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山形六日町教会

2022年1月16日

聖書:創世記3章1~6節 ペトロの手紙Ⅰ5章7~11節
「悪魔に抵抗する」波多野保夫牧師

1月も半ばを過ぎ、私の場合年月日を記入する際に2022年と自然に書ける様になり、正月気分も抜けて日常が戻ってきました。そして「今年こそは」と思って始めたことも例年と同じようになりました。高校の時にならった漢詩に「年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず」と言う詩がありました。主が共にいて愛してくださっていることは変わりませんが一歳年をとったことは確かです。ご一緒に主に感謝し恵みの中を歩む2022年でありたいと思います。

ペトロの手紙Ⅰ5章4節から11節を読んでいただきましたが、思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。と始め、力が世々限りなく神にありますように、アーメン。この賛美の言葉にいたるペトロの勧めから「思い煩い」「悪魔」「目を覚ましていなさい」「身を慎む」これらの言葉に注目したいと思います。説教題を「悪魔に抵抗しなさい。」としました。
最初は「思い煩い」です。辞書には「あれこれと考えて悩む。思案にくれる。思い悩む」とありますが、心配、不安、後悔、恐れなどいっさいを神にゆだね、重荷を下ろすのだとペトロは言います。
思い悩む、あるいは思い煩う。これに関しての言葉が聖書に沢山ありますし、残念なことに私たちも「思い煩い」にとらわれてしまうことがあるのではないでしょうか。どんな時代にあっても変わることの無い、人間の特徴なのでしょう。聖書の言葉を聞いていきましょう。
マタイ福音書5章以下に主イエスの教えが記されています。「山上の説教」と呼ばれます。週報に記しました。お読みしますので聞いてください。6:25 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。26 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。27 あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。28 なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。29 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。30 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。31 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。32 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。6:33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。34 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」大変慰めに満ちた言葉です。後ほどもう一度味わっていただきたいと思います。しかし「私の悩んでいるのは『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』なんて、そんな上面(うわっつら)のことではないんだ。馬鹿にしないでください!」 そう言われてしまうかも知れません。
主イエスがエルサレムへと向かう宣教の旅での出来事です。10:38 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。39 彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。40 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」41 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。42 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」 (ルカ福音書10:38-42)マルタは愛するイエス様のために最大限のもてなしをしたいとの思いから一生懸命立ち働いていたのですが、「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。」この様に言われてしまいました。
マタイ福音書13章で主イエスが「種を蒔く人のたとえ」の説明をしてくださっています。 茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。(22節)思い悩みの深さ、あるいは深刻さを比べることは意味の無いことです。その場面では100%大切なことに違いないからです。
お読みした三つの思い煩いが自分にピッタリ合うことは無いかも知れません。人は様々なことに思い煩うからです。しかし、主イエスのおっしゃる、思い煩い・思い悩みからの脱出方法、あるいは陥(おちい)らない方法。これは私達の抱く全ての思い煩いに対して有効です。
6:33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。34 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。「神の国」とは愛の御支配が行き渡った場所と時間です。
10:42 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」マリアは主のみ言葉に聞き入ることを選びました。
13:23良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。
「波多野先生、しっかりした信仰を持っていれば、思い煩いに支配されないってことは頭では分かります。でもそれが出来ないから思い悩むんじゃないですか!」 確かにそうですね。心配ごとや不安、後悔、恐れなどはいろいろありますが、「思い煩う」と言うのは相当の深さをもった、心配事や恐れなどでしょう。
これは内向的で生真面目な人に多いのではないでしょうか? 課題を自分一人で抱え込んだり、問題を自分だけで解決しようと努力する傾向があります。一人で重荷を背負い込む(しょいこむ)のですね。そして深みにはまってどうしようもなくなる。旧約聖書コヘレトの言葉です。
4:9 ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い。10 倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ。(4:9,10) 「波多野先生。でも自分にはそんな友はいません。」大丈夫です。主イエスの言葉が思い起されます。
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。(マタイ11:28)
ペトロの言葉によれば5章7節 思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。 
主イエスの許に来ることそして抱えている課題、すなわち重荷をお任せするのです。具体的にどうするのでしょうか? 
その答えは、教会の礼拝に出席して、同じように神様に愛されている兄弟姉妹と共に、み言葉を聞き、祈り、賛美し、ささげるのです。なぜかと言えば、礼拝の時こそが、主イエス・キリストの愛、十字架にかかってまで私たちを愛してくださる、その愛を一番感じられる時だからです。
「兄弟姉妹と共に礼拝に集う。」これが大切です。礼拝には様々な重荷を抱えている友が集っているからです。礼拝が終わったら、あるいは祈祷会の時などに、自分の抱えている重荷を牧師や長老さん、教会の友に話してください。そして主の助けを共に祈るのです。自分一人で背負い込(しょいこ)んではいけません。弱音を吐くことも大切なのです。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っているからです。
二番目は「悪魔」です。科学の発展した2022年に悪魔の話をすると何か怪しい宗教かと思われたりするかも知れません。主の福音を伝える時には、つまずきにならない様に少し用心したほうが良いかもしれません。しかし、悪魔はいないのか、あるいは無視してよいのかと言うと、そんなことはありません。聖書では様々に呼ばれます。悪魔、悪霊、サタン、諸霊、ベリアル、ベルゼブル、その他にも、敵対者、龍、敵、誘惑者、悪者などです。呼び方は異なりますが、すべて神様の愛から私たちを引き離すことを最上の喜びとするものです。人類の歴史はこの悪魔と共にありました。エデンの園に住む最初の人間アダムとエバを蛇が誘惑しました。賢い蛇の誘惑は極めて巧妙です。
蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」神様の言葉を疑わせる様に誘います。「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」そして、「神様みたいになれるぞ」と欲望を刺激します。その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。親切から分かち合ったのではありません。神様の言いつけを破る仲間を増やしたのです。そしてその結果は悲惨です。すべてをご存知の神様から隠れようとする無駄な努力をします。
さらに神様の問いに対してアダムは自分の罪を「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」と言って、エバを与えてくださった神様のせいにします。エバはエバで「蛇がだましたので、食べてしまいました。」と蛇のせいにします。自分の犯した罪を素直に認めないのです。まさに罪の上塗りだと判りますが、「ばかだなアダムとエバは、神様は全てオミトオシなのに!」と言って笑っていられないのです。「罪」を認めない傲慢さを持っているからです。しかし、反対に罪を意識するらせん階段を深く深く降りていくことも誤りです。私たちが心を閉ざして、一人っきりで「思い煩い」を深くするのであれば、それは ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回ってい る悪魔の餌食です。
では、どうするのでしょうか。そうです、すでに罪を負ってくださった主イエス・キリストに心を開いて従うのです。救いに至る道は、これ以外にありません。なぜなら罪に完全に勝利した人間は、歴史上主イエス・キリストお一人だけだからです。その勝利者に従う時に、従う時にのみ、私たちはこの悪魔に打ち勝つことが出来るのです。
三番目は「目を覚ましていなさい」です。マタイ福音書によれば主は二度この言葉をおっしゃっています。だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。(24:42)裁きが行われ悪が滅ぼされる私たちの希望の日、終末は神様だけがご存知です。信仰を固く保っていなさい。目を覚ましていなさい。この様におっしゃいます。もう一つは十字架の前の晩に弟子たちと行かれたゲッセマネの園でのことです。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」(マタイ26:36-46)
「わたしと共に目を覚ましていなさい。」とおっしゃり、苦しみの中で祈りをささげられた主です。戻ってみると彼らは眠っていました。私たちはこのすべての出来ごと、さらにその後に起こったこと。主の十字架における死と復活、さらに聖霊によって誕生した教会の歩みを、すべて聖書の証言によって知っています。それだけではありません。今も働いてくださっている聖霊の働きによって父・子・聖霊の神の変わることない愛を知るのです。そんな私たちが主の愛から目を反らしてしまう、キリストの教会と距離を置いてしまう。
主はおっしゃるのです。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」 わたしたちの信仰が眠ってしまう。一番喜ぶのは悪魔です。わたしたちの信仰が眠ってしまわない最良の方法、いや唯一の方法は「祈っている」ことなのです。 そして、共に礼拝に集って祈りを合わせる。それは悪魔が最も嫌うことなのです。だから教会は集い得ない方の為に祈るのです。
4番目のキーワードは「身を慎む」です。まず、いつもの様にパウロが指摘する「悪徳表」をお読みしましょう。 5:19 肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、21 ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。(ガラテヤ書5:19-21)この様な行いが人を幸せにすることはありませんし、悪魔が大喜びするのは確かです。ですから「身を慎む」のは当然です。
ペトロが「思い煩うな」と語り始めた5章7節は、実は5章1節以下の文脈の中にあります。
小見出しに「長老たちへ」とありますが、長老へ、若い人へ、そして全員へです。5節後半からお読みしましょう。皆互いに謙遜を身に着けなさい。なぜなら、 「神は、高慢な者を敵とし、 謙遜な者には恵みをお与えになる」からです。5:6 だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。全員がお互いに謙遜を身に着けなさい。この様に命じるペトロは神様と私たちの関係において、その理由を「神は、高慢な者を敵とし、 謙遜な者には恵みをお与えになる」からです。と語ります。
これは大変大事なことです。「神様に対して謙遜なのだが、周囲の人に対しては謙遜でない。」そんなことはあり得ないのです。神様に謙遜な人は周りの人にも謙遜ですし、その逆もまたしかりです。そしてこれは、「神を愛する人は隣人を愛し、隣人を愛する人は神を愛する。」と全く同じ関係になります。私たちが「神と自分と隣人を愛す」ためには、神様の前で謙遜であることが必須なのです。そして私たちを神様の前で謙遜にさせる、隣人の前で謙遜にさせる。主によって供えられた最良の方法の一つがこの礼拝なのです。

神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。(ヨハネ4:24) この様にして献げる礼拝です。私たちを神と人の前で謙遜な者にします。私たちを神と隣人を愛する者とします。ですから、私たちは多くの友をこの礼拝へと招きたいと思います。そして互いに謙遜を身に着け、互いに愛し合いたいと思います。これが誰かを食い尽くそうと捜しまわっている悪魔に対する唯一で最強の抵抗だからです。力が世々限りなく神にありますように、アーメン。