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山形六日町教会

2021年2月7日

聖書:詩編90章1~6節 ルカによる福音書9章28~32節
「モーセの気概」波多野保夫牧師

司式の市川長老にルカによる福音書9章28節以下を読んでいただきました。山上の変貌と呼ばれ、主イエスが栄光を受けられる姿を、ペトロとヨハネとヤコブの3人に示された場面です。「列王記」に登場するエリヤはバアル信仰と戦って勝利したことから「旧約聖書最大の預言者」と呼ばれています。イスラエルの民を奴隷の生活から救い出したモーセは民族の英雄です。そして主イエスは神様の御心を最も正確に伝える預言者でもありましたから、3大預言者の出会いに立ち会って感激したペトロの姿が描かれています。モーセ、エリヤ、主イエス、ペトロ、そして主の十字架と復活の出来事を経て教会が誕生し、今私たちが六日町教会に集って礼拝をささげています。神様の変わることの無い愛の中に置かれていることを感謝しつつ本日もみ言葉を聞いて参りましょう。
先週に続いて説教シリーズ「気概を示す」の第22回です。前回のヒロインは、モーセとアロンの姉、ミリアムでした。生まれたばかりのモーセがエジプトの王女に拾われた際、ミリアムは機転を効かせて実の母親が育てる環境を整えたのです。エジプトの宮廷ではなく、ヘブライ人の家庭で育てられたことは後に神様によってエジプト脱出のリーダーに指名されるモーセにとって、絶対に必要なことでした。宮廷で育ったのであれば、エジプトの多神教に染まり、唯一の主なる神を知ることはなかったでしょう。苦しい生活の中にあっても主なる神に祈り従う信仰深い家庭で彼は育ったのです。
さて、モーセをリーダーとして始まったエジプト脱出の旅ですが、すぐに追い掛けて来たファラオの軍勢によって海辺へと追い詰められてしまいます。しかし、神様の大いなる恵みによって海は分かれその中を通ってイスラエルの人々は助け出されました。彼らは主の大いなる御業をほめたたえました。そして女預言者ミリアムが小太鼓を手に取ると、他の女たちも小太鼓を手に持ち、踊りながら彼女の後に続いた。 ミリアムは彼らの音頭を取って歌った。主に向かって歌え。主は大いなる威光を現し 馬と乗り手を海に投げ込まれた。彼女は礼拝の賛美リーダーとして、主を賛美して歌い踊り人々を導いたのです。そんなミリアムでしたが、やがてモーセに難癖をつけるようになります。 モーセがクシュの女性を妻にしていることで彼を非難し、「モーセはクシュの女を妻にしている」と言ったのです。 後の時代には、異民族の妻をめとることがハッキリと禁止されます。異民族の妻が信仰する偶像に惹かれてしまうイスラエルの男が多かったのでしょう。若いころのモーセの結婚は全く問題とされていませんでした。彼女は 「モーセだけを通して神様が御心を伝えられる。女預言者の私であり、祭司の役目も担っているアロンを通して、御心を伝えてくださっても良いではないか。」この様に神様の選びに対する不満は嫉妬心となって、モーセを非難するに至ったのです。 神様はミリアムの心の底も私たちの心の底もご存知です。その上でモーセはこの地上のだれにもまさって謙遜であった とおっしゃり、彼女に重い皮膚病と言う罰をお与えになったのです。 「謙遜」これは神様に対して謙遜であると同時に隣人に対して謙遜であるかが問われます。先週、私たちは聖書が私たちに語ります「謙遜」に関しての聖句を読みました。もう一度お読みしましょう。箴言 11:2 高慢には軽蔑が伴い 謙遜には知恵が伴う。マタイによる福音書 11:29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。主イエスご自身が謙遜な方なのに、私たちが高慢であれば変です。コロサイの信徒への手紙 3:12 あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐みの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。私たちは神様に選ばれて今ここに集い礼拝をささげられているのです。ヤコブの手紙 4:6 「神は、高慢な者を敵とし、 謙遜な者には恵みをお与えになる。」  神様の敵にはなりたくないものです。
この後ミリアムはどうなったのでしょうか。モーセはミリアムが犯した「罪」を赦してくださるように神様に祈り、イスラエルの人々は旅立ちを遅らせて彼女を受け入れたのです。ミリアムは神との交わりが回復されると共に、人との交わりも回復されたのです。
もう一つこのミリアムの過ちから私たちが学ぶべきこと。それは、ミリアムの罪のためにモーセは神様の赦しを祈りましたが、私たちの罪のためには既に主イエス・キリストが祈ってくださっていることです。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」十字架上での主イエスの祈りです。ミリアムは犯した罪への罰として重い皮膚病が与えられましたが、私たちの犯した罪、神様から離れる心の思いや行動に対して、その罰は主イエス・キリストが既に負って下さっています。罪の赦しを神様に祈り、自ら私たちの受けるべき罰を負ってくださっている。これが私たちに対する主イエスの大いなる愛なのです。だとしたら私たちがなすべきことは明確です。主イエス・キリストに心を開き従っていくこと。そしてペトロは言います。ペトロの手紙Ⅰ 4:8 何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。4:10 あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。 隣人を愛すのです。必ずや神様が喜んで下さいます。

さて今回「気概を示す第22回」の主人公は例外的に男性のモーセです。モーセについて旧約聖書「出エジプト記」「民数記」「申命記」が伝えています。先週既に約束の地カナンを目指しての旅の一端を見ましたが、40年に及ぶ旅は苦難の連続でした。そして、神様の大いなる愛によってその困難を乗り越えることの繰り返しでした。エジプトを出て一月ほどが経った時です。 荒れ野に入ると、イスラエルの人々の共同体全体はモーセとアロンに向かって不平を述べ立てた。イスラエルの人々は彼らに言った。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。」(出エジプト16:2-3) ファラオの追手から海が割れる奇跡によって救われたにもかかわらず、足りないものを数え上げて文句を言いだす姿は、まるで私自身を見ているようですが、この時神様は朝にはマナを、夕べにはうずらを与えてくださいました。 カナンの先住民が強力な武力を持っていると知ると 共同体全体は声をあげて叫び、民は夜通し泣き言を言った。イスラエルの人々は一斉にモーセとアロンに対して不平を言い、共同体全体で彼らに言った。「エジプトの国で死ぬか、この荒れ野で死ぬ方がよほどましだった。どうして、主は我々をこの土地に連れて来て、剣で殺そうとされるのか。妻子は奪われてしまうだろう。それくらいなら、エジプトに引き返した方がましだ。」 そして、互いに言い合った。「さあ、一人の頭を立てて、エジプトへ帰ろう。」(民数記14:1-4) 不平不満への対応だけではありません。モーセは人々の間に起こる難しい事件について、裁きを行わなくてはなりませんでした。(出エジプト18:26)
さて、週報に民数記20章7節から12節を記しました。本日の中心的なテーマに関係しますのでお読みします。 20:7 主はモーセに仰せになった。8 「あなたは杖を取り、兄弟アロンと共に共同体を集め、彼らの目の前で岩に向かって、水を出せと命じなさい。あなたはその岩から彼らのために水を出し、共同体と家畜に水を飲ませるがよい。」9 モーセは、命じられたとおり、主の御前から杖を取った。10 そして、モーセとアロンは会衆を岩の前に集めて言った。「反逆する者らよ、聞け。この岩からあなたたちのために水を出さねばならないのか。」11 モーセが手を上げ、その杖で岩を二度打つと、水がほとばしり出たので、共同体も家畜も飲んだ。12 主はモーセとアロンに向かって言われた。「あなたたちはわたしを信じることをせず、イスラエルの人々の前に、わたしの聖なることを示さなかった。それゆえ、あなたたちはこの会衆を、わたしが彼らに与える土地に導き入れることはできない。」 7節から11節は、荒れ野の中で水がなくなると相も変わらず不平を述べる人々に対して、神様が水を与えられた出来事を語ります。彼らの不満が4節5節にあります。 20:4 なぜ、こんな荒れ野に主の会衆を引き入れたのです。我々と家畜をここで死なせるためですか。5 なぜ、我々をエジプトから導き上らせて、こんなひどい所に引き入れたのです。ここには種を蒔く土地も、いちじくも、ぶどうも、ざくろも、飲み水さえもないではありませんか。神様がエジプト脱出以降、海を二つに分け、マナやうずらを与えて養ってくださったことへの感謝などひとかけらもありません。神様への信頼などみじんも感じられません。しかし、12節にはチョット理解しがたい神様の言葉が記されています。12 主はモーセとアロンに向かって言われた。「あなたたちはわたしを信じることをせず、イスラエルの人々の前に、わたしの聖なることを示さなかった。それゆえ、あなたたちはこの会衆を、わたしが彼らに与える土地に導き入れることはできない。」 実際、この後民数記20章22節以下でアロンの死が語られます。20:22 イスラエルの人々、その共同体全体はカデシュを旅立って、ホル山に着いた。23 ホル山はエドム領との国境にあり、ここで、主はモーセとアロンに言われた。24 「アロンは先祖の列に加えられる。わたしがイスラエルの人々に与える土地に、彼は入ることができない。あなたたちがメリバの水のことでわたしの命令に逆らったからだ。 兄アロンは、シナイ山でモーセが十戒を授かった際、帰りが遅く不安に駆られた民衆にせがまれ、金の子牛を造ると言う罪を犯しました。(出エジプト32章)しかし、悔い改めた彼は、モーセを通して語られる神様のお考えを人々に伝え、また祭司として幕屋での祭儀を執り行ったのです。そんなアロンが死を迎える切掛けとなったのは、金の子牛を造ったからではありませんでした。 12 主はモーセとアロンに向かって言われた。「あなたたちはわたしを信じることをせず、イスラエルの人々の前に、わたしの聖なることを示さなかった。それゆえ、あなたたちはこの会衆を、わたしが彼らに与える土地に導き入れることはできない。」
それではモーセはどのようになったのでしょうか。これも週報に記しました。申命記32章48節以下です。お読みします。 32:48 その同じ日に、主はモーセに仰せになった。49 「エリコの向かいにあるモアブ領のアバリム山地のネボ山に登り、わたしがイスラエルの人々に所有地として与えるカナンの土地を見渡しなさい。50 あなたは登って行くその山で死に、先祖の列に加えられる。兄弟アロンがホル山で死に、先祖の列に加えられたように。51 あなたたちは、ツィンの荒れ野にあるカデシュのメリバの泉で、イスラエルの人々の中でわたしに背き、イスラエルの人々の間でわたしの聖なることを示さなかったからである。52 あなたはそれゆえ、わたしがイスラエルの人々に与える土地をはるかに望み見るが、そこに入ることはできない。」 この神様の言葉は現実のものとなりました。申命記34章1節以下です。34:1 モーセはモアブの平野からネボ山、すなわちエリコの向かいにあるピスガの山頂に登った。主はモーセに、すべての土地が見渡せるようにされた。ギレアドからダンまで、2 ナフタリの全土、エフライムとマナセの領土、西の海に至るユダの全土、3 ネゲブおよびなつめやしの茂る町エリコの谷からツォアルまでである。4 主はモーセに言われた。「これがあなたの子孫に与えるとわたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓った土地である。わたしはあなたがそれを自分の目で見るようにした。あなたはしかし、そこに渡って行くことはできない。」5 主の僕モーセは、主の命令によってモアブの地で死んだ。 40年に及ぶ荒れ野の旅。困難に遭遇するとすぐに神様の愛を忘れてしまうイスラエルの民を率いて来たモーセは、神様の言葉に従って今ピスガの山頂にいます。ヨルダン川の深い渓谷を挟んで、はるかに乳と蜜の滴る約束の地・カナンを見渡しています。しかし、彼はその夢にまで見た土地に入っていくことは許されないのです。人々を率いてカナンの地にはいっていくリーダーはヨシュアに引き継がれます。モーセはどの様な思いでカナンの地を眺めそして死の時を迎えたのでしょうか? 神様はその理由を メリバの水のことでわたしの命令に逆らったからだ。とおっしゃいます。どんな悪いことをしたのでしょうか? 先ほど週報にあります民数記をお読みしました。20章8節 8 「あなたは杖を取り、兄弟アロンと共に共同体を集め、彼らの目の前で岩に向かって、水を出せと命じなさい。あなたはその岩から彼らのために水を出し、共同体と家畜に水を飲ませるがよい。」 この様におっしゃったのに対して、11節 モーセが手を上げ、その杖で岩を二度打つと、水がほとばしり出たので、共同体も家畜も飲んだ。 岩に対して「水を出せ!」と言うべきところを、杖で岩を二度打ってしまったと言うのです。その代償が、約束の地に入ることが許されずに遥かピスガの山からその地を眺め、そしてそこで死の時を迎えるというのです。
神様のなさったこと、どの様に感じ、どの様に思われるでしょうか?「こんなささいな違反で、40年間どうしようもないイスラエルの民を導く努力をし、耐えて祈ってきたことが全て否定され、約束の地に入ることが許されないなんて、神様はなんて冷酷な方なのだろう。」こんな思いが湧いてくるのではないでしょうか? 私も「こんな厳しい方ならたまったもんじゃない。」との思いが湧きます。 聖なる神様はご命令を守ることを厳しく求められる方です。そのご命令とは「神と、自分と、隣人を愛すること」です。ここから外れたところに真の幸福はありません。ですから神様は守ることを厳しく求められます。ところで皆さんは「神と、自分と、隣人を愛する」生活から外れることはないのでしょうか? 自分中心になることを思い出すだけで私はアウトです。 モーセの例からして、そんな私を、私たちを厳しく罰するはずなのに、神様はその罰を主イエス・キリストに負わせられました。そしてその主に従うものを大いなる主の愛の中においてくださっています。まだ、洗礼を受けるに至っていない方を、大いなる愛の中へと招いてくださっています。これが主の福音です。
それでは、神様がモーセに示されたあの厳しさは何なのでしょうか?神様の厳しさは私たちが罪の中を歩む悲惨な人生を送らないための厳しさです。しかし、それだけではないのです。モーセの場合に戻りましょう。もしも、彼がイスラエルの民を率いて約束の地、カナンに入ったとしたらどうでしょうか? 彼は何者にも勝った民族の救い主となります。守護神に祭り上げられます。真の神を越えて信仰の対象にすらなるでしょう。偶像です。偶像、神ならぬものに頼る性質をイスラエルの民も、残念ながら私たちも持っているのです。 神様はすべてをご存知の上で、モーセを御許へと召されたのではないでしょうか。旧約聖書の語る時代にあっても、新約聖書に語る時代のあっても、そして現代においても、神様の愛は私たちの思いをはるかに超えて大きいのです。
最初に読んでいただいた詩編90編です。90:1 【祈り。神の人モーセの詩。】主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ。2 山々が生まれる前から 大地が、人の世が、生み出される前から 世々とこしえに、あなたは神。3 あなたは人を塵に返し 「人の子よ、帰れ」と仰せになります。4 千年といえども御目には 昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません。5 あなたは眠りの中に人を漂わせ 朝が来れば、人は草のように移ろいます。6 朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい 夕べにはしおれ、枯れて行きます。この現実にあってなお私たちにとって確かなもの。それが主の愛なのです。 祈りましょう。