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山形六日町教会

2021年2月21日

聖書:イザヤ書53章1~3節 ヨハネによる福音書11章45~57節
「彼らはたくらんだ」波多野保夫牧師

先週の水曜日2月17日は「灰の水曜日」と呼ばれ、この日から40日間に及びます受難節・レントが始まりました。レントは主の復活の日・イースターに向けての40日間ですが、途中にあります6回の日曜日は主の復活を記念する日ですから勘定に入れません。この様な習慣が出来上がったのは7世紀のローマ教会においてだそうで、教会が大切にする教理を教会歴の中に織り込んでいったのです。主が私たちを愛するが故に罪を一心に負って下さり十字架の苦しみを味合われ、死に至るまで愛し抜いて下さったことを強く思い、私たち自身をそのご受難の物語の中に置くのです。感謝をもって過ごす40日間です。
イースターは日曜日ですから46日遡るレントの初日は必ず、水曜日になるのですが、その日には聖別された灰をかぶったり、額に灰で十字を書いて罪を悔い改める懺悔の印としたので、灰の水曜日と呼ばれます。
旧約聖書ヨブ記では、苦しみの中で自分の思い上がりに気づかされたヨブが神様に告白します。 わたしは塵と灰の上に伏し自分を退け、悔い改めます。(42章6節) 今、私たちはこの様な悔い改めの慣習を持ちませんが、主の十字架の出来事を心に留めて感謝のうちに過ごすことを忘れてはいけません。
毎年、レントが始まると、ダニエルの断食をお勧めしています。繰り返しましょう。旧約聖書ダニエル書には3種類の断食が出てきます。水分以外の食を断つ断食。贅沢な食事を断つ断食。そして自分で決めた食物を断つ断食です。ダニエルの断食と呼ばれるのはこの3番目の断食で、一週間とか10日間断つことで、その食べ物を口にしたいと思う度に、主の十字架の苦しみを思い起こすのです。ですからこの断食はいわゆる「願掛け」とは全く違います。「願掛け」は一種の神様との取引で「この断食を約束通りに行ったら叶えて下さい。」というものです。ダニエルの断食は違います。おねだりの為ではなく、主イエス・キリストの苦しみをいささかでも感じて、罪に対する罰を代わりに引き受けてくださった方を思い起し、感謝するものなのです。ぜひ今年のレントにはこのダニエルの断食を行ってみてください。そして備えの時を、主の豊かな恵みを感じる喜びの日々として過ごしていただきたいと思います。
さて、本日の説教題を「彼らはたくらんだ」としました。11章53節。 この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。 彼らとは、最高法院の議員たちです。イスラエルは当時ローマ帝国の支配下にありましたが、重い税金を納める限りにおいて、ある程度の自治が認められており、祭司長が議長を務める最高法院が国を治めていました。その彼らが、イエスを殺そうとのたくらみをはっきりと持つに至った場面です。
その決定的な原因はヨハネ福音書11章が伝えますラザロの復活の出来事でした。主が愛しておられたマルタとマリアとラザロ、その「ラザロが病気だ、来て欲しい。」との知らせを受けて「もう一度、ユダヤに行こう。」と言われると、弟子たちは「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」と答えたのです。しかし、ここでユダヤ人たちが主を石で打ち殺そうとしたのは、いわば刹那的なものでした。
一方11章57節では、 祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスの居どころが分かれば届け出よと、命令を出していた。イエスを逮捕するためである。   
この11章の出来事以降、最高法院は逮捕し殺そうとの意思をハッキリさせたのです。そもそもの原因は11章39節以下の出来事に遡ります。 死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。42 わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」43 こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。44 すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。大勢の人の前で起こったラザロの復活です。
そして本日与えられた聖書箇所へと続きます。11:45 マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。46 しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。 同じラザロの復活の出来事を見た人々の反応が二つに分かれました。主イエスが確かに「生ける神の子」なのだと信じる様になった者たちと、信じるのではなく最高法院の議員たちに出来事を告げに言った者たちです。
丁寧に聖書を読んでいきましょう。政教一致国家の最高法院はイエスの行動を掌握していました。ヨハネが記す「出来事」に留まらず、会堂長ヤイロの娘や、やもめの息子に起きた復活の出来事も含めて「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。」と言って議論を始めたのです。 48節 このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。 征服者ローマから神殿と国民を守ること、すなわち「神と隣人を愛する」ことを口では述べる彼らの関心は、自分たちにローマから与えられた特権を守ることでした。議論を重ねる71人の議員にとって「イエス様がなさった出来事」の中にある真理は茨によってふさがれてしまっていたのです。
カイアファは19年に渡って大祭司を務めたのですが、最高法院の議長として「神と隣人を愛する」ことを装って「あなたがたは何もわかっていない。」と、この事態への対応を提案しました。 
しかし、51,52節でヨハネは不思議な事を書き記しています。カイアファは「イエスが国民のために死ぬ」と「預言して言った。」と述べるのです。「一人の人間が民の代わりに死ぬほうが好都合だ。」 神様から最も離れたこの言葉は「預言」の言葉として用いられたというのです。旧約聖書には多くの預言者が登場し、特定の時に、特定の目的で聖霊を受け、神様のお考えを人々に伝えたり力ある業を行いました。それと同じようにカイアファに聖霊が働いてこの様に言わせたというのです。その結果、最高法院の得た結論は「この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。」でした。カイアファの政治的な思惑に満ちた発言が聖霊によって用いられ「主イエスの十字架での死」を「預言」するに至ったのだとヨハネは伝えるのです。52節は、主の十字架によってもたらされた福音の出来事に関しての、ヨハネが属した教会の解釈です。「散らされている神の子たち」は外国に住む(ディアスポラの)ユダヤ人に止まらず、かつてバベルの塔建設によって全地に散らされた者たちの子孫、すなわち、私たちを含めた世界のすべての民を再び羊の囲いに呼び集めてくださるとの信仰です。ですから、今私たちは、その途上に置かれていることになります。
54節 最高法院の決定を知ったイエス様は、ほとんど人の住まないエルサレム東方の丘陵地帯に退かれ、弟子たちと静かな祈りの日々を過ごして、神様の定められた時、すなわち十字架の時を待っていらっしゃいました。そんな日々、弟子たちは「栄光をお受けになる時には大臣に取り立ててください」と願い、「一番偉いのは誰か」などと論じ合っていたのです。どんな気持ちで聞いていらっしゃったのでしょうか。55,56,57節 イスラエルの男たちにはエルサレム神殿での祭りに参加する義務があったので、おびただしい人が集まり、清めの儀式を待つ間、イエス様があらわれるのか話が盛り上がっていました。一方、最高法院はイエス様を指名手配して逮捕する機会を待ち構えていたのです。喧噪の中に緊迫感が漂います。
さて、本日は11章45節と51節に注目したいと思います。私たちプロテスタント教会は「信仰義認」、人は行いによらないで信仰のみによって「義」すなわち「正しい者と見なしていただいて救われるのだ」と言う教理を大切にしています。良い行いに注目されるということは、同時に悪い行いにも注目されてしまいます。もしそうだとしたら、私は絶望せざるを得ません。「信仰義認」の教理が希望を与えてくれます。45節は多くの人が「ラザロの復活と言う不思議な出来事を見てイエスを信じた。」と告げるのですが、この人たちは「信仰」によって義とされるのでしょうか?週報にヨハネが告げるイエス様の言葉を記しておきました。2:23,24 そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。4:48,50,53 「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。(そして、主の言葉通りになったことを知って)彼もその家族もこぞって信じた。20:29 復活を疑ったトマスへ「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」 これらのイエス様の言葉からは、力ある業を見たから信じるのではダメな様に思われます。見ないで信じる。見ないで信じない。見て信じる。見て信じない。「それでは私はいずれなのだろうか?」と思ってしまいます。イエスは「メシアか?」と問うバプテスマのヨハネの弟子たちに「見聞きしたこと伝えなさい。」と言われました。私たちの信仰は「見ること」によって始まるのです。そもそもイエス様は「信じさせるため」にラザロの復活を祈り求められました。11章41節42節 人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。 わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」何も見ないで信じるのであれば、それは「イワシの頭も信心から」。即ち、信じさえすれば、その対象は何んでも良いことになってしまいます。私たちの信仰はそうではありません。要は「何を見て信じる」のかです。逮捕された主を尋問したヘロデは奇跡を見ることを期待しました。虚しい期待です。
一方、生きて働かれる三位一体の神の愛・福音を見いだし、主の声を聞いて心の戸を開けるのならば、祝福が待っていいます。私たちの信仰が問われるのは、その切掛けではありません。信仰の成長であり、イエス様に似た者となっていく「聖化」の道のりです。そしてこのために欠かすことが出来ないのが、週ごとの礼拝なのです。
もう少しヨハネの伝える主の言葉を聞きましょう。ヨハネ福音書14章11節 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。 イエス様は、「私の業を見るとか見ないとかを越えて、とにかく私を信じなさい。そうしてあなた方が幸せな人生を送ってほしいのだ。」この様におっしゃるのです。私たちが主イエス・キリストを救い主と信じる様になった切っ掛け。それは様々でしょう。奇跡的な出来事を経験したとか、偉大な自然に接したり、癒しの体験かも知れません。ふとしたことで出席した礼拝や集会かもしれませんし、ギデオン協会の聖書を受け取ったからかも知れません。しかし、今私たちが呼び集められて山形六日町教会に集い、一緒に礼拝を守っています。考えてみてください、このこと自体が奇跡的なことなのではないでしょうか。 11章25節以下にイエス様とマルタの会話があります。 「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」 マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」マルタはしるしを見ずに信じたのですが、復活したラザロの信仰には触れられていません。 11章5節にラザロを「イエスが愛しておられた。」とだけ記されています。ですからラザロの復活はマルタとマリアの祈りが主によって聞き届けられた「出来事」なのです。いつも申し上げているように、信仰は分け与えることで減るのではなく増えるんです。
私たちが主イエス・キリストを救い主と信じる様になった切っ掛け。それは様々でしょう。しかし、その陰には必ずや信仰の先輩の祈りがあり、教会の祈りがあったのです。信じない者ではなく、信じる者、信じ続ける者でありたいと思います。そしてまだ信じるに至っていない方のために祈りたいと思います。

本日の聖書箇所で注目したいもう一つのことは、一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む と語り、この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。との結論に導いたカイアファの言葉が、彼の思いを超えて「預言」すなわち、神様の言葉として用いられたということです。
私はここに伝道者としての慰めを見るのです。欠けだらけの罪びとであっても主が用いて下さることで、福音を伝えることが出来るのです。これは伝道者に限りません。主は全てのクリスチャンを用いて福音が広まり、全ての人が幸せな人生を歩むように望んでいらっしゃるのです。
ところで、カイアファと同じように主を十字架の出来事へと導いたイスカリオテのユダは悪魔とまで呼ばれます。(ヨハネ6:70) この二人は救われたのでしょうか? ここに一つの希望があります。それは使徒信条で、復活を前にした主イエスが「陰府に下り、三日目に死人の内よりよみがえり」と告白します。この「陰府下り」に希望を託すことが出来るのです。十字架での死の時から復活の時まで、主イエスは何をなさっていたのでしょうか? 聖書は語りませんが、古くから、「陰府において、信仰を持たずに亡くなった者に伝道をなさった。」 この様な伝説があります。主に従う私たちの幸せな人生、それは死をもって終わるのではありません。死後においても主の御許で永遠の命に与るのです。異教国、日本です。信仰を持たずに亡くなった多くの方がいます。皆さんの一族や友人の中にもいらっしゃることでしょう。たとえ死後においても主ご自身が伝道してくださる。そんな望みを私たちは持つのです。
ヨハネ福音書14章11節 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。 この様におっしゃる主ご自身が亡くなった方に伝道してくださる。この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。この結論に導いたカイアファの言葉を、彼の思いを超えて「預言」として用いられる神様です。十字架の死という代償を払ってまで、私たちに幸せな人生を与えて下さる神様です。陰府に降られてまで伝道してくださる、そんな希望を持つことは許されるでしょう。「イエスを殺す企て」は、「イエス様が私たちを生かす企て」として用いられました。礼拝へと招かれている私たちは悔い改めと感謝の内に40日間のレントの時を過ごしたいと思います。ダニエルの断食も覚えていただきたいと思います。 祈りましょう。