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山形六日町教会

2020年9月27日

聖書:詩編16編9~11節 ヨハネによる福音書11章23~27節
「死んでも生きる」波多野保夫牧師

先週に続いて説教シリーズ「気概を示す」の15回目になります。先週のヒロインはベタニアのマリアでしたが、本日は彼女の姉マルタです。主イエス一行を迎えていろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたマルタ。その一方で主の足元に座って、その話に聞き入るばかりで、いっこうに手伝おうとしないマリア。堪忍袋の緒が切れたというのでしょうか。彼女はイエス様のそばに近寄って言いました。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」主のお言葉は決してマルタを攻めるものではありません。最善を尽くしてお迎えしようとしたマルタです。これは私たちが教会にそして隣人に喜んで奉仕する、あるいは献げることと同じです。しかし、彼女はその思いが募るあまりに「心を乱して」しまいました。主イエスの為にと思うが故に「思い悩み、心を乱す。」 そうではなくまず主の足元に座って、その話に聞き入ることから始める。これが私たちが招かれているこの主の日の礼拝なのです。その大いなる恵みに感謝し、本日もみ言葉を聴いて参りましょう。
さて、このマルタですが聖書には2か所で登場します。先週のルカ福音書10章と本日のヨハネ福音書11章12章の2か所です。どちらもイエス様を迎えての出来事が記されています。11章は 11:1 ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。2 このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。この様に語り始めますが、実はマリアが主に香油を注ぐのは12章3節の出来事です。実は福音書には日時、あるいは出来事の前後関係の記述にあいまいなところがあります。福音書記者たちは十字架の出来事から40年以上後になって各地の教会に伝えられていた主の教えと出来事を書き留めました。迫害が激しくなる中、生き証人たちが召されていく時代になったからです。彼らの注目点は、イエス様の出来事と教えそのものを正確に分かり易く伝えることであり、時間的順序ではありませんでした。マリアが後に行った主に香油を注ぐ行為は、教会の誰もが知っていたので、11章2節で彼女を紹介する際に最も相応しいエピソードだったのです。それに加えて11章3節。11:3 姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。5節には イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。とありますが、 ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。のでありました。ですから主がベタニヤに到着された時には、すでにラザロが墓に葬られて四日もたっていたのです。
主がベタニヤ村に着くとマルタは出迎えに行ったのですが、その言葉にはトゲがあります。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」病気の兄弟ラザロが助かる唯一の望みをイエス様に託したマルタです。なんでもっと早く来てくださらなかったのですか、あなたは力をお持ちなのだから、早く来て下されば、ラザロは死なないで済んだのに! そこには非難の感情も混ざっていたのではないでしょうか。
先ほど、ルカ福音書が伝えますマルタの姿、主イエス一行を忙しく立ち働いてもてなそうとしているのに、いっこうに手伝おうとしないマリアへのいらだちをイエス様にぶつける姿を見ましたが、彼女は人に文句ばかり言うタイプの人間では決してありません。不満を述べるのは直接主イエスに向かってだけです。これは主への大きな信頼があればこそであり、彼女は心の思いを素直にぶつけたのです。私はこのマルタの姿勢をうらやましく思います。私たちは満たされないことを祈りの中で神様にぶつけて良いのです。信頼をもって心の内をぶつける時、神様は必ず答えてくださいます。
ここから復活に関しての会話が始まりました。司式者に読んでいただいた聖書箇所です。イエス様 「あなたの兄弟は復活する」。 マルタ 「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」。イエス様 「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
ここで非常に大切なこと「主イエスを信じる者にとって、人の死はすべての終わりではない。」この様に述べていらっしゃいます。しかし、私たちの前には生きとし生けるものは全て死を免れることが出来ない事実があります。
30年近く前に本川達夫(もとかわたつお)さんと言う生物学学者の『ゾウの時間ネズミの時間』と言う本が話題になりました。「平均して一生に、心臓が二十億回打ち、呼吸が三億回行われることは、ゾウもネズミもヒトも、変わらない。」と言うのです。強く印象に残り、ゾウとネズミでは時間の流れる速さが全く異なるのだとの説明に感動を覚えました。しかし、ゾウとネズミとヒトには共通点があります。それは、必ず死の時を迎えるということです。なぜかと言えば、神様がその様にお創りになったのであり、各自に与えられている生涯を有意義に生きることが求められています。そして、有意義な人生を生きる上での最高のマニュアルが聖書です。歩むべき幸せな人生を変わることなく示してくれる北極星、それが主イエス・キリストです。日々の生活の中で導いてくれるのが聖霊です。三位一体の神は私たちが幸せな人生を歩むことだけを願い、横道にそれて踏み外すことを望まれません。たとい一時見失ったとしても、罪を悔い改めて立ち返るならば喜んで迎えてくださることは確かです。「放蕩息子のたとえ」が教えてくれます。クリスチャンの幸せな人生の大筋はすでに決まっています。しかし、全員に平等に必ず訪れる死の時。心を乱すことはあり得ます。なぜなら私たちはその経験を持たないからです。さらに肉親や近しい者の死に心を乱すこともあります。様々な後悔を伴うこともあるでしょう。私たちの現実であり、また兄弟ラザロを失ったマルタとマリアの直面した現実でした。そのマルタに主はおっしゃいました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
マルタはユダヤの家庭で育ち、旧約聖書の語る教えをキチンと学んでいましたから「終わりの日、すなわち終末における死者の復活を知っていました」主イエスの言葉を解釈すれば「マルタ、終わりの日の復活。それはその通りだ。しかし、私には人を墓から解放する力がある。だから私を信じ従う者は、決して死ぬことは無いのだ。マルタよ、あなたは私を信じるか。」
主イエスは父なる神からご自分に与えられている権威と力について次の様におっしゃっています。ヨハネ福音書5章19節以下です。「はっきり言っておく。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。 父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。 はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。」私たちはここで語られたことが、まさに起こった、その出来事を11章で見るのです。主はマルタに向かって「あなたは私を信じるか。」と問われました。そして今、「波多野保夫、お前は私を信じるか。」と問われます。皆さん一人一人の名前を呼んで「あなたは私を信じるか。」と問われます。
臨死体験をされた方の話を聞いたことがあります。交通事故で数日間生死の境をさまよったそうです。回復されてから、花園のようなところに自分はいたと語っていましたが、臨死体験は本当の死ではありません。私も皆さんもまだ死を経験していませんし、想像することも容易ではないでしょう。肉体の死には、平均して二十億回の心臓の鼓動の後に訪れる自然死の他にも様々な病気、あるいは事故による死もあります。しかし、私たちにはもう一つ別の種類の死があります。そちらから考えて行きましょう。それは心であり魂の死です。家族、友人、職場の同僚などとの関係性が壊れてしまうことは残念ながら起こり得ます。自分自身との折り合いがつかなくなることもあるでしょう。残念なことですが、信仰の友との関係も間にいてくださる主イエスを見失えば、た易く壊れてしまうでしょう。そんなことはあってはなりません。関係性の破壊によって、痛みや怒りや恐れや失意や混乱が心を支配することになります。これは心であり魂の死であり、私たちが神様の愛から離れることを最上の喜びとする悪魔の勝利です。そんな暗く静寂の支配する世界は、墓に譬えることが出来でしょう。
ヨハネ福音書11章38節以下です。小見出しには「イエス、ラザロを生き返らせる」とあります。主は墓の前に立ち墓石を取り除ける様におっしゃいました。そして 41イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。42わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。」43 こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。44 すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。 この主の声を聞いたラザロは暗く静寂の支配する墓の中から出てきました。復活したのです。いかがでしょうか。先ほど心であり魂の死についてお話ししました。心の臨死体験にとどまらず、はるかにつらい過去をお持ちの方もおられるかも知れません。そんなあなたに主は 「出て来なさい」と大声で叫ばれた のです。その時に主の大声が聞こえなかったのだとしたら、あなたの心が主から遠く遠く離れていたからです。イエスは天を仰いで言われた。と聖書が語る様に主はあなたの為に祈ってくださったのです。さらに主と祈りを共にしてくれた信仰の友であり教会が必ずやそこにあったのです。
さて、肉体の死です。ヨハネ福音書11章28節以下の小見出しには「イエス、涙を流す」とあります。32節以下をお読みします。11:32 マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。33 イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、34 言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。35 イエスは涙を流された。38 イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴(ほらあな)で、石でふさがれていた。
まず注目したいのは、35節 イエスは涙を流された。この証言です。私たちの主は悲しむ者と共に悲しみ、泣く者とともに泣いて下さる方です。マタイ福音書が伝える山上の説教の最初で次の様におっしゃっています。悲しむ人々は、幸いである、 その人たちは慰められる。(マタイ5:4)ルカ福音書が伝える平地の説教では 今泣いている人々は、幸いである、 あなたがたは笑うようになる。(ルカ6:21)
先週の礼拝でお読みしましたローマの信徒への手紙12章9節以下には「キリスト教的生活の規範」と言う小見出しが付いていました。皆さんの生活の中心に据えていただけたでしょうか? その12章14節15節です。 12:14 あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。15 喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。先週の週報に記してあります。パウロが主のみ言葉に忠実に語っていることをもう一度味わってください。「あなたの兄弟は復活する」 この主の言葉は現実のものとなりました。「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。44 すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。ラザロは生き返りそして暗く静寂の支配する墓から出て来ました。兄弟に慰めが与えられ、笑いを取り戻しました。楽しかった日常が回復されたのです。

さて、本日与えられました聖書箇所、11章23節以下に戻ります。「あなたの兄弟は復活する」と言われる主に「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と答えたマルタ。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」と続けられた主イエス。
聖書の言葉はマルタに語られただけではありません。真理の言葉として私たちにも語られています。このことを信じるか。と私に、そしてあなたに問われるのです。私たちはどの様に理解れば良いのでしょう?「わたしは復活であり、命である。」その通りです。主の十字架での死が私の罪の為であると同時に、イースターの出来事を知っているからです。わたしを信じる者は、死んでも生きる。 しかし、神様が創造された人間は心臓が二十億回鼓動を繰り返せば死を免れません。ですから「死んでも生きる」とは心臓の鼓動が止まる肉体の死の後のことです。神様の愛は肉体の死の後にまで及ぶとの宣言なのです。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。文字通りには「クリスチャンは決して死ぬことはない」ですが、もちろん心と魂の死はキリストに従う者にはありません。先ほどお話ししました。さらに死んでも生きることが保証されているクリスチャンはどんな状況に置かれても希望を持つことが出来るのです。繰り返しましょう。キリストを信じ従う者は、どんな状況に置かれても希望を持つことが出来るのです。
パウロは 信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。(Ⅰコリ13:13)この様に言います。キリストの愛の下にある私たちは死の向こうにまで至る希望を持つことが出来るのです。なぜなら、生きている時はもちろん、肉体が死を迎えた後にまで至るキリストの愛に包まれているからです。
さて、説教シリーズ「気概を示す」です。マルタの示した気概、彼女は信仰を告白しました11章27節です。 11:27 マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」しかし私は他にも彼女の気概を見いだします。それは“文句”と言っては何ですが、思いのほどを素直に述べるまでの信頼を主に寄せたことです。
先週ルカ福音書では、「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。」この様に言われてしまいました。この指摘は主が愛の故になさった指摘です。ヨハネ福音書11章21節では、マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」私たちも主に思いの程を素直に申し上げて良いのです。これが祈りです。「ありがとう。ごめんなさい。お願いします。」ですね。全てをご存知の方に素直に祈るのです。何でも言える間柄、主と私たちです。マルタはそのことを教えてくれました。さらに神様と人との素直な関係は人と人との素直な関係に思い至らせます。わたしを信じる者は、死んでも生きる。この約束を知る者同士だからです。自分の至らなさにもかかわらず、主に愛されていることを知る者同士だからです。これが私たちが招かれている主の教会です。 祈りましょう。