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山形六日町教会

2020年5月17日

聖書:レビ記19章17~18節 ルカによる福音書10章25~28節
「お考えを地上に実現して下さい」波多野保夫牧師

説教シリーズ「祈るときには」の15回目ですが、前回は3月末でした。コロナウィルスの影響下にあったこの間、皆さんも、私も、山形六日町教会も、米沢教会も、そして世界中の教会が祈りを篤くしてきたことは確かです。私たちは様々な時に様々な祈りの時を持ちます。苦しみの中で、困難の中で、そして喜びの中で祈ります。
4月からオンラインで礼拝を共に守っている米沢教会の皆さんにとって、この説教シリーズは初めてになりますので、復習から始めましょう。

祈ることは難しいと考えている方がおいでですが、祈りの要素は「呼びかけ、賛美、頌栄」の他に3つだけです。「ごめんなさい」「ありがとう」「お願いします」これだけです。難しく言えば「罪の懺悔・ごめんなさい」「感謝・ありがとう」「請願・お願いします」ですが、心の内を素直に申し上げれば良いのです。上手な祈り、下手な祈りと言うものはありませんが、素直な祈りでなければいけません。私の祈りは「お願いします」がやたらに多い様に思います。しかし、主は自分は「まことのブドウの木だ」と言われた後さらにおっしゃるのです。 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。(ヨハネ15:7)ですから祈りの自主規制、こんな事を祈っちゃまずいのかな? などと考える必要はありませんし、むしろ傲慢でさえあります。なんでも祈って良いのです。ただし、私たちが願った通りの答えがいただけるとは限りません。その結果が私たちのためにならないのなら、叶えてくださらないでしょう。そもそもなんでも祈った通りになるのなら、神様は私の言葉に従う召使になってしまいます。いつも申し上げる一例です。私が3億円の宝くじに当たる様に祈ったとします。「当たったら半分は教会に献金します。」この位のことは言うでしょう。さて、実際に3億円が当たったらどうでしょうか? 私はおそらく献金をしないでしょうし、牧師を辞めて遊んで暮らす事でしょう。ですから、3億円が当たったら私はみじめな人生を送ることになるに違いないのです。これもいつも申し上げています。私の祈りに神様は2つの「いいえ」か2つの「はい」のいずれかで必ず答えてくださいます。「いいえ、今はその時ではない。」「いいえ、お前の恵みは十分だ。」「はい、やっと祈ったね。前から分かっていたよ、かなえてあげよう。」「はい分かった。しかし、祈ったよりももっと良いものをあげよう。」 
皆さんの日々の祈りに対して、神様はどの様に答えて下さっているのでしょうか? 祈りはどの様に聞かれたのでしょうか? 様々な経験をお持ちのことでしょう。その時は苦しさのあまりに神様を恨んだのですが、後からジワーと深いお考え、深い愛が感じられる。そんな経験をなさったかも知れません。現在苦しみの中にいらっしゃる方、神様は独り子を賜るほどにあなたを愛してくださっています。これは確かです。

さて本日の説教題を「お考えを地上に実現してください。」としました。主の祈りに「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。」とあります。この祈りに触発された説教題です。
先ほどルカ福音書10章25節から28節をお読みしましたが、37節までのみ言葉を聞いて参りたいと思います。小見出しに「善いサマリア人」とあり、大変有名な譬えが語られます。ある律法学者が立ち上がって質問しました。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」律法学者は、宗教的な指導者としてだけでなく、人々の生活や取引の様な場面で律法を解釈する裁判官の務めも担っていました。また最高法院の議席も占めていました。有力な律法学者は政府と国会と裁判所その全てに発言権を持っていたのです。律法学者になるには長年にわたって著名な学者について学び、旧約聖書全体の解き明かしも受けました。40歳になって按手を受け律法学者の任に着くと、特別の装束に身を包み各地で教えたのです。当時第一級の知識人であることは自他ともに認める所でした。多くは大変まじめな者たちでしたが、私たちは主がたびたび彼らを非難されたことを知っています。その理由はただ一つ。律法はそれを守って幸せに暮らすために神様が与えてくださったものなのに、字づらを守ることに固執して、人々の人生を豊かにするのではなく縛りあげることになっていたからです。自尊心が高く、自分たちの権威を守ることに執着する、そんな彼らを主は非難されたのです。
現代において、教会での礼拝を始めとした様々な活動や、私たちに日々の生活がいい加減なものであってはなりませんが、お互いが人の弱点に目を向け裁き合う集団となってしまえば、これはもう主の教会ではありません。主が律法学者たちを非難する言葉は、私たちにも向けられていることを注意する必要があります。
さて、この様な律法学者でしたから、最近ガリラヤ地方の会堂で教えている30歳そこそこのイエスと言う男が気に食わかったのは当然です。自分たちは長い間研鑽を積みやっと律法学者としての名声と地位が得られたのに、イエスと言う男は無学な漁師や罪人の取税人を弟子にして歩き回り名声を得ている。確かに立派なことを言ったり力ある業を行うと聞いているが、所詮はローマからの独立戦争を煽るくらいだろう。一つ俺が懲らしめてやろう! 今日の聖書箇所にはこんな背景が想像されます。
イエス様が、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」彼は胸を張って旧約聖書申命記(6:5)とレビ記(19:18)にある言葉をすらすらと答えたのです。イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」「神を愛し、隣人を自分の様に愛しなさい。」です。この律法学者はそれを実際に行わなければいけないなどと、考えてもみませんでした。皆さんはいかがでしょうか? わたしには大変重い言葉です。
10章29節 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。そこで、良いサマリア人の譬えを語られます。登場人物は、強盗に襲われ半殺しにされた旅人、彼はユダヤ人です。祭司とレビ人。そしてサマリア人。あとは追いはぎと宿屋の主人です。祭司とレビ人は神殿に仕えています。彼らは強盗に襲われたのがユダヤ人だと直ぐに気づきました。ですから、道に横たわっている同胞を助けなければいけません。しかし、もたもたしていると追いはぎが戻って来るかも知れません。早く立ち去りたいのです。そんな彼らは良い言い訳を思いつきました。「律法には“死体に触れた者は7日間汚れる”と書かれている。(レビ21:4,11)神殿で誠実に神様にお仕えすることこそが最も大切な務めなのだ。」こう言って道の向こう側を通って行ったのです。見て見ぬふりをしたのです。彼らと同じように、私は何かをやらないことの言訳を考え出す点では天才的です。実際こんな場面に出会わなければ良いと思ってしまいます。
さて、サマリア人です。ユダヤ人はサマリア人をさげすんでいたのですが、これには歴史的な背景がありました。750年ほど前に北イスラエル王国はアッシリア帝国によって滅ぼされてしまったのですが、このアッシリアの占領政策は冷酷でした。民族と宗教の純粋さを許せば、いつの日にか反乱を起こすに違いありません。そこで、イスラエルの民の一部を他国に移住させ、また他国の民をイスラエルに移住させて結婚させる、民族の混交政策を強制しました。これはまた異民族の宗教がイスラエルに入り込むことでもありました。一方、南のユダ王国は600年程前にバビロニア帝国によって滅ぼされ50年間のいわゆるバビロン捕囚を経験しました。しかし、バビロニアとその解放をもたらしたペルシャとの占領政策は、アッシリアとは違い、重い税金を納める限りにおいて、民族の文化と宗教を尊重するものでした。従って彼らはユダヤ教の純粋性を保つことが出来たのです。
イエス様の時代になっても、南の人々は北の人々を、「心も体も神から離れ汚れた者」として、さげすんでいたのです。北王国の首都がサマリアに置かれていましたから、彼らはサマリア人と呼ばれました。 ヨハネによる福音書にイエス様とサマリアの女の会話があります。4章7節以下をお読みしますのでお聞きください。4:7 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。 8 弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。 9 すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。この後に、主イエスの有名な言葉が続きます。 4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。 私の好きな聖句の一つなのでついお読みしてしまいました。
さて、サマリア人です。ユダヤ人から軽蔑されていた、その彼だけが半殺しにされたユダヤ人を助けたのです。普段さげすまれていたこのサマリア人にとって、追いはぎに襲われ半殺しにされた人が誰であるのかは問題では有りません。ただただ、困っている人を憐れに思い、助ける行動に出たのです。しかも、その哀れに思う心、慈愛に満ちた心は半端なものではありません。34節35節 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』 デナリオン銀貨二枚は2万円程になります。36節 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。 主イエスは今、私にそしてあなたに問われています。私とあなたは答えます。「その人を助けた人です。」そこで、イエス様は言われます。「行って、あなたも同じようにしなさい。」 
マザー・テレサは言いました。「大切なのは、どれだけ多くをほどこしたかではなく、それをするのに、どれだけ多くの愛をこめたかです。」相対性理論を発表した、アルバ-ト・アインシュタインは言いました。「人の価値はその人が得たものではなく、その人が与えたもので量られる。」
先週の礼拝で讃美歌21の513番を賛美しました。同じメロディーの1957年版讃美歌332番では「 主は命を与えませり 主は血潮を流しませり その死に依りてぞ 我は生きぬ 我何をなして 主に報いし 」この様に歌います。「主イエスが十字架上で私たちの罪を負って亡くなられたことで、主に従う私たちに新しい命を与えて下さった。私たちはどの様に感謝を表すのだろう。」との祈りの言葉です。答えは明快です。隣人を愛するのです。
「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。」主の祈りの一節は「神様のお考え、即ち愛の支配が御許で実現している様に、どうぞこの地上においても実現します様に。」この様にお願いする祈りです。毎週の礼拝で祈ります。神の国の到来、即ち地上の悪が全て取り除かれて、神様の愛の支配に覆われる。これは大いなる希望ですが、主イエスが再び地上に来られる日、終末の時を待たなければなりません。しかし、現在この地上に一つだけ例外があります、神様の愛が全てを支配するところがあります。実はそれが教会なのです。なぜなら十字架の主が十字架上で示してくださった究極の愛を知っているのが教会だからです。もちろん困難の中にある方に寄り添い慈愛を持って接することを主は喜んで下さいます。「行って、あなたも同じようにしなさい。」これは主のお言葉です。
しかし、使徒ペトロの言葉を忘れることはできません。使徒言行録3章6節です。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」 ペトロは正に主イエスへの信仰を伝えたのです。信仰による癒しを与えたのです。確かに現代において多くの肉体の癒しは医療によって与えられます。しかし、心の癒しに祈りは欠かせませんし、免疫力を高く保つためにも祈りは有効です。隣人を愛する一番のことは、私たちの受けたもの、私たちのいただいた最高のものを差し上げることです。信仰を届けることを忘れてはなりません。なぜなら、私たちが祈る「御国が地上に来ます様に」との祈りは、多くの人が教会に集うことによって前進するのであり、伝道の働きは教会に、そして集う一人一人に委ねられているのです。
「善いサマリア人」の譬えでは、一人の旅人がエルサレムからエリコに降っていきました。急坂のつづら折れの道は隠れる場所が多く、追いはぎにとって絶好の仕事場です。こんな道をたった一人で旅するのは非常識です。
さて私たちの人生です。山あり谷あり、曲がりくねって見通しが悪く、あえぐような急坂もあります。一人で旅をするのは極めて危険です。追はぎならぬ悪魔が私たちを待ち構えている、これが現代ではないでしょうか。悪魔は私たちが神様から離れることを何よりの喜びとして様々な誘惑を仕掛けてきます。是非、群れをつくって進みたいと思います。大勢の方を招きたいと思います。そして完璧な道案内人に導かれて、兄弟姉妹と人生の旅を共にする。これが教会です。その時、私たちにとっての「良きサマリア人」。分け隔てなく愛を注いでくださる方こそが、共に人生を歩んでくださる主イエスなのです。 祈りましょう。