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山形六日町教会

2020年9月6日

聖書:ヨナ書3章10節~4章3節 ヘブライ人への手紙13章8~9節
「変わるもの、変わらないもの」波多野保夫牧師

早いもので2020年の2/3が既に過ぎ、9月に入りました。まだまだ暑い日々が続いていますが、早春の頃からコロナウィルスの影響に翻弄されてきた感があります。山形県は比較的落ち着いた状況が保たれて来ましたが、平均年齢が高い米沢教会であり、山形六日町教会です。これからも注意しながら主の日の礼拝を守って行きたいと思います。
2週前の8月23日の礼拝では「信頼しています」との説教題で聖書のみ言葉をご一緒に聞きました。クリスチャンには絶対に裏切ることの無い方、主イエス・キリストを信頼して歩む幸せな人生が約束され保証されていますが、その信頼を「信仰」と呼びます。ヘブライ人への手紙11章は、11:1 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。2 昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。 この様に語り始めアダムとエヴァの息子たち、カインとアベル以降、父祖たちの信仰が受け継がれ、ノアやアブラハム、モーセやダビデ王そして主イエスへとつながっていきます。この11章をお読みになってどの様に感じられたでしょうか?
ここに描かれている人から人への信仰の継承は、主イエス以降、少し様変わりして今日の私たちに及んでいます。私たちの信仰は教会によって伝えられたのです。もちろん自分に信仰を伝えてくれたのは、信仰の友や家族、あるいは千歳幼稚園だったかも知れません。人それぞれなのですが、その背後には必ずや教会の祈りがあったのです。聖霊の豊かな働きと、神様のご計画をあらためて覚え感謝したいと思います。

さて本日の説教題を「変わるもの、変わらないもの」としました。皆さんは「変わること」「変化」について、どんな感覚をお持ちでしょうか? 確かに「変わらないこと」には一定の安心感があります。この幸せが何時までも続くようにと恋人たちは願うことでしょう。一方で変わって欲しいこともたくさんあります。職場の上司が交代してほしい、こんな声を耳にすることもあることでしょう。
私は今年の初めまで、今日の続きとして同じように明日があり、来週の日曜日には同じように礼拝が始まる。この様に思っていました。それが神様の大いなる恵みなのだと考え感謝することは、ほとんどありませんでした。今はこの様に皆さんと一緒に集い、礼拝を守れることが大いなる恵みなのだと強く思わされています。感謝することを忘れて思い上がっていたことが指摘されました。変わるものと、その中にあっても変わらないものの事を思わされています。
鎌倉時代に鴨長明が記しました方丈記の冒頭部分です。【ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。】 移ろいゆくものに、はかない美しさを見出す日本人の感性はこの無常観の中にあるのでしょうが、これは積極的な変化というよりも、変化に身を任せることなのでしょうか。鴨長明は世俗世界を離れて京都郊外に一丈四方の小さな家を構えて隠遁生活をしたそうですから、汗水たらして働く庶民の話でないようです。
さて2020年です。現代における変化、特に科学技術の進歩には目覚ましいものがあります。主イエスの時代に歩いて一日かかった距離は車で一時間もかからないで行けますし、何か月もかかった危険な航海も飛行機で数時間でしょう。医学や薬学の進歩も著しく、かつての不治の病も治癒率は日増しに向上しています。世界の食料問題も完全ではありませんが改善されています。さらに、現代において変化自体の速度がますます速くなっていることと、変化が及ぼす影響が極めて大きくなっていることが指摘されています。遺伝子技術の発達は難病の解決に期待される一方で神様の創造された人間そのものの本質を変えてしまう危険をはらんでいます。LineやFacebookなどの普及はいったん悪用されNet上に拡散してしまえば、取り消すことはほとんど不可能であり、容易に人を追い詰めてしまいます。「人のうわさも75日」と言ってやり過ごすことが難しいのが現代です。
変わらないこともあります。自分の利益を求め他人を顧みない人がいることや、ウィルスとの戦いが繰り返されることなどは変わっていません。さらに私たちの命が有限であることも変わりません。変わること、変わらないことが混在している現代、これが私たちが生きている2020年の現実です。果たして人はより幸せになっているのだろうか? この様な思いに駆られます。
私は2030年であり2050年を生きていく青年であり子供たちがどの様な世界を生きていくのかと思うことがあります。 是非より良い時代を築いて欲しいと願っています。幸せを感じながら人生を歩んで欲しいと思っています。ぜひ信仰をもって歩んで欲しいと祈っています。なぜならこの2000年間、「幸せな人生」それ自体は変わることがありませんでした。今のわたしたちと同じように主イエスの愛を感じながら感謝をもって歩む人生です。そして、それは2030年においても、2050年においても主の再臨、終末の日に至るまで変わらないことが約束されています。
パウロは言います。 信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。(Ⅰコリント13:13)預言者イザヤは言います。26:4 とこしえに主に信頼せよ、主なる神はとこしえの岩だからである。(イザヤ書 26:4)聖書は変わらないもの、変わらない方をハッキリ指し示しているのですが、2020年のこの世界は激しく変化しています。本日はこの変化する世界にあって変化しないものをどのように見出し、そして従っていくのか。「変化」に焦点を当てることから始めていきます。ある人が言いました。【「変化」することよりも悪いことは世の中に一つしかない。それは変化しないことなのだ。】 本当にそうでしょうか?

本日与えられた聖書を読んでいきましょう。先ほど読んでいただいたヘブライ人への手紙13章8節9節 13:8 イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。9 いろいろ異なった教えに迷わされてはなりません。食べ物ではなく、恵みによって心が強められるのはよいことです。食物の規定に従って生活した者は、益を受けませんでした。
聖書は主イエスが担われた3つの務めを挙げます。祭司(ヘブル3:1)と預言者(マタイ21:11)と王(ヨハネ18:37)です。祭司は犠牲を神様にささげて罪の赦しを請いましたが、主はご自身を完璧な犠牲としてささげられました。預言者は神様のお考えを人々に伝えましたが、「1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。2 この言は、初めに神と共にあった。」この様にヨハネ福音書がその冒頭で記します様に、主イエスは神の言として私たちを愛して止まない神様のお考えを、数々の教えと業をもって伝えられました。私たちへの愛を最も明白に示されたのが十字架と復活の出来事なのです。私たちは国のリーダーたちが正しい判断を下すように祈りますが、日本は議院内閣制をとりますので王はいません。しかし、パウロは言うのです。わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望のぞんでいる。(ピリピ人への手紙 3:20)
そうです、主イエス・キリストは私たちの国籍がある国、すなわち神の国の王なのです。そしてこの神の国はすでに地上に到来しています。残念ながらほんの一部なのですが、地上に神の国は既に到来しています。それが主イエスを頭と仰ぐ教会なのです。この地上において神の国が完成されるのは終末の時を待たねばなりませんが、教会は神の国の先駆けです。ですから教会は主イエスのみを頭とし、聖霊が支配してくださる場所です。もし、人の思いが支配するのであれば、それはもはや教会ではありえないのです。
キリストは、私たちを愛する祭司であり、預言者であり、王なのです。13章8節 イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。9節には いろいろ異なった教えに迷わされてはなりません。とあります。現代においても、異端であったりカルトであったり、様々な教えがあります。惑わされてしまえば、結局は家庭や人間関係や自分自身の崩壊につながってしまいます。しかし、人を破壊に導くものは他にもあります。お金の魔力に取りつかれたり、お酒や麻薬など様々な依存症もあります。これらは異なった「教え」ではありませんが決して「惑わされてはならない」ものです。
万一、私たちがその様なものに惑わされでもしたら一番喜ぶのは悪魔です。荒れ野で主イエスに敗れ去った 悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。(ルカ4:13節)のですが、私たちを神様の愛から離れさせることを最上の喜びとする悪魔です。私たちと主の間に少しの隙間を見つけると必ず入り込んで来るのです。9節の後半です。 食べ物ではなく、恵みによって心が強められるのはよいことです。食物の規定に従って生活した者は、益を受けませんでした。
創世記や出エジプト記、レビ記などには、食べてはいけない食物が定められています。代表的な動物が豚です。ひずめが分かれた反芻動物、例えば牛は良いのですが豚は反芻しません。動物の血もダメです。ユダヤ人、特にファリサイ派の人たちは自分たちだけでなく他人にも食物規程を守らせたのです。先祖の教えを変わることなく守る様に強制したのですが、たびたび主から非難されてしまいました。
さて、あなたにとって「変化」とは肯定的なことでしょうか? それとも否定的なことなのでしょうか? 今までいろいろな事例を見てきましたが、変わってはいけないことと、変わらなければいけないことがある様に思えます。この問題をはっきりさせる前に見ておきたいことがあります。神様です。神様はお考えを変えられる方なのか、変えられない方なのかです。
冒頭で「クリスチャンには絶対に裏切ることの無い方、主イエス・キリストを信頼して歩む幸せな人生が約束され保証されていますが、その信頼を「信仰」と呼びます。」この様に申し上げ主の変わらぬ愛から語り始めました。先ほど旧約聖書ヨナ書の一節を読んでいただきました。おおきな魚に飲み込まれたヨナさんの話は子供たちにも人気です。4章ほどの短い物語の中に神様のお考えが良く示されています。あらためてお読みになってください。
さて、神様に逆らい続けるニネベの町に罪を悔い改めるよう告げ回ったヨナですが、彼の予想に反して町の人々は退廃した生活をあらためて神様に立ち返ったのです。3章10節 3:10 神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことを御覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた。そして4章2節。ヨナの言葉です。4:2 彼は、主に訴えた。「ああ、主よ、わたしがまだ国にいましたとき、言ったとおりではありませんか。だから、わたしは先にタルシシュに向かって逃げたのです。わたしには、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。ヨナは神様が考えを変えてニネベの町を滅ぼされなかったことが不満だったのです。確かに神様は退廃したニネベを滅ぼすとおっしゃったのを取りやめられました。ですからヨナの指摘は正しいのです。しかし、もう一つ深いところ、神様が罪をいい加減になさらない方であり、しかも悔い改める者を赦される方、人間を愛したくてしょうがない方。このレベルで見れば、神様は変わってらっしゃいません。それではなぜ、ヨナに滅びを告げさせると言う、脅迫まがいのことをしてまで悔い改めを求められたのでしょうか? 六日町教会では大分前になりますが、米沢教会では先週アルファーコースのビデオでニッキー牧師の話を聞きました。彼は悪魔のささやきを次の様に語りました。「クリスチャンなんかになったら、あれをしちゃだめだ、これをしちゃダメだって自由を根こそぎ奪われちゃうぞ。」そして、ひょんなことから子供たちのサッカー試合でレフリーをやることになった話を続けました。準備もなくルールもあいまいな彼がレフリーをすると試合は大混乱に陥りましたが、遅れてやって来たコーチはラインを引きゼッケンを配って試合再開。ルールに従ってキチンと笛を吹きました。レフリーがニッキー牧師の時とコーチの時とで、どちらの方が子供たちは自由に生き生きとゲームを楽しんだのでしょうか? と問うたのです。 ニッキー牧師は「私たちが神様に従うように厳しく求められるのは、本当の自由を得て幸せな人生を歩むためなのだ。」と説きました。
パウロはガラテヤの信徒への手紙の中で、聖霊の導きに逆らう行為として 姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのもの(5:19-21)この様に指摘します。こんなことで一時の快楽を得たとしても、人は幸せにはなりません。だから神様は禁じられるのです。パウロは語ります。5:13 兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。14 律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。
ヨナは神様の心変わりだとして、不満に思い、怒り、そしてふてくされたのです。「悪に満ちたニネベの町は、口先だけで悔い改めたに違いない。なのに神様は滅ぼす約束をコロッと変えてしまった。もう嫌だ、私の命をとってください!」 そんなヨナに神様は語られます。「お前は怒るが、それはただしいことか。」と。神様はお考えを変えられたのでしょうか? 確かにヨナにはその様に思えたのでしょう。なぜなら彼はキリストの十字架の出来事を全く知らなかったからです。
私たちは違います。例え一時、あの放蕩息子の様に神様の愛を見失ったとしても、立ち返る所がキチンと用意されています。イエス・キリストの許に立ち返るのです。具体的には教会における神と人とのつながりの輪です。礼拝から始まる祈りの輪です。私を愛して止まない主イエスが、私たちと共にいてくださることを一番強く感じることが出来るからです。
変わるもの。急速に変化する時代であり、その変化がますます激しくなる現代です。鴨長明の様な暮らしは庶民にはかなわないでありましょう。クリスチャンは激しい変化が、神様の御心に沿ったものなのか否かを監視する必要があります。自分にその力が足りないのであれば、多くの人が信仰によって監視してくれる様に祈る必要があります。伝道の大切な目的です。変わらないもの。そうです。主の十字架の出来事。そしてそこに示される神の愛は絶対に変わりません。変わるべきもの。それは私たちが、もっともっと主に近づくことです。【「変化」することよりも悪いことは世の中に一つしかない。それは変化しないことなのだ。】と申しました。そうです。神様に近づく、その変化を怠ること無くご一緒に歩んで参りましょう。祈ります。