HOME » 山形六日町教会 » 説教集 » 2020年5月10日

山形六日町教会

2020年5月10日

聖書:歴代誌上22章11~16節 ルカによる福音書21章1~4節
「だれよりも多く」波多野保夫牧師

最初に歴代誌上22章11節以下をお読みしました。晩年のダビデ王は神様に神殿をささげようとしたのですが神様はおっしゃいました。『あなたは多くの血を流し、大きな戦争を繰り返した。わたしの前で多くの血を大地に流したからには、あなたがわたしの名のために神殿を築くことは許されない。』(歴代22:8) そこでダビデ王は息子ソロモンに神殿をささげる強い望みと夢を託したのです。手にした強大な権力と富を用いて彼が主の神殿のために準備した品々や職人や労働者が14節以下に記されています。どれほどのものかと思い金10万キカルについて調べてみました。聖書の後ろにあります度量衡には、1キカルは34.2キログラムとあります。ですから金340万キログラムです。新聞の経済面によれば、現在金の価格はグラムあたり6000円程でした。340万*1000*6000円です。頑張って計算してみた所20兆円。なんだかもう訳の分からない数字ですが、4月30日に成立したコロナ対策の補正予算が26兆円とありました。いずれにしろ神殿建設に用意された金だけで物凄い金額になりますが、このダビデ王の願いはソロモン王によってかなえられました。
さて、ルカによる福音書です。先ほど21章1節からお読みしましたが、直前の20章45節から読んでいきましょう。小見出に「律法学者を非難する」とあります。 20:45 民衆が皆聞いているとき、イエスは弟子たちに言われた。46 「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。47 そして、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」
十字架の時を前にされた主イエスです。日曜日には人々が大歓迎をして出迎える中、ろばに乗ってエルサレムに入城されましたが、エルサレム神殿でご覧になったのは、金儲けの場としてしまっている商人たちでした。『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』この様におっしゃり、犠牲に捧げる鳩を売る商人と両替商を追い出してしまいました。「宮清め」と呼ばれます。そんなイエス様を、祭司長、律法学者、民の指導者たちはイエスを殺そうと謀った のです。神様と民衆の間に立って、もっと正確には神様を利用して、自分たちの利権を守っていたからです。イエス様は次の日も、またその次の日も神殿で愛して止まない神様のことを、さらに悔い改めて神様に立ち返って生きる幸せな人生のことを語られたのです。これはまさに私たちが今聖書を通して、また説教を通して聞く福音の言葉です。ただ一つだけ違いがあります。私たちの方が分かり易いのです。なぜなら、私たちは主イエスの十字架の出来事、私たちの罪を全て負ってくださった出来事と、さらにその主が死に勝利された復活の出来事の全てを聖書の証言によって知っているからです。
さて、主イエスを殺してしまおうと決心した律法学者たちですが、民衆の人気が妨げになって手が出せません。そこで言葉尻を捉えようと様々な難問をぶつけました。どんな権威をもって宮清めをしたのか? ローマ帝国に税金を納めても良いのか? 復活したらどうなるのか? こんな質問をして来る律法学者たちは、人々が幸せに暮らすために命じられた律法を自分たちの都合のために捻じ曲げ悪用していたのです。彼らの本性を見抜いた主は強烈に批判されました。20章46節です。彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。 そして、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。
人々の前で主は弟子たちに語られたのですが「私に残された時間はもうわずかだ。神様のご計画に従って、間もなく十字架に架かる。お前たちに任せて私は父の御許に帰ることになる。後はお前たちが神様の愛を伝えるのだ。福音を全世界に伝えるのだ。神様も隣人も愛していない律法学者たちを反面教師にしなさい。私は世の終わりまで、いつもあなた方とともにいる。」この様な思いで語られ、教えられたに違いありません。
しかしこの時、彼らは主のおっしゃることの重大さを全く理解出来ませんでした。イエス様は弟子たちと一緒に、神殿の「婦人の庭」と呼ばれる場所に行かれました。女性はここまでしか中に入れないとされていた場所です。そこにラッパの様な形をした13の献金箱が置かれていました。過ぎ越しの祭りの時です。各地から大勢の巡礼者がエルサレム神殿にやって来てここで献金をささげています。献金にはシェケル銀貨を用いる事が定められていましたから、各地方のお金を両替商が交換していたのです。イエス様に追い出された両替商はすぐに戻って来ていたのでしょう。このシェケル銀貨は2,500円程の銀貨ですから、金持ちが献金した時には、ラッパ状の献金箱からチャリン・チャリン・チャリンと良い音色が鳴り響きました。彼らが周囲の人に知られることで満足するように、神殿の祭司はおおきな良い音の出るラッパ状の献金箱を用意したのでしょう。
祭司たちと両替商や商人との癒着は明らかです。祈りの家を利権の場としている。そんな者たちの罪のために私は十字架に架からなければならないのだ。宗教指導者たちが仕掛けてくるわなを含んだ質問。商人たちと神殿祭司たちの癒着。そして迫ってくる十字架の時。にもかかわらずのんきな弟子たち。どんな思いで金持ちたちが献金する様子を見、そしてチャリン・チャリンと鳴り響く音を聞いておられたのでしょうか?しかし、その時主イエスを喜ばせる出来事が起きたのです。

本日は説教シリーズ「気概を示す」の7回目です。先週は旧約聖書のルツ記をご一緒に読みました。ルツが姑のナオミに尽くすため故郷、モアブの地を捨ててユダのベツレヘムにやって来た物語でした。一生懸命落穂を拾ってナオミの生活を支えるルツ。そのルツを異邦人との結婚を禁じた律法の掟を越えて妻としたボアズ。彼らの示した気概、隣人のために困難に打ち勝つ努力を神様は良しとして用いられた物語でした。彼らの孫がエッサイ、その息子がダビデ王、そしてその末にヨセフがあり、主イエス・キリストへとつながる家系です。これが神様の愛のご計画でした。
さて、本日の主人公は、レプトン銅貨2枚をささげた「貧しいやもめ」です。レプトン銅貨は100円程でしょう。 彼女の示した気概、それはもちろん「乏しい中から持っている生活費を全部入れた」ことにあります。全生活費をささげたのです。皆さんはこの出来事をどの様に聞くのでしょうか? この物語をどの様に読むのでしょうか? 弟子たちはこのやもめの存在に全く気付かなかったのですが、イエス様は本当に小さなささげものにも心を留めてくださるかたです。私たちが困難の中に有る時、心細い時にあって、知っていてくれる事、話を聞いてくれる事、祈っていてくれることが、どんな大きな支えになるか。感染症が猛威をふるうこの困難な時にあって、いのちの電話の働きの尊さが思われます。マザーテレサは「愛の反対は憎しみではありません。無関心です。」この様に言いました。チャリン・チャリン・チャリンと献金をした金持ちの関心は、神殿の庭にその音が響き渡って人々の称賛を得ることであり、貧しいやもめを気にとめることなどありません。全くの無関心です。人々の身勝手さに重く沈んでいた主の心を貧しいやもめのほんのわずかな献げものは明るくしたに違いありません。どんなにわずかであっても、わたしたちが神様に心を向ける時に、神様は気付いて下さる、喜んで受け入れてくださる。この物語は私たちに安心を与えてくれます。そして私たちも困難な方に寄り添いたいとの思いを与えてくれます。
しかし、もう一つの思いがあります。21章4節の主の言葉です。「この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」 大変心が痛む指摘です。生活費全部を献げたことがないからです。現代に生きる私たちには様々な生活費が必要です。食費、住居費、さらに通信費も馬鹿になりません。その全てをささげてしまう。この様な方がいらっしゃるのでしょうか? チャリン・チャリンの金持たちはもちろん、神殿建設のために20兆円を準備したダビデ王も全てをささげたわけではありません。
ペトロはある時主に「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いました。(マルコ10:28) 確かに3年程前のガリラヤ湖畔での出来事です。主の言葉に従って真昼間に沖で漁をした結果は網がやぶれそうになるほどの大漁でした。イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。(マタイ5:10,11)
確かに今までの生活の全てを捨てて従ったのです。それでは弟子となって主と共に旅をした彼らは生活費を持たなかったのでしょうか? イスカリオテのユダが金入れを預かっていた(ヨハネ13:29)と聖書は語りますし、お金持ちだったといわれますマグダラのマリアたちがお金を出し合って一行と共に旅をし、奉仕していました。(ルカ8:2,3) 弟子たちに食物の心配、生活費の心配はなかったのでしょう。そもそも、5000人を養ってくださる方と一緒の旅です。私はこの様に、やもめがすべての生活費をささげた事実の「重さを薄めようとするのです。確かに使徒言行録は最初の教会に集った人たちが、心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。(使徒4:32)この様に語っています。
旧約聖書が告げる律法は、その年に収穫された穀物や果実、あるいは家畜の群れの十分の一は主のものだと述べます。(レビ27:30,民数18:26,申命14:22)主イエスは十分の一は捧げるが、神と隣人を愛する心に欠けるファリサイ派を非難された後、「十分の一の献げ物もおろそかにしてはいけない」と言われました。(ルカ11:24)
確かに現代においても十分の一のささげものを強調する教会があります。喜んでささげていらっしゃる方々がいます。素晴らしいことです。私は献金に関して次の様にお願いしています。「喜びの範囲で献げてください。ただし、チョットだけ無理をしてください。その無理を神様はきっと喜びに変えてくださるに違いありません。」 考えてみてください。礼拝に集い、あるいは礼拝に集えない時であっても、神様に捧げものが出来ることを感謝して祈りをもってお捧げします。お捧げすることが出来ること自体が喜びでなくて何でしょうか。私たちを神様が生かし用い恵みを与えてくださっている。その喜びの現れがささげものです。
さて、全ての生活費をささげたやもめです。この時の彼女は生活の不安で心がふさがれていても不思議の無い状況にありました。不安が心を覆ってささげることを止めても不思議の無い状況でした。誰も非難出来ないでしょう。本当に貧しかったのです。
21章3節 主イエスは「確かに言っておくが」と語られます。「はっきり言っておく」とかあるいは単に「言っておく」と語られたこともあります。弟子たちに対して、大切なこと、絶対に忘れてはいけないことを語られる時です。ここで弟子たちが、そして私たちが忘れてはならないことが「生活費を全部ささげなさい」であるのならば、それに耐えられる人は極めて少ないでしょう。主が私たちに行動を求められる際には、「あなたがたは敵を愛しなさい」(ルカ6:35)であり、神と自分と隣人を愛しなさい。「しなさい」とはっきりおっしゃいます。それを行うことが私たちの幸せな人生につながるからです。しかし、ここで主は「あのやもめと同じように、生活費を全部ささげなさい。」とはおっしゃっていません。私に不可能なことをご存知なのです。
ではここで主が「確かに言っておく」と強調されたことは何でしょうか。それは、神様は全てお見通しだということ。宗教指導者や金持ちの様にうわべを繕っても無駄だと言うこと。そして神様は貧しい心、心からのささげものを喜んでくださるということです。このやもめの物語は私の心を重くします。しかし、ささげ物の本質はすべてささげることでも、十分の一ささげることでもありません。そもそも私たちのささげものは献金だけではありません。献金の祈りに「献身の印としてお捧げします」との言葉があります。奉仕であり時間であり才能であり、捧げものは様々です。しかしそれらすべては祈りをささげることから始まります。

人類の歴史における最大のささげものがあります。それはダビデ王の20兆円ではありません。そうです。全く罪を犯さなかった人間イエスが、ご自身の命をささげられたこと、十字架の出来事です。この捧げものによって、主イエスに従う私たちは罪のない者と見なしていただけるのです。やもめのささげもので心重くなった私は、主イエスのささげもので心を軽くしていただけるのです。喜んでいられるのです。もう一度申しましょう。生活費を全部ささげた貧しいやもめは私の心を重くします。しかし、主の十字架の出来事に思い至った時には、いや思い至った時にだけ、私の心は喜びに代わります。これが神様のご計画であり、福音なのです。だからこそ私たちは喜んでささげるのです。主に仕えるのです。祈りましょう。