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山形六日町教会

2022年2月6日

聖書:箴言13章4節 マタイによる福音書25章14~30節
「さらに与えられて」波多野保夫牧師

本日与えられた25章14節で主が「天の国はまた次のようにたとえられる。」この様に語り始めていらっしゃるのは、「天の国について、「十人のおとめ」のたとえとは、少し違った角度から話そう。良く聞きなさい。」この様な意味が込められてのことでしょう。「十人の乙女」の譬えは、それが何時なのかは神様だけが知ってらっしゃる「終末の時」に向かって、信仰と言う油を準備する様に促したのに対して、この「タラントン」の譬えは、その油とはどのようなものであり、どのようにして準備をすれば良いのかに重点があります。み言葉を聞いて行きましょう。
14節 天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。ここで「ある人」とは明らかに神様ですが、「僕」とは当時の奴隷です。古代において奴隷の存在は珍しいことではありませんでした。奴隷と言うと先ほどお話しした、あの黒人霊歌を残したアメリカの奴隷制度が思い浮かびますが、2000年前のローマ帝国が支配していた地域での奴隷は、もちろん主人の命令に従うことが前提ですが、その範囲で比較的自由な生活が与えられ、能力のある者には主人の財産管理も任されていました。
「奴隷」に関してパウロは次の様に言います。 あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。(ローマの信徒への手紙6:22) さらに 主によって召された自由な身分の者は、キリストの奴隷なのです。23 あなたがたは、身代金を払って買い取られたのです。人の奴隷となってはいけません。(コリントの信徒への手紙Ⅰ 7:22,23)私たちは神の奴隷であり、キリストの奴隷なのだというのです。「波多野先生。神様の恵みを感じますし、感謝しています。しかし、神様の奴隷だなんて嫌です。」安心してください、神様はあなたの自由を奪おうとなさっているのではないのです。本当の自由を与えようとしていらっしゃるのです。チャント主と結ばれていることを保証する言葉だと思ってください。そうでないと、私たちはすぐに「罪の奴隷」あるいは「悪魔の奴隷」になってしまいます。悪魔の強烈な誘惑に負けないためには、主にしっかりと結びついている必要があります。私たちの力で主に結びついている、抱き着いているのでは弱すぎます。
主のほうで私たちを抱きしめていてくださる。それをパウロは「神の奴隷」、「キリストの奴隷」と言う言葉でハッキリと述べたのです。主の言葉を思い出してください。15:15 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。17 互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。(ヨハネ福音書15:15-17)私たちの主人、主イエス・キリストが私たちの友になってくださるのです。そして私たちが悪魔の誘惑に陥らないで、幸せな人生を歩むようにと「神と自分と隣人を愛しなさい」この様に命令なさるのです。ですから私たちは自分たちの幸せの為に、このご命令に素直従う奴隷でありたいと思います。
15節に戻りましょう。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。タレントと言う言葉の語源はこのタラントンにあるのですが、辞書で調べてみると「テレビなどのメディアやイベントに出演し、出演料を得ることを本業としている人」とありました。「或る領域で抜きんでた能力を持った人」と言った意味から派生したのでしょう。しかし、ギリシャ・ローマ時代のタラントンは単に重さの単位で、しかも時代と場所によって異なっていたそうです。聖書の後ろについています「度量衡および通貨」と言う項目によれば、6000日分の賃金に相当するとあります。一日5000円として3000万円と高額になります。主人が大金の管理を僕、すなわち当時の奴隷に任せることは特別なことではありませんでした。
5タラントン預かった人は商売をして、5タラントンを、2タラントンの人は2タラントンをもうけました。やがて帰って来た主人は『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』この様に言ったのです。1タラントンを預かった僕です。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠して おきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』 主人は『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。』  この様に答えました。分かりづらいやり取りです。先週も触れましたが、紀元前600年頃にはユダヤ人の間に銀行制度が存在していました。遠隔地間の貿易ではお互いの土地の通貨を両替する必要があります。唯一の神を信じているユダヤ人同士は相手を信頼出来たのです。
さてこの僕は日ごろから主人が厳しい方だと知っていたのですが、その厳しさの意味を理解していなかったのです。確かに神様は厳しい方です。罪に対して厳しい方です。なぜでしょうか?それは悪魔の誘惑に負けて「神と自分と隣人を愛する」ことから離れてしまう。こんなことが人を幸せにすることは絶対に無いからです。彼は主人が誤りを犯した僕を鞭打つ姿を目撃したのでしょう。ヘブライ人への手紙12章5節6節です。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、 力を落としてはいけない。6 なぜなら、主は愛する者を鍛え、 子として受け入れる者を皆、 鞭打たれるからである。」 現代においては学校の先生はもちろん、親であっても鞭打つことは許されませんが、これは当時の社会にあって、僕を愛するゆえの鞭でした。それでは、この主人は罪に対してどれほど厳しい方なのでしょうか? それは、私たちを愛するゆえに御子を十字架に架けるほどの厳しさなのです。
タラントンを地の中に隠したとあります。ここでのタラントンは現代の「タレント」に近い、神様に与えられた才能であり、富であり、チャンスでしょう。もっと言えば私たちの命そのものであり、また人生そのものでしょう。彼はそれらを「神と隣人」のために生かし用いることをしなかったのです。反対に『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』と言われた二人は、自分に与えられたタラントンを、「神と隣人」の為に用いたのだと判ります。
ここで神様がおっしゃるのは「多くのものを管理させよう」です。さらに働けというわけです。この二人の僕は褒められたことで、新しい力と勇気をもらって、喜んで次のチャレンジを始めたのではないでしょうか。努力したことや良い点を積極的に見つけて誉めてあげるのは、こどもに対してだけではありません。社会人に対しても必要なことです。テレビドラマで、営業成績をグラフにして張り出し成績の悪い人を叱り飛ばす場面がありましたが、あまり賢いやり方ではありません。良い点を見つけて伸ばしてあげることが、本来上司の仕事なのです。でも、安心してください。私たちの上司は主イエスですから。二人の僕の意気込みは以前と違います。愛する主人が注目して見ていてくれるのです。しかし、これは永遠には続きません。やがて肉体も心も限界を迎えます。その時、神様は「忠実な良い僕だ。よくやった。私の許に来て休みなさい。」こう言って招き入れてくださることでしょう。私はこんな人生を送ることが出来たらどんなに素晴らしいだろうと思います。いかがでしょうか?
しかし、次に理解しにくいことが言われています。29節30節です。25:29 だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。30 この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。実は13章12節にまったく同じ言葉があります。だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。
「種を蒔く人」の譬えを話された後で「たとえを用いて話す理由」を語られた時です。「ガリラヤの春」と呼ばれる、比較的平穏な日々に「天の国」について教えられていた頃から、与えられたタラントンを生かすことのない者への思いは変わらなかったのです。
そして「婚宴」の譬えでは、招かれた人が礼服を着ていなかった時のことです。 王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』 招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。
もちろんこれらは、富の偏りと言う資本主義経済が抱える問題点の指摘でもなければ、役に立たない者を切り捨てろという言葉ではありません。
では、この理解の難しい言葉をどの様に受け取れば良いのでしょうか?注目したいのは、「婚宴」や、この「タラントン」の譬えは、十字架を数日後に控えた大変緊迫した状況で「「天の国」についてこれだけは分かって欲しいんだ。」との強い思いで語られたのです。ですから与えられた1タラントンを用いなかった僕は、直接的には主イエスを十字架につけた、ファリサイ派や律法学者などユダヤの宗教と政治の指導者たちです。
彼らは神様から委ねられたタレント、即ち神様に選んでいただいた恵みを、「神と隣人」の為に用いることをしませんでした。本来は人を幸せにするために与えられた律法を、人を縛り上げるために用いていた彼らは、神様の愛と恵みを穴を掘って隠してしまったのです。神様に選ばれた民として与えられていた恵みを、信仰の薄さによって取り上げられた彼らは、教会に花婿として来られた主イエス・キリストの婚宴に集うことはありませんでした。
それでは、『忠実な良い僕だ。よくやった。』と言われた者たちとはだれでしょうか? 主イエスのエルサレム到着を大歓迎した人たちは、数日後には、主を十字架に架けることに賛成したし、ペトロも主を裏切ったのです。実は忠実な僕は私達なのです。
「波多野先生、私は神様からいただいたものを感謝していますが、神様の為にそれを倍に増やしたことなんかありません。」 そうですね。そんな感覚は持てませんね。でも、聖霊が私たちの心に住んでくださるのです。これこそが私たちに与えられたタラントンです。そして十字架を負ってくださった主イエスに従う時に、私たちを罪のない自由な者とみなしてくださる、「罪の奴隷」が「神の奴隷」「キリストの奴隷」に変わったのです。私たちは、聖霊の働きによって主イエス・キリストの愛を知っており、さらに神様に祈ることを知っています。こんなに豊かなタレントは他に無いのです。
そして、すでに地上に届いている「天の国」すなわち主の教会に招かれている私たちです。集うことが叶わないときには礼拝を覚えて祈る。集うことが叶わない方の為に祈る。そして礼拝を覚え祈ることから始まる奉仕や伝道が聖霊によって用いられる時、私たちは『忠実な良い僕だ。よくやった。』この神様の言葉を聞くのです。ですから「私にはタレント、でありタラントンはありません」とか「体も弱って何もできません。」これは謙遜な告白ではないのです。なぜなら私たちは聖霊の助けを受けて、どんな時でも「神と自分と隣人」のために、祈ることが出来るからです。聖霊に導かれた祈りによって、「神の国」の先駆けとしての教会は成長して来ました。これからも「終末の時」に至るまで成長し続けるのです。そして、私たちはその為に用いられる忠実な僕なのです。ご一緒に祈りましょう。