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山形六日町教会

2020年3月22日

聖書:サムエル記上16章5~7節 マタイによる福音書27章11~26節
「妻の見た夢」波多野保夫牧師

山形市内の様々な教派に属します教会の牧師が集まってみ言葉に聞き、祈りを共にします、市内牧師会の3月例会が、先週の月曜日に持たれました。コロナウィルスの影響と言う重苦しい環境の中にあって、それぞれの教会がレントの日々を歩んでおりますが、暗闇の先に輝く光を見つめつつ日々恵みの中を歩んでいる牧師達の集まりです。大きな励ましを与えられる時でありました。そんな中で一人の女性教師が次の証しを語ってくれました。
【お孫さんが休校のため、家でおはぎを作ったりして、一緒に過ごす時間が増えているのですが、外に連れて行ってあげようと、真室川の奥の大滝と言う所にある息子さんの奥さん、お嫁さんの実家に行ったそうです。ほとんど付き合いがなかったのですが孫をダシにして初めて訪ねました。このお嫁さんは熱心なクリスチャンなのですが、実家の御両親はキリスト教にほとんど触れたことはありません。おばあさんは留守だったので、おじいさんとゆっくり話したあと、「じゃあお祈りさせてください。」と言ってお祈りして来ました。来週また訪問してこんどは、おばあさんとも一緒にお祈りしてこようと思っています。」帰ってきてからお嫁さんに「あんな山奥で良くクリスチャンになったわね。」って話したら、「もっと山奥にもクリスチャンがいます。私の場合、きっと誰かが祈ってくれていたんでしょうね。」と言ってました。】小学校の休校も伝道の機会に用いてくださる聖霊の働きを賛美なさっていました。あらためて「女性の働きは凄いな。」と思わされた次第です。

さてこの説教シリーズ「気概を示す」では聖書に登場します一人の女性を取り上げて、彼女の示した気概、辞書には「困難にくじけない強い意志」とありますが、信仰と言って良いでしょう。彼女の信仰を通して私たちの信仰を見つめ直したいと思います。
私たちは今、主の十字架の苦しみが私たちの罪を贖うためであったという、主の愛を強く思いながらレントの時を過ごしています。本日与えられましたマタイによる福音書27章に先立つ26章には、最後の晩餐での聖餐式の制定。ゲッセマネの園での祈りと逮捕。イエス様を見捨てて逃げてしまった弟子たち。全員男性ですね。大祭司の屋敷での尋問とそれに続く侮辱。そして、ペトロの3度にわたる「主を知らない」との裏切り。この様な一連の出来事が一晩のうちに矢継ぎ早に起きたと記されています。
実は今年は10年に一度、ドイツのオーバーアガマウと言う小さな村で、村人が総出で演じますキリストの受難劇が演じられる年に当たりますが、その開催が危ぶまれています。私は実際に見たことは無いのですが、以前NHKスペシャルで取り上げられました。受難劇でのこの裁判の場面を想像してみましょう。

主な登場人物は3人と一つのグループです。場面はローマ総督ピラトの館の広間、ここが法廷です。週報にミハーイ・ムンカーチと言う画家の作品を載せました。一段と高い所に裁判長のポンテオ・ピラトが座り、その前に被告のイエス様がたたずみ、周りを祭司長や長老たちと群衆が取り囲んでいます。
聖書を読んで行きましょう。27章11節 さて、イエスは総督の前に立たれた。総督がイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と言われた。ヨハネ福音書6章15節に、次の様にあります。5000人に食べ物を与えられた後のことです。 イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。
マタイ福音書21章9節です。 群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」人々は主イエスの力ある業と言葉に、自分たちをローマ帝国の圧政から解放してくれる王の姿を、これは主のお考えに反して、勝手に見たのです。私たちは主イエス・キリストが罪の縄目から解放し、神の王国に連なる者としてくださる「真の王」であることを知っていますが、この絵に描かれている者たちは、その真ん中に立っていらっしゃる方以外に、それを知る者はおりませんでした。
27:12 祭司長たちや長老たちから訴えられている間、これには何もお答えにならなかった。13 するとピラトは、「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」と言った。14 それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った。
先ほど礼拝招詞で読まれたイザヤ書の言葉です。わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて 主は彼に負わせられた。 苦役を課せられて、かがみ込み 彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように 毛を刈る者の前に物を言わない羊のように 彼は口を開かなかった。
この裁判には、これは現代では制度化されているものがあります。「お前がユダヤ人の王なのか」との問いは罪状認否です。祭司長や律法学者たちは、3つの罪で訴え出ていました。
ルカ福音書23章に「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました。」(ルカ23:2)この様にあります。
ユダヤ民族を惑わしてローマ帝国に対して反乱を起こさせようとしたこと。ローマに税金を納めることを禁じたこと。そして自分がローマ皇帝に並び立つ王、あるいは救い主だと言って皇帝の権威を低めたことでした。全くの濡れ衣であり、主イエスがその様な罪状とは無縁な方であったことを私たちは良く知っています。ピラトに訴え出た祭司長たちや長老たちもそれは承知の上でのことでした。
なぜそんな罪状で訴え出たのでしょうか?それは、主イエスの説く福音であり、悔い改めて神に従えと言う教えであり、それらが宗教指導者であり、最高法院の議員と言う彼らの既得権益と真っ向から対立したからです。主イエスを殺してしまおうと誓い合った彼らでしたが、最高法院には死刑判決を下す権限が与えられていなかったために、ローマ帝国への反逆罪で訴え出る以外に方法がなかったのです。
さて罪状認否に対しての答えは否。そんな意図は全くありませんでした。当然です。次は被告人の弁護あるいは弁明を聞きます。ピラトは何もお答えにならない主を促して、弁明を聞こうとしますが、それでも、どんなうったえにもお答えにならなかったのです。
27章15節 ところで、祭りの度ごとに、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた。これは、犯罪者を赦したり、控訴を取り消したりする現代の「恩赦」です。ローマ帝国が支配していた属州全体に恩赦の制度が存在したとの記録は残っていないそうですから、統治が困難なユダヤで総督ポンテオ・ピラトが、自分の権威を示したり、人気取りのために行ったようです。
ピラトは群衆に問います。 「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」バラバ・イエスかキリスト・イエスか? チョット変ですね。バラバの名前もイエスだったとは。実は4つの福音書に、この囚人バラバは登場するのですが名前がイエスと書かれているのはマタイ福音書のこの箇所だけなのです。
聖書は修道院の中で代々書き写され伝わって来ましたが、わざわざ書き加えると言うのは考えにくいので、「極悪人バラバ・イエスと主イエスの名が同じでは」と考えた修道士が、ある時代に削ったのではないかと言われています。最もイエスと言う名前はありふれた名前で大勢いたようです。実は私もその一人なのです。アメリカではウィリアムがビルと呼ばれ、エリザベスがリズと呼ばれる様に、名前を短くして呼び合います。私は保夫ですからYasuが通称でした。ある時アラビア語の礼拝で証を頼まれた際に言われたのです。アラビア語でYasuはイエスのことだと。明治時代に耶蘇と言われたのに通じるのでしょうか。私はもっと主イエスに近づかなければいけないと思わされました。
さて、祭司長たちや長老たちに説得されていた群衆は叫びました。「バラバ・イエスを釈放しろ!」「キリスト・イエスを十字架につけろ!」裁判の場面をもう一度見てみましょう。ピラトは公正な裁判を心がけ、人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていました。ですから、「バラバ・イエスを釈放しろ!」「キリスト・イエスを十字架につけろ!」ますます激しく叫び続ける群衆の説得をさらに試みましたが、祭司長や律法学者の策略の前には無力でした。 地上における絶対的な権威を皇帝に代わって体現するローマ総督、ポンテオ・ピラトですが、彼はこの世の邪悪さの前に全く無力でありました。総督がローマ皇帝から命じられている最大の仕事は、支配する地域の平穏を保ち、キチンと税金を治めさせることでしたから、これ以上の説得は暴動につながり自分の地位を危うくするとの恐怖にかられたのでしょう。これがユダヤの地で唯一死刑を言い渡すことの出来る権威者の実の姿だったのです。この世の権威とはこの程度のものなのです。せっかく「主イエスは無罪」と言う真理にたどり着いたにも関わらず、保身に走ってしまいました。
彼のむなしいパフォーマンスとこの世の邪悪の叫びが24節25節です。ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」25 民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある。」ピラトが手を洗ったのは、自分は無関係だと宣言する象徴行為です。現代の私たちにも良く分かる方法ですが、旧約聖書申命記によれば、殺人事件を処理した町の長老や裁判人は手を洗い「我々の手はこの流血事件とかかわりがなく、目は何も見ていません。」(申命記21:1-9)この様に祈ることが求められました。しかし、主イエスの無実を知りながらも、保身のために自分自身を裏切ったピラトの罪は手を洗っても拭(ぬぐ)われません。
一方の群衆は言いました。「その血の責任は、我々と子孫にある。」 神の独り子を十字架に送った罪、その責任を取ることは誰にもできません。キリストを十字架に架けた民族として、ユダヤ人排斥運動が繰り返し起こりました。第二次世界大戦中のナチスによるホロ・コーストにも影響したと言われています。主は私たちの罪のために死んでくださったのですから、私たちもキリストの死に対して責任があります。
ではどの様に私たちは責任を取れば良いのでしょうか? 責任なんかとれっこありません。社会的に問題を起こし、遺書を残して自死を選ばれた悲しい記事が掲載されることがありますが、それで責任が取れるわけではありません。キリストの死に対する責任の取り方。それは主が一番望んでいらっしゃることを実現する、即ち、悔い改めて福音を信じること以外にないのです。
そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。鞭打ちは皮と肉をはぎ骨まで達する過酷なものです。肉体的な苦しみは十字架の死に至るまで続きますが、沈黙を守られた主イエス・キリストです。
フィリピの信徒への手紙2章6節以下。2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。私たちを愛する故に、私たちの罪、すなわち神様のご命令に従いきれない私たちの罪を一人で負ってくださった主イエス・キリストなのです。

さて、説教シリーズ「気概を示す」では一人の女性の信仰を通して、私たちの信仰を見つめ直してきました。また、主な登場人物は3人と1グループと言いましたが、一人足りません。
27章19節。 一方、ピラトが裁判の席に着いているときに、妻から伝言があった。「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」そうです。実はピラトの妻が今日の主人公なのです。
聖書に彼女の名前は記されていませんが、ローマの歴史研究からクローディア・プロクラと言う名が分かっています。言い伝えでは後にパウロから洗礼を受けたとされていますが真偽は分かりません。しかし、ギリシャ正教会、ロシア正教会などの東方教会では聖人、教会が認めた立派な信仰者とでもいうのでしょうか、その聖人とされています。私たちプロテスタント教会では信仰者を聖人とすることはしません。
ではなぜ今日、彼女を取り上げたのでしょうか? その理由は、神様の語り掛けをしっかりと受け止めたからです。彼女の場合、それは夢を通してでした。実は聖書には夢によって御心が示された記事が多く出てきます。新約聖書に限っても、マリアが身ごもったと知ってヨセフは婚約を解消しようとしますが、夢の中で聖霊の働きを告げられます。彼が赤ちゃんイエス様を連れてエジプトに逃げる様に告げられたのも夢によってでした。聖書はある時は「幻」を語りますがその本質は「夢」と変わりません。パウロが「ヨーロッパに渡って主の福音を伝えてください。」との願いを聞いたのは「幻」においてでした。
さて、総督ピラトの妻プロクラはローマ人ですからユダヤ人から見れば異教徒です。その彼女が「あの正しい人に関係しないでください。」と言うのです。徹底した男性社会にあって、しかも裁判長と言うローマ帝国の権威を代表する職務を遂行している真っ最中の夫に、ローマへの国家反逆罪で訴えられている主イエスを「正しい人」と断言するのです。ローマへの反逆者を「正しい人」と言い切るのですから「わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」と彼女が語るのも当然でしょう。
ところで、夢の本質は現代の大脳生理学の研究テーマの一つですが、「脳に蓄えられた過去の様々な記憶が組み合わされてストーリー化されるのだろう。」と言われています。しかし、先ほど触れた、ヨセフの場合もパウロの場合も、またこのプロクラの場合も、「夢」で語られたことは、過去の記憶や経験を越えたものなのです。彼らがそんな経験を積んだはずはありません。聖書が告げる「夢」、あるいは「幻」を、神様は御心を告げる一つの手段として用いられました。では、現代においてはどうでしょうか? 「夢のお告げ」と言ういかがわしいものもあります。もちろん神様のなさることですから「現代において神様は夢を用いてみ心をお伝えになることはありません!」この様に断言することはできませんし、また必要ないことです。
なぜなら、神様は聖書を通してキリストの愛を十分に伝え、「神と自分と隣人を愛して歩む人生」がいかに豊かで素晴らしいかを100%語ってくださっているからです。ポンテオ・ピラトの妻プロクラは「真理」すなわち神様の御心を理解するのに、随分苦しめられました と語ります。確かにそうでしょう。
しかし、私たちは違います。礼拝に集い、聖書のみ言葉に聴き、祈り、賛美し、献げる。ピラトの法廷で、主は口を開かれませんでしたが、今私たちの中心に共にいて下さり、「愛しているよ!」私は十字架を一人で負うほどに「愛しているよ!」この様に語ってくださるのです。レントの日々において、この福音を聞いて参りましょう。祈ります。