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山形六日町教会

2020年9月20日

聖書:申命記7章6~8節 ルカによる福音書10章38~42節
「良い方を選んだ」波多野保夫牧師

九月も中旬を過ぎて、朝晩ようやく秋らしさを感じられるようになってきました。夏の間お休みをしていました2つの説教シリーズ「気概を示す」と「祈るときには」を再開して参りたいと思います。本日14回目となりますが、この「気概を示す」シリーズでは、聖書に登場します多くの女性たちの信仰を通して、それぞれが苦難や重荷を抱える中で示した気概を見て来ました。エステルに始まり、ルツなど聖書に名を残した者だけでなく、主イエスが昼下がりの井戸端で「水を飲ませてください。」と声をかけられたサマリアの女性。「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」と言う一言だけが聖書に記されたヨブの妻などです。
今週はベタニアのマリアです。これは以前にも紹介しましたが、聖書には大勢のマリアが登場します。当時一般的な名前だったのでしょう。主イエスの母マリアの他に十字架の出来事に立ち会った者たちの名に、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセフの母マリア、彼女たちが記されています。
この時、ペトロは鶏が鳴く前に3度主を知らないと言い、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。(マタイ26:56)聖書はこの様に証言しています。しかし、主イエスが復活された50日後に神様の御許から聖霊を送ってくださったことで教会が誕生しましたが、迫害の中に置かれたその初代教会を支え、そして発展の為に男性陣のなした大きな働きも忘れてはなりません。豊かな聖霊の働きのもとで、女も男も共に力を合わせたのです。
さて本日のヒロイン、マリアですが、彼女はエルサレムの郊外3キロ程の所にありましたベタニア村に姉のマルタ、兄弟のラザロと共に住んでいました。ヨハネ福音書には イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。(11:5) この様に記されています。十字架の時を前にした緊張の増す日々にあって、心の安らぐ麗しい関係を楽しまれたのでありましょう。10章38節には次の様にあります。 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。姉妹がイエス様の訪問を心の底から嬉しく思ったことは確かです。しかし、主イエスはこの時、12人の弟子たちを連れてエルサレムへと向っていました。ガリラヤから従ってきた婦人たちも一緒に旅を続けていましたから、マルタが家に迎え入れた一行は20名程だったのでしょう。彼女はイエス様の接待だけでなく、女主人として一行への気配りをしなければなりませんでした。
クリスマス・ページェントに、ヨセフとマリアが泊る所を捜し歩く場面がありますが、当時の宿屋の主な客は馬やラクダの背に商品を載せて運ぶ隊商だったそうです。もちろん現代の様な旅館やホテルなどはありません。旅人は同胞のユダヤ人が提供してくれる部屋に泊めてもらうのが一般的でした。旅人をもてなすことはアブラハムの時代からユダヤの同胞を助ける行為として広く行われていました。ヘブライ人への手紙13章2節には 旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。とありますし、パウロはローマの信徒への手紙12章9節以下で触れています。小見出しに「キリスト教的生活の規範」とあります。

少し横道にそれますが、クリスチャンとして大切な言葉なので週報の裏面に記しておきました。お読みします。12:9 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、10 兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。11 怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。12 希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。13 聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。旅館やホテルやコンビニが無いだけではありません。道中、追いはぎにあう危険すらありました。そんな人たちを心を込めて助ける。マルタは実践しました。9節が言う 愛には偽りがあってはなりません。ですね。続きを読みましょう。14 あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。15 喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。16 互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。
先週、箴言の語る諭しを聞きました。17節。17 だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。18 できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。19 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。20 「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」21 悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。
いかがでしょうか。これが「キリスト教的生活の規範」だと言うのです。出来るのか、出来ているのかと問われると困ります。バラエティ番組の様に〇か×か札を上げるならわたしは×です。20節が分かりにくいかと思います。「燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」とありますが、頭に積む炭火は悔い改めの印です。自分で復讐しないで敵を愛するならば、神様が相手を悔い改めさせてくださると言っています。さて×の札を揚げる私ですが、みんながパウロに従って、こんな世の中になればどんなに素晴らしいだろうと思います。みなさんもそう思われることでしょう。それではどうするのでしょうか? そんなの「理想の世界に過ぎない」と言ってあきらめるのではむなし過ぎます。私の友人に札を揚げてくださいと問えば、〇の札を揚げることが出来る人が一人います。彼の名前はイエス・キリスト。では×の私はどうするのでしょうか? そうです。イエス・キリストについて行くのです。しかもみんなでついて行く。それも道々ついて行く人を増やしながらついて行くのです。これが伝道ですね。大勢が付いていくその集団は、何が本当の幸せなのか、どうすれば幸せになるのか、そのことを知っている集団です。喜びの集団です。そしてこれが教会です。いかがでしょうか。このパウロの言葉を心に留めて、ご一緒に恵みに満ちた豊かな人生を歩んで参りたいと思います。

ルカ福音書10章に戻ります。39節40節。10:39 彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。 40 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」イエス様一行は埃っぽい道を歩いてきました。足を洗う水が必要です。お腹もすいていたことでしょう。心づくしの食事も手配もしなければなりません。柔らかい寝床の準備も。最善を尽くして一行を歓迎したい。全てマルタの純粋な気持でした。彼女は気ぜわしくおもてなしの心で働いているのに、妹のマリアは何もしないでイエス様の足元に座って楽しそうに話に聞き入っている。普段は仲の良い姉妹ですが、いっこうに手伝おうとしないマリアに対するマルタの苛立ちがピークに達したことが分かります。
実はこの聖書箇所は、4年ほど前に説教シリーズ「ルカによる福音書」の中で開き、その際にお尋ねしました。 あなたはマルタに似ていますか? それともマリアでしょうか? 今日も同じことを伺いたいと思います。あなたはマルタでしょうか? それともマリアでしょうか? この問いを持ちながら先に進みましょう。41節42節。10:41 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。 42 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」イエス様はマリアをかばうものの、心を乱しているマルタを非難されているわけではありません。マリアは自分の話を無我夢中で聞き、マルタは自分を喜ばせようと最善を尽くしてくれているのです。
キッとこうおっしゃりたかったのでしょう。「マルタあなたが私たちに心を砕いて一生懸命尽くしてくれることは良く分かっている。本当にありがとう!でも今私はエルサレムへと向かっている。そこには十字架が待っており、私に残された時間は多くない。今一番必要なのは私の話を聞いて神様の御心を知ってもらうことなのだ。マリアは今その一番大切なことをしてくれている。だから是非マリアをそのままにしておいてもらいたい。」
私たちはこの聖書の語る出来事をどの様に理解するのでしょうか? マルタはイエス様とその一行の為に最大の努力をしています。彼女の働きが無ければ、イエス様一行は空腹で一夜を過ごさなければなかったことでしょう。マルタの行いは、私たちが主を愛し主の教会に仕えることに当たります。様々な奉仕や献金などです。さらに旅人をもてなすことは隣人を愛することです。困っている人の為に祈り行動する。主は喜んで下さいます。これはいつも申し上げるのですが繰り返します。私たちのいただいた最高のものを分ちあうこと、信仰を分ちあうことは隣人を愛する最高の表現です。
さて、私たちが教会に、そして隣人に仕えることがなぜ大切なのでしょうか? 喜びなのでしょうか? その理由は簡単です。イエス様ご自身が喜んで仕える方だからです。 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。マルコ福音書10章45節です。
私たちもマルタと同じように、主イエスに一生懸命に仕える必要があります。では、主の足もとで話に聞き入るマリアは? そうです、教会に集って礼拝を守る私たち、そして今説教に耳を傾ける私たちです。二人の女性、マルタもマリアも主イエスを深く愛し信頼していました。すなわち立派な信仰を持っていました。ですから、この物語は二人の信仰を比較し判断するものではありませんが、その表れには違いがあります。
私は「マルタ的であったのか、マリア的であったのか?」と問われれば、ある時はマルタ的になって教会での奉仕に力を入れ、ある時はその熱が冷めてしまった。では、マリア的だったのかと問われると、そうありたいと願うのですが、この世の中の様々なことに気持ちも時間も向いてしまっていたことを認めざるを得ないのです。主はおっしゃいます。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。」「波多野保夫。あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。必要なことはただ一つだけである。 背負いこんでいる重荷をおろしてマリアと同じように良い方を選びなさい。」 主のみ言葉がこの様に心に響きます。
さて、「良い方を選んだ」と主がおっしゃった本日のヒロイン、ベタニアのマリアに注目しましょう。彼女の姿が主の足元にあったことは他の聖書箇所でも語られています。
これは、来週ご一緒に読もうと思っているのですが、ヨハネによる福音書11章28節以下です。11:28 マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。32 マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。兄弟ラザロが病気で亡くなった時のことです。
さらに12章2節3節は、主イエスによってラザロが生き返った後のことです。12:2 イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。3 そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。マリアが主の足もとで多くの時を過ごした姿は、主イエスに対するマリアの従順さを示しています。
先ほど「あなたの信仰はマリア的ですか?それともマルタ的ですか?」と問うた上で、二人の信仰深さを比較することが無意味だと申し上げたのですが、マリア的すなわち、皆さんはどれほどの時を主イエスの足元で過ごしているのでしょうか?この様に問われると戸惑いを覚えるかも知れません。原因は「主イエスの足もとで過ごす」この言葉が漠然としているからでしょう。「イエス様の近くで過ごす。」「共にいてくださるイエス様の愛を覚えて過ごす。」大体こういった意味だと思われるのですが、今一つはっきりしません。はっきりさせましょう。マルタの様子を再び見ます。主イエスは彼女に向っておっしゃいました。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。」「主イエスの足元で過ごす」とはこの反対の状態です。 「思い悩み、心を乱す」 心配や不安、心細さ・イライラ・ストレス、あるいは怒りや焦り、その原因となるものはいくらでもあるのではないでしょうか? 
日々の生活において、人間関係において、学校や職場において。教会においてそうでないことを願います。さらに将来に関して「思い悩み、心を乱す」ことが多くあるのが現代人の特徴ではないでしょうか。そしてその「思い悩み、心を乱す」ことは、殆どの場合望ましくない結果をもたらします。落ち着かない不愉快な時間をすごし、心と体の健康を害することもあるでしょう。
イエス様は教えられました。「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:34)たしかにそうしたいと思います。それが出来ればどんなにか心が休まるでしょう。そして「 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:33)この様にもおっしゃっています。私たちが必要な物は与えてくださるのだとのお約束です。
今日私たちは聖書によってベタニアのマリアの姿を見て来ました。彼女はどこで真の安らぎと喜びを得ることが出来るのか、その場所を知っていたのです。主イエスの足もとです。彼女は喜びの場所を知っていたのです。主の足もとです。39節 マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。のです。彼女は慰めの場所を知っていました。主の足元です。

説教シリーズ「気概をしめす」です。それではマリアの示した気概とは何でしょうか? エステルの様に命を懸けて王の前に進み出てはいません。ルツの様に故郷を捨ててまでナオミに仕えたわけではありません。マルタの様に心を尽くしたもてなしもしていません。彼女は「主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。」のです。しかし、マリアも苦しみ悲しみと無縁ではありませんでした。兄弟ラザロの死であり、主イエスの死です。彼女はそんな時「思い悩み、心を乱す」ことを乗越えることが出来たのです。
私たちです。「主の足もとに座って、その話に聞き入っている。」私たちです。残念ながら苦しみ、悲しみとは無縁ではないでしょう。しかし、私たちは主イエスが共にいて下さり、共に重荷を担ってくださる方だと知っています。
「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」このみ言葉は真実です。
マリアの示した「気概」。それは主の足もとにある恵みを私たちに伝えることではないでしょうか。だとしたら私たちの示すべき気概は明確です。それは全て共に主を礼拝することから始まる生活であり人生です。マリアと同じように私たちも「良い方を選ぶ」のです。祈りましょう。