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山形六日町教会

2022年1月2日

聖書:レビ記12章6~8節 ルカによる福音書2章39~40節
「神さまのご計画」波多野保夫牧師

新しい年を迎えました。元旦は12月31日からたった一晩のことなのですが、なぜか新鮮な気持ちになり、聖書の一節、パウロの言葉が思い起こされます。だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。コリントの信徒への手紙Ⅱ5章17節ですが、私はこの「見よ」と言う言葉に惹かれる思いがあって、以前広く用いられた、口語訳聖書からお読みしました。週報の裏面に翻訳聖書を引用しました。聖書学者たちが、それぞれの時代にふさわしい言葉を求めて、聖書原典の言葉を正しく伝えようとした努力の結晶です。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。もちろん新年のことを言っているのではありません。だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。とあります。私たちが主イエス・キリストに従って歩む時、新しく造られた者、即ち「罪」の無い者と見なしていただけるのだ、この様に述べています。
ヨハネによる福音書3章です。ニコデモと言う最高法院の議員に向かって3:3 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」4 ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」5 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。新しい年の初めにあたって だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。 このパウロの言葉が恵みの言葉として心に響くのではないでしょうか。
先週の礼拝で申し上げました。「私たちの一日が、心に主をお迎えすることで始まるのであれば、毎日がクリスマスでしょう。私たちの罪を負って十字架にかかってくださった方に、罪の自覚を持つごとに感謝するのであれば、毎日がイースターでしょう。」もう一つ付け加えることが出来ます。キリストと共にある日々は未来への希望に満ちた日々なのです。なぜなら、古いものは過ぎ去ったからなのです。
さて私たちは11月26日、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアへの受胎告知から始まった待降節の礼拝を守りました。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」マリアの言葉を聞きました。さらにバプテスマのヨハネの誕生に込められた神様のご計画と「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」と歌うマリアの賛歌を聞きました。そして12月19日のクリスマス礼拝では、主イエスの誕生と「いと高きところには栄光、神にあれ、 地には平和、御心に適う人にあれ。」と言う天使たちの賛美、さらに主イエスにお会いした最初の礼拝者、羊飼いたちは神をあがめ、賛美しながら自分たちの職場であり生活の場へと帰って行きました。
先週の降誕節礼拝では、献げものを持ってやって来た東方の学者たちの礼拝とヘロデ大王の狂気の沙汰を。これら、聖書が語るクリスマスの出来事を5週に渡って聞いて来ました。そして、そのすべてを通して神様のご計画、遥か昔に預言者たちを通して語られた「救い主の誕生」と言う約束が実現したことを知るのです。
しかし、神様のご計画はそれだけにとどまりません。私たちは赤ちゃんイエス様が成長した末にある十字架と復活の出来事を知っています。私たちの負うべき罪の十字架を、代わって負ってくださったことを知っています。ですから極論すれば、御子の誕生は十字架の為、私たちの罪を負うためだったことを知ります。
さらに神様は主イエス・キリストに、死への勝利、復活の栄冠を与えられました。それだけではありません。主に従う時、私たちも永遠の命に与ることが約束されています。ですから極論すれば、御子の誕生は私たちが復活の希望に生きるためだったことを知るのです。
主イエス・キリストはおよそ30歳になって(ルカ3:23)バプテスマのヨハネから洗礼を受け、悪魔の誘惑に勝利された後に、ガリラヤで伝道を始められました。十字架と復活への日々は公生涯と呼ばれ、4つの福音書が詳しく伝えています。しかし、クリスマスの出来事と公生涯の中間、幼少期から青年期にかけての様子を聖書はほとんど伝えていません。

本日は幼年期を伝えます数少ない聖書箇所を追うことで、神様のご計画を見たいと思います。先ほど読んでいただいた2章39節には 親子は主の律法で定められたことをみな終えたので とありました。律法の定めに従って、誕生から8日目に割礼を受け、その際に天使が伝えた通り、イエスと名付けられました。(ルカ1:31) そして誕生から6週間目です。2章22から24節。2:22 さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。24 また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。
最初に読んでいただいた、レビ記にある律法の定めに従ってエルサレム神殿での儀式に臨みました。献げものが山鳩一つがいだったことから、この家族が貧しくも律法に忠実だったことが知られます。東方の学者たちが献げた黄金、乳香、没薬はどうしたのだろうと思われるかも知れませんが、彼らが訪ねて来たのは後の出来事なのです。先週、ヘロデが「二歳以下の男の子を」と書かれていることから、誕生からだいぶ時間が経ってのこと、とお話ししました。蛇足ですが、聖書はこの家族が豊かであったとは語りません。エジプトに逃れた際に盗賊に奪われてしまったのかも知れませんし、一番大切な神様からの預かりもの、「主イエス」を守るために邪魔なものを捨てたのかも知れません。
ルカ福音書2章25節に戻りましょう。神殿の境内でシメオンに出会いました。 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。 10年ほど前になりますが、東京神学大学のクリスマス祝会で私はこのシメオンの役が割り当てられました。27節には シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき とあります。聖霊に導かれて主イエスに出会ったのです。しかし、これは私だけではありません。皆さんがそうです。聖霊に導かれてここに集い、主にお会いし礼拝をささげているのです。礼拝への出席が叶わない時には礼拝を覚えて祈ります。「だけど波多野先生、この人は正しい人で信仰があつく なんて言われると困っちゃいます。」 確かに私もそうです。しかし、私たちは自分の信仰を誇ることは出来ませんが、卑下することも間違いです。聖霊が与えてくださったものだからです。もし、至らないと思うのならば、心を開いて主のさらなる導きを祈り求めるのです。「波多野先生、だけどシメオンって男性でしょう。」大丈夫です。36節以下で赤ちゃんイエス様にお会いしたアンナが登場します。84歳の彼女は 断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。 彼女は、救い主の誕生を証し、伝道したのです。まさに私たちの姿です。
さて、ここで注目したいのは、ヨセフとマリアが律法の定めをキチンと守っていることです。そしてこの様な家庭で 2:40 幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。 のです。 皆さんいかがでしょうか? 旧約聖書の語る神様は律法厳守を求める厳しい神様。新約聖書が語るイエス様は愛に満ちた優しい神様。そんなイメージがあるのではないでしょうか? 
聖書を3か所お読みしましょう。マタイ福音書5章17節18節。 わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。 はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。 モーセに与えられた律法は幸せな人生の為のマニュアルです。ですから神様は愛するが故に、それを守ることを厳しく求められます。イエス様はその本質を「神と自分と隣人を愛しなさい。」とまとめてくださいました。しかし、選ばれたイスラエルの民はそれを守ることが出来なかったのです。それでは、私たちはどうなのでしょうか?ルカ福音書5章31節32節。 イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」 主イエスはあなたを招いています。それはあなたが正しい人だからなのでしょうか? 私たちが主イエスを必要とするのであれば、パウロは語ります。ローマの信徒への手紙5章20節21節。 律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。 パウロは言うのです。自分の罪深さ、即ち「神と自分と隣人を愛すること」。この戒めとの隔たりを感じるほどに、神様がそんな私を愛し続けてくださっていることが本当の喜びとして感じられるのです。
ここに一つ「選び」と言う問題があります。神様はキリスト以前の時代、イスラエルの民を選んで、まず神様に従って生きる幸せな人生を送って欲しい。次にその喜びに満ちた姿を見て、世界中の人が神様に従う者になって欲しい。この様な作戦をとられました。しかし、イスラエルの民が繰り返したのは神様をないがしろにすることであり、神様が繰り返されたのは、気づきを与え、立ち返った民を赦し恵みを与えることでした。私はこの繰り返しの中に自分を見るのですがいかがでしょうか? 今私たちは多くの人々の中から選ばれてこの様に礼拝に集っています。この点はイスラエルの民と同じです。しかし神様はこの繰り返しの末に、大きな決断をなさったのです。それは人間から自由意思を奪い取る決断ではなく、真の自由、「悪魔の奴隷」から解放する決断でした。そうです。主イエス・キリストを通してご自分の愛を示されたのです。ですから、旧約聖書の語る世界と新約聖書の語る世界とでは、神様の愛の表現に違いはありますが、人間を幸せにするための計画はまったく変わりません。
ダビデの末に救い主が生まれるとの預言、そしてクリスマスから十字架と復活に至る出来事、さらに教会の誕生と発展。これらは、父、子、聖霊なる三位一体の神様が私たちを愛し続けてくださっていることの証拠なのです。ですから、旧約聖書と新約聖書、ユダヤ教とキリスト教、さらに、ユダヤ教の会堂とキリスト教の教会はつながっています。神様の愛のご計画においてつながっているのです。そして、この愛のご計画は2021年から2022年においても変わることなく続いています。
それでは、最初に紹介したパウロの言葉 だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。 この言葉はどうなのでしょうか。実はこれは神様の愛が変わらないからこそ意味を持つ言葉なのです。神様の愛が変わらないからこそ、私たちがキリストに従う人生を歩む時、キリストに不完全さであり「罪」を担っていただいた私たちは、新しく生まれた者へと変わるのです。主はニコデモに言われました。 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ3:16)
最後に2021年と2022年の連続性として12月26日の礼拝でお話ししたたとえ話を繰り返しましょう。思い出しながら聞いてください。 『 【ある男が通りを歩いていたら穴に落ちてしまったのですが、穴が深くて登れません。すると医者が通りかかったので大声で叫びました。『お~い、お医者さん、助けてくださーい』。医者は穴の上から男を見下ろして、処方箋を書いて穴の中へ落とすと立ち去っていきました。次に牧師が通りかかったので男は叫びました。『牧師さん、どうか助けてくださ~い』。 牧師は祈りの言葉を紙に書いて、穴に落とすと去っていきました。その次に友人が通りかかりました。『おれだ、助けてくれ』。彼は穴の中の友を見留めると、すぐに穴の中に飛び降りたのです。男は言いました。『バカだな、二人とも落ちてどうするんだ!』。友人は言いました。『私は、以前この穴に落ちたことがあるから、ここから抜け出す方法を知っているんだ』。】私たちの人生には様々な苦しみ悩みが確かにあります。しかし、私たちには素晴らしい友人がいるのです。ヨハネ福音書15章15節。15:15 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。クリスマスの日に生まれた私たちの友は真の苦しみを知っていらっしゃいます。その苦しみは肉体的な苦しみと無実の罪を負わされた苦しみに留まりません。神様に見放された苦しみも味わわれました。そして落ちた穴は陰府すなわち死者の世界です。しかし、この方はその落ちた穴から脱出した、復活なさった経験を持っている方です。その方が私たちの友なのです。私たちはあの学者たちの様に、神を畏れる者でありたいと思います。神様の前で素直に「神と自分と隣人を愛すること」の不十分さを認めたいと思います。「罪」を認めたいと思います。そして、私たちは隣人を深く愛するものになりたいと思います。なぜなら私たちの友、主イエス・キリストが、いつも私たちを愛してくださっているからです。 』 長くなりましたが、2021年12月26日にこの様に語りました。

2022年1月2日です。このたとえは別の解釈もできます。後から穴に飛び込んだのは「あなた、であり私」だという解釈です。残念ながら私たちは、悲しみ・苦しみ・痛み・重荷、これらと無縁ではありません。しかし、今礼拝に集っている私たちは、真の友、真の苦しみを知っている友の助けで穴から出ることが出来た、あるいは穴の上から射し込む光に気づいている。そういった私たちではないでしょうか。
まだ洗礼に至っていない方も神様の豊かなご計画によって、今ここに呼び集められ、豊かな恵みの時を共にしている、そのことを覚えていただきたいと思います。後から穴に飛び込んだ、最初に穴に落ちた人の友人は『私は、以前この穴に落ちたことがあるから、脱出方法を知っているんだ。』この様に言いました。そうです。私たちは変わることの無い主の愛によって救い出された経験を持つ者です。主の大いなる愛を知る者です。ですから、重荷を負う家族であり友人であり隣人に寄り添うことが出来るのです。なぜなら、絶対に裏切ることない真の友、主によって救い出された経験があるからです。ただし、穴を甘く見てはいけません。穴に飛び込む前に一本のロープを用意してください。友人と一緒に穴からでる際に必要です。ロープを用意したら、一方を自分の体に巻き付けると良いでしょう。そしてもう一方をしっかりとした信頼できるものに結ぶのです。溺れる者はわらをもつかみます。弱い私たちは一緒に溺れてしまう危険があります。そうです、主イエス・キリストの十字架に結ぶのです。

ここまでお話しするともはや明らかでしょう。穴の中で溺れている友に主の福音を伝えるのです。かつての私たちは御子の誕生から始まった大いなる愛のご計画を知りませんでした。しかし、主の愛を知らなかった私たちは多くの友の祈り、教会の祈りを神様が聞き届けてくださったことで、救われました。その時の喜びを私たちの隣人に届けるのです。これが私たちを用いてくださる神様の2022年のご計画ではないでしょうか。ご一緒に祈ることから新年の歩みを始めたいと思います。祈りましょう