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山形六日町教会

2020年11月22日

聖書:詩編86編1~4節 使徒言行録4章23~30節
「イエスの名によって」波多野保夫牧師

2週間前になりますが 「説教シリーズ 気概を示す」の17回目で、ヨハネによる福音書8章からみ言葉を聞きました。その最後に次の様に申しました。
今、主の十字架と復活の出来事を知る私たちです。主はおっしゃいます。「わたしはすでにあなたの罪を負った。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」 皆さんのこの2週間はいかがだったでしょうか? 「神と自分と隣人を愛する」者であり、主の愛の中を歩む喜びの生活を送られたでしょうか? 
それぞれに様々なことがおありだったかと思いますが、神様の呼びかけは全く変わりません。「お前を愛しているよ!」です。要は私たちの側が、礼拝の中で、祈りの中で、聖書を読む中で、そして日々の生活の一コマ一コマで、その神様のみ声を聴くことが出来たかどうかなのです。神様が与えてくださる罪の縄目から解き放たれた自由、その自由を感謝しての日々でありたいと思います。
アーティスティック・スイミングの井村ヘッドコーチの講演での言葉 「叱ることは相手の可能性を信じること。叱る時は本気で。口先だけなら見て見ぬふりの方がマシ」この言葉に、私はヘブライ人への手紙12章の言葉を思い出します。5「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、 力を落としてはいけない。6 なぜなら、主は愛する者を鍛え、 子として受け入れる者を皆、 鞭打たれるからである。」 7 あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。
確かに私たちの人生は重荷を負うことと無縁ではありません。しかし、神様のご計画、私たちを愛して止まないご計画の中には、苦しみや重荷と感じられることも有るのです。神様が真剣に愛し、真剣に叱ってくださるからではないでしょうか。
さて先ほど、使徒言行録4章23節以下を読んでいただきましたが、本日は大きな重荷を負った初代教会での出来事を、使徒言行録3章と4章を通して見て行きたいと思います。復活された主が天に帰られる際に約束された聖霊を、ペンテコステの日に受けて誕生した教会です。ペトロの説教を受け入れ「その日に3000人が洗礼を受け仲間に加わった。」とあります。初代教会は急速に発展していったのです。3章1節。ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。誕生して間もない教会は個人の家で礼拝を守っていました。「家の教会」と呼ばれます。その一方で、キリストに従う者たちが父なる神を祀る神殿に行って祈ることも又自然なことでした。初代のクリスチャンたちは、ユダヤ教ナザレ派、即ちユダヤ教の一風変わった一派と見られていたのです。
3:2 すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。3 彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。4 ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。5 その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、6 ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」7 そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、8 躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」 ペトロとヨハネが持っていたもの、それは主イエスへの信仰だけでした。ですから、ここで信仰による奇跡が起こったのです。
福音書には主イエスが行われた多くの癒しの奇跡が記されています。悪霊に取り付かれた者、高い熱に苦しむ者、重い皮膚病、中風、手の萎えた者、百人隊長の僕、息絶えたやもめの息子、会堂長ヤイロの娘、長血を患う女。全体で24章あるルカ福音書ですが8章までを追ってみました。
人々の常識を超えた奇跡をたびたびおこなわれた主イエスですが、病が人を支配している事への憐みであり、神の愛を受け入れる余地を失っている事への憤りがそこにありました。癒していただいた多くの者たちが信仰へと導かれたのです。しかし、それはまた危険を伴う行動でもありました。人気が高まり多くの追っかけが生じるほどに、宗教指導者たちの恨みを買い、最終的に十字架へと繋がって行ったのです。
ここで主と同じ癒しの力、癒しの奇跡をペトロも示しました。その男は足やくるぶしがしっかりして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美したのです。そして3章16節 では驚く民衆に向かって言いました。3:16 あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。足の悪い男が運ばれてきたのを見た二人は、主イエスと同じ様に憐みの心から、主と同じように癒しの奇跡を行いました。主イエスの場合と同じようにこの男は神を賛美し、民衆は我を忘れるほど驚きました。
さらにペトロは主イエスと同じように神のご計画を説教したのです。主イエスと同じようにイスラエルの宗教指導者たちの恨みを買い、主イエスと同じように大祭司一族の尋問を受けたのです。4章7節以下です。 使徒たちを真ん中に立たせて、「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」と尋問した。8 そのとき、ペトロは聖霊に満たされて 堂々と自分が足の悪い男を癒したのは主イエスの権威に依ることを証ししました。10この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。12 ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。13節。 13 議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚いた。彼らは2000年前の漁師です。読み書きを始め学校での教育を受ける機会などありえません。しかも数週間前にペトロは大祭司の家の庭で、3度主イエスを知らないと言っていたのです。逮捕される恐れからでした。別人のようなペトロ。その理由は、復活の主イエスとの出会いであり、聖霊が与えられた教会に連なるという事実以外には考えられません。
ここに私は一つの望みを持つのです。3年間主の言葉によって養われ、力ある業に接したペトロは恐れによって主を裏切りました。様々な恐れや怠惰に支配される私の姿をそこに見るのです。しかし、彼は180度変わったのです。そこに私は望みを持つことが出来るのです。私たちクリスチャンは少なくとも洗礼を授けていただいた時、復活の主にお会いしますし、お会いしました。ペトロと同じです。そして聖霊が導いて下さる教会に集っています。ペトロと同じです。祈ってくれる友がいます。ペトロと同じです。だとしたら、私も、そして皆さんもペトロと同じように、恐れに支配されて逃げ出す者から、真理を証言する者へと変わるのです。もっと正確には聖霊によって変えていただくのです。ペトロがそうだったように教養の有無は関係ありません。最高の知恵、神様の知恵を知り、その知恵に生きる者だからです。そんなペトロは主の慈愛を示しました。
聖書は「美しい門に毎日置いてもらっていたのである。」と記していますが、「置いてもらう」とは痛みが伝わって来る表現です。男の心の動きを追って見ましょう。午後3時ごろになって、今で言うボランティアの人たちが、いつもの様に神殿の境内への入り口にある「美しい門」のところに運んでくれました。なぜ3時かと言うと、神殿では、日の出と午後3時と日没の3回、祈りと犠牲が捧げられ、神殿に多くの人が集ったのです。今日も施しをしてくれる人に出会えると良いな。一生懸命お願いしよう。でも誰も振り向いてくれない。「そこを行くお二人さん、生まれながらに歩くことが出来ないんです。哀れに思って施しをお願いします!」 あ、気づいてくれて近寄って来た。 「私たちを見なさい。」だって、うん、これは何かもらえそうだ。 「私には金や銀はない。」だって。なんだ、がっかり! 「持っているものをあげよう」だって。 ロクなものを持っている様には見えないなー。 「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」 イエスって、この前十字架に架けられて死んだ・・・。 歩きなさい? 何言ってんの? 人の右手を取って勝手に引っ張って、あぶない! 3:7 すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、8 躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。9 民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。 願いすらしなかった奇跡が起こったのです。
この男の前で、なぜペトロたちは立ち止ったのでしょうか? 男の求める物が何かは明らかでしたし、ユダヤでは施しは神様に喜ばれる行為として重んじられていましたが、自分たちにお金はありません。見ないふりをして行き過ぎることも出来ました。しかし、彼らはこのころまでに主のお言葉が身についていたのです。ルカ福音書6章36節 あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。ペトロは主イエスと同じように憐み深い者となっており、主イエスと同じように、40年以上苦しんで来た者を苦しみから救い出すことが出来たのです。もちろん足の不自由さからの解放であり、物乞いの生活からの解放でありました。しかし、もう一つの救いがそこにはあったのです。3章8節 躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。ペトロが神殿に入って説教をしている間も離れません。3章15節、16節 あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です。あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。 宗教指導者の恨みを買って翌日、議会での取り調べを受けた際にも彼はその場にいたのです。そこにいるということでペトロの証人となったのです。4章14節 しかし、足をいやしていただいた人がそばに立っているのを見ては、ひと言も言い返せなかった。ペトロは主イエスが大祭司の庭で取り調べを受けた際、3度主を知らないと言って逃げ出しました。3年間共に過ごし、教えを受け、力ある業、奇跡を経験していたにもかかわらずです。しかし、この男は逃げ出しませんでした。いただいた恵みの源がどこであるのかを知り、いただいた恵みの大きさを知ったからです。ペトロが起こした奇跡の原因は彼の言葉から明らかです。「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」 この男はペトロによって、あの十字架で死んだイエスがどのような方であるかを知り、肉体の癒しと共に、主イエス・キリストへの信仰。すなわち心の癒しも与えられたのです。
信仰が与えられたのはこの男だけではありませんでした。4章4節 しかし、二人の語った言葉を聞いて信じた人は多く、男の数が五千人ほどになった。 おびただしい人に信仰が与えられたことを表現しています。足の癒された男が証人として使徒たちと共にいるのです。4章21節 議員や他の者たちは、二人を更に脅してから釈放した。皆の者がこの出来事について神を賛美していたので、民衆を恐れて、どう処罰してよいか分からなかったからである。4章23節以下です。23 さて二人は、釈放されると仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちの言ったことを残らず話した。24 これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって声をあげて言った。「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です。」ペトロとヨハネは家の教会へ行きました。そこには礼拝を共にし、祈りを共にする仲間、クリスチャンが集っていたのです。29節 4:29 主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。30 どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」31 祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。
初代教会が3000人、5000人と急激に発展していったその原因は、脅しに屈しない強い信仰、主イエスへの強い信頼にありました。「一同の集まっていた場所が揺れ動いた」とはその盛り上がりの故でしょう。私たちもこの様にありたいと思います。
しかし、気になることがあります。「御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」この祈りです。 ペトロはイエス様と同じように病気を癒す奇跡を行いました。主の名による奇跡ですから、現代において絶対にないとは言い切れませんが、私たちにこの様な力は殆どないでしょう。病の癒しは多くの場合現代医学や薬学を用いて行われます。神様が創造されたすべての仕組みの中から優れた研究者に明かされた仕組みを用い発達して来ました。しかし、多くの医師がクリスチャンと言うわけではありませんし、キリスト教系の病院に行けば治癒率が高いということもないでしょう。現代において伝道が停滞している原因の一端はそこにあるのでしょうか?
3つの事実があります。ペトロの時代に比べてはるかに多くの病が癒される様になりました。平均寿命の飛躍的な延びがあります。二つ目は、主によって、あるいは主の名によって癒された人もやがては死の時を迎えた事実です。私たちもやがては神様の御許へと召されます。ペトロたちの時代も私たちの時代もこの事に於いて全く同じです。三つ目は、ペトロも、私たちも避けることの出来ない死の事実を抱えていますが、クリスチャンは死の向こう側にまで続く主の大いなる愛を知っていることです。罪のない者と見なして下さり、さらに肉体の死の向こうにまで及ぶ永遠の命に与る約束。主の十字架はそのシンボルです。
私たちはペトロと同じように、イエスの名によって慈愛を示し、イエスの名によって福音を伝え、イエスの名によって信仰に導くことが出来るのです。いや、他の名前によっては決して出来ません。初代教会の人々は共に集って礼拝し讃美し祈りました。主の名による一番の奇跡、それは、2000年後の私が今、信仰の友と共ここで礼拝を守っている事実なのです。イエスの名によって立ち上がり、死の向こうまで続く喜びの人生を歩んで行く。これが信仰に生かされ教会に集う私たちなのです。祈りましょう。