8 この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。10 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。(コリントの信徒への手紙Ⅱ 12:7-10) 確かに私たちは何かに打ちのめされた時、人生に於いて挫折を感じた時に、思いあがっていられないでしょう。ですから彼に与えられた辛い棘は神様からの恵みなのだと言うのです。パウロは「真の人」として来てくださった、主イエスの深い愛を知りました。そしてこれこそが最高の知恵であり知識なのです。
ペトロは続けます。あなたがたは、力を尽くして、「知識」には「自制」を加えなさい。「自制」とは自分の欲望に支配されないことでしょう。チョットしたズルに始まり、この位ならいいだろう、みんなやってるし。思い当たることがたくさんあります。このペトロの手紙Ⅱでは、偽教師たちが信仰と倫理は別のものだとして放蕩生活に浸っていたことが問題とされていますから、情欲に支配されないことも意味します。真の知識、キリストの愛を知る知識が「自制」を生み出します。キリストの愛が支配するとは、私たちの心にキリストが住んで下さりその支配に服従することと、私たちの教会が頭なるキリストの支配に服従することです。先週の礼拝で次の様に申し上げました。【私たちは神の奴隷であり、キリストの奴隷なのだというのです。「波多野先生。神様の恵みを感じますし、感謝しています。しかし、神様の奴隷だなんて嫌です。」安心してください、神様はあなたの自由を奪おうとなさっているのではないのです。本当の自由を与えようとしていらっしゃるのです。チャント主と結ばれていることを保証する言葉だと思ってください。そうでないと、私たちはすぐに「罪の奴隷」あるいは「悪魔の奴隷」になってしまいます。悪魔の強烈な誘惑に負けないためには、主にしっかりと結びついている必要がありますが、私たちの力で主に結びついている、抱き着いているのでは弱すぎます。主のほうで私たちを抱きしめていてくださる。それをパウロは「神の奴隷」、「キリストの奴隷」と言う言葉でハッキリと述べたのです。主の言葉を思い出してください。】この様に申し上げてヨハネの福音書から、「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」とおっしゃった箇所をお読みしました。ペトロは「自制」しろと言いますが、その最良の方法は「主の奴隷」になることです。いかがでしょうか?
あなたがたは、力を尽くして「自制」には「忍耐」を加えなさい。私たちの人生に必ずや起こる苦難や困難の時に、悪魔の誘惑に負けないで耐えなさい。主が共にいてくださるのですから。神様から離れない。主の教会につながり礼拝を大切にする。聖書に親しみ祈りを大切にして神様との対話を絶やさない。これでは悪魔が付け入るスキはありません。
さらに「忍耐」する時のコツがあります。それは目先のことではなく、先のことを見るのです。死の先を見れば「神の国」が見えるでしょうが、そこまで先でなくても良いのです。先のことを思い描くことで、希望を見出せます。希望はわたしたちを欺くことがありません。ローマの信徒への手紙5章5節です。あなたがたは、力を尽くして「忍耐」には「信心」を加えなさい。
私たちの信仰は神学の土台の上に立つ信仰です。「いわしの頭」ではありません。聖書がハッキリと証言する三位一体の神、愛の神への信仰です。 あなたがたは、力を尽くして「信心」には「兄弟愛」を加えなさい。兄弟愛とは教会の兄弟姉妹への愛です。近しい関係に煩わしさが伴うことは2000年間変わらないのでしょう。ヨハネは次の様に言っています。 「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。 神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。(ヨハネの手紙Ⅰ 4:20,21)
ペトロが命じる最後の8つ目は、あなたがたは、力を尽くして「兄弟愛」には「愛」を加えなさいです。いつも申し上げている主イエスのご命令「神と自分と隣人を愛しなさい」ですね。律法の専門家が試そうとして「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」(マタイ22:35-40)と尋ねた際、先ほど寒河江長老に読んでいただいた旧約聖書を引用して答えられました。 申命記6章では あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。そして 子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。子供たちに教えるには私たちが座っていても歩いていても寝ても起きても主を愛する者でなければなりません。正に「神様の僕です」
レビ記19章18節です。 復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。忘れてはならないことは自分自身をチャント愛することです。もちろん「自己実現の為なら何でもする」と言うのではありません。 主イエスのご命令です。 わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。(マタイ5:44)大変難しいことですが、これが本当に自分を大切にすること、自分を愛することなのです。なぜなら、主が喜んでくださるからです。この意味で「主イエスの僕」であることが大きな恵みなのだと理解していただけるでしょうか?
「信仰」、「徳」、「知識」、「自制」、「忍耐」、「信心」、「兄弟愛」、そして「愛」について丁寧に見てきました。 1章8節9節 これらのものが備わり、ますます豊かになるならば、あなたがたは怠惰で実を結ばない者とはならず、わたしたちの主イエス・キリストを知るようになるでしょう。これらを備えていない者は、視力を失っています。近くのものしか見えず、以前の罪が清められたことを忘れています。 主イエスの十字架上での死によって、罪の問題が既に解決していること。救い主、イエス・キリストに従う私たちは、罪のない者と見なしていただけることを忘れてはいけません。「忍耐」の必要な時には、近くだけではなく遠くを見る必要について語りました。しかし、順調な時、うまくいっている時にも遠くを見る必要があります。中世の修道院での朝の挨拶は「おはようございます」ではなく「メメント・モリ 汝死を忘れるな」だったそうです。すごいですね。10節11節。「信仰」、「徳」、「知識」、「自制」、「忍耐」、「信心」、「兄弟愛」、そして「愛」を実践すれば、決して罪に陥りません。11 こうして、わたしたちの主、救い主イエス・キリストの永遠の御国に確かに入ることができるようになります。神様の素晴らしい約束を知る私たちです。世の光として、福音の灯火を灯し続けたいと思います。賢い乙女たちの様に信仰と言う油を備えたいと思います。 祈りましょう。