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山形六日町教会

2020年12月13日

聖書:詩編103編8~10節 マタイによる福音書1章18~25節
「正しい人ヨセフ」波多野保夫牧師

アドベント第3週となりました。クランツの光が週ごとに増してくるとともに、心が高鳴ってくる、なぜか嬉しさが増してくる。そんな季節かと思います。今年は残念ながらコロナの黒雲が立ち込める中で迎えたアドベントですが、私たちに与えられた光は輝きを失うことはありません。
本日もご一緒に聖書が伝えるみ言葉を聞いて参りたいと思います。説教シリーズ「気概を示す」では毎回聖書に登場する女性が示す気概、すなわち信仰に裏付けられた勇気ある態度であり行動を見てきました。アドベント第一週には神殿で幼子主イエスに出会ったアンナでした。彼女は救い主を与えてくださった神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話したのです。アドベント第二週のヒロインは主イエスの母マリアでした。アドベントにあって最もふさわしい女性でしょう。クリスマスページェントに必ず登場する、受胎告知の場面。突然現れた天使ガブリエルの言葉、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。」 この言葉に戸惑いつつも、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と答えたマリアです。しかし、主イエスの少年期にかけて「心に納めておく」「思い巡らす」「言われたことに驚く」 この様なマリアでしたが、我が子の真の姿を理解してのことではありませんでした。
説教の中心はこの受胎告知の場面ではなく、30年後のカナでの婚礼の場面でした。ぶどう酒が足りなくなったことに気付いたマリアは、30歳になった息子のイエスに「ぶどう酒がなくなりました」と言い、召使には「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言ったのです。「主イエスにはこの困った事態を何とか出来る力がある」というマリアの信頼、即ち信仰です。ではなぜマリアはその様な信仰に至ったのでしょうか? 理由は、主イエスと一つ屋根の下で共に暮らした事以外には考えられません。
先週次の様に申し上げました。【 マリアに起こった信仰の成長を私たちになぞらえてみましょう。私たちは主イエスを宿すことはありません。逆に主が送ってくださった聖霊によって私たちが新しく生まれるのです。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(ヨハネ3:3) そしてその聖霊が私たちの内に宿ってくださるのです。主イエスと共に過ごすマリアの人生。これは正に私たちの人生です。もちろん同じ家に住んではいませんが、主の家、即ち教会に週ごとに集い礼拝をささげています。私たちの信仰は礼拝によって養われます。】
もう一つ申し上げましょう。愛する我が子が神様からの救い主だと知る信仰を持つに至ったマリアですが、彼女は3年後に主の十字架での死を見届けることになりました。そんな彼女の姿は三日目の日曜日の朝、墓に向かった女性たちの中にはありませんでした。大いなる悲しみを味わっただけでなく、自分の信仰への疑いが生じていたとしても不思議ではありません。私たちになぞらえてみれば、大きな重荷、大きな悲しみに遭遇したことによって信仰がぐらついたことに当たるのでしょう。
次に彼女が登場するのは使徒言行録1章14節です。使徒たちは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。のです。復活の主に出会ったマリアは聖霊が降り教会が誕生する備えの時に、使徒たちの祈りの輪に加わっていました。一旦は嘆き悲しみが心を覆い、ぐらついた信仰でしたが直ぐに立ち直ることが出来たのです。なぜでしょうか? それは復活の主との出会いがあったからです。そしてそれ以外のことでぐらついた信仰が癒されることはありません。友の祈りによって信仰が回復したのであれば、それは祈りが聞かれ、新たに主イエスを見出すことが出来たからなのです。
そして、主イエスにお会いする、その最も相応し時と場所が教会なのです。信仰が与えられ、信仰が回復される。それが主イエス・キリストの愛を最も感じることが出来る教会なのです。
誤解を避ける為に申せば、“教会だけ”がその場所だとは申しません。なぜなら聖霊は自由に働かれ場所や時を越えて働かれます。しかし、聖霊の働きで立てられた教会はやはり信仰が与えられ、信仰が回復される最も相応しい場所であり、礼拝こそがその最も相応しい時なのです。
 
さて、説教シリーズ第20回ですが、今回取り上げるのは女性ではありません。例外的に男性のヨセフです。番外編と言ったところでしょうか。先週のヒロイン、マリアに比べるとその存在感の薄さは否めません。実際、後ほどご一緒に信仰を告白します使徒信条では、「主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、」この様に告白します。マリアは登場しますが、ヨセフに触れられることはありません。
ルカ福音書を通してヨセフについて語られている聖書箇所を追ってみましょう。主イエスが誕生なさる前の出来事は後で丁寧に見ます。
ルカ福音書2章16節。天使たちの見告げを受けた羊飼いたちは 急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。初めて生まれた男の子を神様にささげるため、両親がエルサレム神殿に連れて行った際、シメオンとアンナに出会った様子はアドベント第1週に聞きました。ヨセフについては「両親」あるいは「父と母」と記されているだけです。シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。(ルカ2:34)とあり、マリアに向かって預言しました。マリアに比べてヨセフの影は薄いのです。たくましく育った主イエスを連れて、両親はエルサレム神殿での過ぎ越しの祭りに加わったのですが、その帰り道にはぐれてしまった主イエスにマリアは言いました。2章48節以下です。48 両親はイエスを見て驚き、母が言った。なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」49 すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」50 しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。51 それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。
ルカ福音書3章以降でヨセフが登場するのはたった二か所です。23節以降にある主イエスからダビデを経てアダムさらに神に至る系図と、4章20節以下です。ユダヤ教の会堂でイザヤ書を解き明かされました。20 イエスは聖書を巻いて係りの者に返し、席に着かれると、会堂にいるみんなの者の目がイエスに注がれた。21 そこでイエスは、「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」と説きはじめられた。22 すると、彼らはみなイエスをほめ、またその口から出て来るめぐみの言葉に感嘆して言った、「この人はヨセフの子ではないか」。そこに居合わせた人の言葉はヨセフを称賛する言葉ではありません。神殿がそびえる首都エルサレムから遠く離れたガリラヤ地方の大工の息子じゃないかと言うのです。当時の田舎の大工さんです。読み書きできない人が殆どだったことでしょう。そんなヨセフの子が、なぜ聖書をこんなに深く読み理解し語ることが出来るのだろうかと言うのです。
一方、マリアは弟子たちの仲間に加わり麗しい関係を持つに至っていました。復活の主に出会い、弟子たちと共に祈りを合わせて教会の誕生の喜びを共にしたのです。これは後の時代になりますが、カトリック教会ではマリア信仰と呼べるほどの崇拝を集めました。もちろん信仰の対象は三位一体の神だけですから、マリア信仰は行き過ぎであり異端です。一方のヨセフは、主イエスが「この人はヨセフの子ではないか」と言われたのを最後に聖書から消え去ります。息子の十字架での死と復活、あるいは、教会の誕生にも関わることはありませんでした。実は、マルコ福音書6章3節で 主イエスのことを この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。 とあります。「マリアの子で大工の主イエス」と言うのです。多くの神学者はヨセフは若死にしたので、主イエスが大工として家計を支えたのだと説明します。マリアに比べてまことに影の薄いヨセフです。アドベントの礼拝説教で語られることは殆どありませんしページェントの配役を決める時にも、さして人気のある役ではないようです。
それではダビデ王の血筋にある彼の見せた気概をどこに見出すのでしょうか。実はヨセフが見せた気概は今日の私たちに大きな示唆を与えると同時に勇気を与えてくれるものなのです。
マタイ福音書1章18節以下にはヨセフとマリアは婚約をしていたとあります。当時、婚約は多くの場合、親同士が決め、家同士が合意することで成り立ちました。そしてそれぞれが1年程親の家に留まり結婚に至るのです。この期間は花嫁の純潔を証明する期間でもありました。もし彼女の不誠実な行為が明らかになれば、婚約解消だけでなく、申命記22章にある様に、父親の戸口に引き出して石で打ち殺すことも可能でした。最愛の婚約者、マリアから「子を宿した」と告げられたヨセフの心情はいかばかりだったのでしょうか。裏切られたとの思い、怒り、石打の光景などが彼の脳裏を駆け巡ったことでしょう。描いてきた夢、マリアと共に神様を賛美する幸せな家庭を築く夢はもろくも崩れ、彼女への思いは根幹から崩れ去ったのです。なんでこんなことが起こったんだろう。神様はなぜこの様な恥ずべき事態に追い込まれたのだろう。ヨセフの心をこの様な思いが覆いつくしたことでしょう。
私たちにも「何でこんなつらい目に合わせられるのか? あるいは、あんなに正しい人に苦しみを与えられるのか?」と言う思いが「神様はキット正しいことをなさっているに違いない。」との思いと心の中で交錯する、そんなことが起こるのではないでしょうか?
19節に「ヨセフは正しい人であった」とあります。町の人はヨセフを「律法に従う正しい人」と見ていました。神様と隣人を愛し、安息日には大工仕事を休んで心を神様に向ける人。親は子供たちに「大きくなったらヨセフさんみたいになりなさい。」と言っていたことでしょう。そんな彼は突然、最も恥ずるべきことに直面したのです。愛するマリアが突然「私は子供を宿しています。」と告げたのです。19節をもう一度読みましょう。 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。離縁の決定は町の門などで、2,3人の証人を立て公に行われるのですが、彼はひそかに離縁しようとしました。理由を公にしないのであれば、彼もまた不名誉を負うことになります。この時点で彼は、マリアが罪を犯したに違いないと確信していたにも関わらず「ダビデの子ヨセフ」と言う名誉を犠牲にしてまでもひそかに縁を切ろうとした理由。それは、マリアに生涯付きまとう不名誉から彼女を救うための決断でした。私たちはこのヨセフの決断に神様が私たちに示してくださる慈愛、慈(いつく)しみに満ちた深い愛を見るのです。先ほど読んでいただいた詩編103編です。103:8 主は憐れみ深く、恵みに富み 忍耐強く、慈しみは大きい。103:9 永久に責めることはなく とこしえに怒り続けられることはない。103:10 主はわたしたちを 罪に応じてあしらわれることなく わたしたちの悪に従って報いられることもない。
私たちに物理的にあるいは精神的に危害を加えられる。中傷や、いじめなどのハラスメント。学校で、職場で、社会で、家庭で、さらに教会で。残念ながら現実の問題として起こり得ます。しかし、主はおっしいました。「汝の敵を愛しなさい」「敵の為に祈りなさい」。そして実行なさいました。私たちはその事実、十字架の出来事を知っているのです。ヨセフがこの様に神様が喜ばれること、自分を裏切ったマリアの名誉を守ろうとした時、神様はヨセフに話しかけられました。
1章20節21節。20 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」 なぜ神様は、マリアが「子を宿しました」と告白した後、スグに真実を明かされなかったのでしょうか?
第二次世界大戦当時の英国で首相を務めたウィストン・チャーチルに次の言葉があるそうです。「人の本性は危機的状況の中であらわになる。」
私の友人が入院した時、相部屋の老人が看護師さんに対してあらゆることに文句をいい続けたそうです。やれパジャマの着せ方がわるい、呼んでもすぐ来ない。注射が下手だ。もう一人は食事のことを一日中わめき続けていたそうです。友人は「自制する力が失われた時に自分は何を言い出すのだろうか。聖書のことばや賛美の歌があふれ出すのだろうか、それとも・・・」と真剣に悩んだそうです。
この危機的な状況においてヨセフが心を砕いたのはマリアの幸せについてでした。十字架上での主の祈りの言葉が思い起こされます。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)
神様は影の薄い、ページェントであまり人気のないこのヨセフを、ご自分の大切な独り子の養育係りとして選ばれ用いられたのです。その理由は、彼の示した気概、危機の中でなお失うことの無かった慈愛の心、即ち信仰です。
多くの人に幸せと希望を与えた救い主イエス・キリストの誕生は、一方では、一人の男の夢、故郷の村で愛するマリアと神様に仕える幸せな家庭を持つ夢を砕きました。しかし、それはヨセフに、貧しくとも神様を賛美し、祈りを欠かすことのない家庭の中で、主イエスの成長を見守る光栄ある務めを与えるためだったのです。
私たちの描く夢、この様にありたいと願うこと、そしてその為に努力すること。大切なことです。そのまま夢がかなうこともあるでしょうし、打ち砕かれることもあるでしょう。しかし、一つの夢が閉ざされた後にも必ず新たな夢、新たな希望が与えられます。なぜなら神様の愛は全く変わることなく注がれているからです。マリアが子を宿したことを告げた時、神様は直ぐにそれが聖霊によるのだとは告げられませんでした。もちろん意地悪ではありません。ヨセフには苦しむ時間が必要だったのです。神様の常識を超えた大いなるご計画を受け入れる為に必要な時間だったのです。
パウロは言います。コリントの信徒への手紙Ⅰ10章13節。 あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。
さらにパウロは言います。 信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。(Ⅰコリント13:13)
アドベント第3週にヨセフの示した気概、愛の物語を聞きました。神様の大いなる愛がさらにその外側でヨセフを包んでくださっている事実を私たちは知るのです。祈りましょう。