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山形六日町教会

2020年3月8日

聖書:列王記上17章13~16節 使徒言行録16章9~15節
「どうぞお泊りください」波多野保夫牧師

説教シリーズ「気概を示す」の3回目です。このシリーズでは、毎回聖書に登場します一人の女性を通して、私たちの信仰を見つめ直していきます。
第一回はエステルでした。彼女はバビロン捕囚が終わった後もペルシャ帝国に残ったユダヤ人の一人でしたが、絶世の美人であったことからペルシャ王の王妃となると言う、数奇な運命をたどりました。同胞のユダヤ人が皆殺しにされて財産を奪われる計画を知った時、彼女は王のお呼びがないにもかかわらず、命を懸けて王の前に出て直訴したのです。エステルは唯一の神を主と仰ぐ同胞の祈りに支えられ、その同胞のために命を捨てる覚悟で、気概を見せました。
第二回は、サマリアの女でした。昼下がりに人目を忍んで水を汲みに来る女。彼女は人と顔を合わせたくない複雑な過去を持っていたのですが、そんな彼女に「水を飲ませてください」と語りかけられたイエス様です。この女性との対話が始まりました。いぶかる彼女に イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」この様におっしゃり、彼女の知られたくない過去を全部示されたのでした。さらに話を聞くうちに彼女は悟りました。この方こそ私たちの先祖に神様が約束された、キリストと呼ばれるメシアに違いないと。彼女の取った行動は素早いものでした。水がめをそこにおいて町へとかけて行き、町の人に告げたのです。「私はメシアにお会いしました!」彼女は自分の過去について町の人から非難され、のけ者にされていたに違いありません。にもかかわらず、一番会いたくない者たちの所に急いでかけて行って告げたのです。「メシアが来られた、私は今お会いしました!」彼女は自分をのけ者にする町の人たちの所へ最高の知らせを届けることで気概を見せたのです。主イエスの言葉、「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」彼女の中で永遠の水が湧きだしたのです。
「でも、波多野先生、彼女が気概を示したっておっしゃいますけど、ただ話しているのがメシアかも知れないって気づいて、水がめを置いて町に戻り、人々に告げただけじゃないですか。普通のことをしただけでしょう。それが彼女の気概だなんて、チョット大げさじゃないですか?」いつもながらに良い質問です。次のことを覚えましょう。確かに最初に彼女に話しかけたのはイエス様の方です。「水を飲ませてください」でした。
実は主イエスはいつも私たちに呼びかけていてくださいます。まだ信仰に至っていない方、すなわち洗礼を受けていない方には、一緒に神様の恵みを受けて歩む豊かな人生へと招いて下さっています。わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。イエス様の下さる水。信仰は渇くこと、枯れることがないのです。
すでに信仰をお持ちの方にとって、湧き出る命の水は自分だけが飲むのであれば余ってしまいます。ですから、愛する隣びとと分ちあうのです。そのために必要なことは単純です。自分が見たり経験した感動を町の人に伝え、イエス様の許へと案内する。要するに喜んで普通のことをすれば良いのです。
「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」からです。

さて復習が長くなりました。今日登場する女性はリディアです。本日はヨーロッパ大陸に初めて福音が伝えられ、教会が建てられて行く、その切っ掛けとなった場面であり、そこに登場したリディアが示した気概が大いに用いられた話です。しかし、彼女の話に入る前に、使徒パウロがこのフィリピにやって来るようになったいきさつから見て行きましょう。
ご存知の様にパウロはファリサイ派の熱心なユダヤ教徒で、キリスト教迫害の先頭に立っていたのですが、ある日、復活された主と出会うことで、彼の人生は180度変わりました。迫害する者から述べ伝える者へ変わったのです。西暦35年頃の出来事と言われています。彼は西暦40年代中ごろから伝道者としての活動を始めましたが、フィリピの町に着いたのは西暦50年代の前半、現在のシリアにありますアンティオキア教会から出発して4200㎞にも及ぶ第二回伝道旅行の途上でのことでした。
彼はアジア州、今のトルコの内陸部に主の福音を伝えようと願ったのですが、それを聖霊から禁じられた。とあります。使徒言行録16章6節です。さらに、トルコの北の方、黒海沿岸地方に行こうとしましたが、イエスの霊がそれを許さなかった。とあります。

本日与えられました16章9節以下です。16:9 その夜、パウロは幻を見た。その中で一人のマケドニア人が立って、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」と言ってパウロに願った。10 パウロがこの幻を見たとき、わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである。 
パウロが福音を伝える様に告げられたマケドニア、この地方にフィリピ教会やテサロニケ教会が建てられて行くのですが、現在のギリシャに位置しており、まさにヨーロッパ大陸にあります。それまでパレスチナや小アジア、あるいはアフリカの一部地域に伝えられていた主の福音が初めてヨーロッパに伝えられたのです。
日本のプロテスタント教会の多くは、そのルーツをアメリカからの宣教師たちに持ちますが、アメリカの教会はヨーロッパにそのルーツを持ちます。パウロは聖霊によってアジア州での伝道が禁じられて、ヨーロッパに初めて福音を伝えました。
そして、彼の伝えた福音は1600年代の始めにヨーロッパからアメリカに渡り、やがて1887年 宣教師J・P・モール達を聖霊が導かれたことによって、七日町の借家に一致教会山形講義所の看板が掲げられ、さらに諸先輩の祈りと努力によって、今私たちは山形六日町教会で礼拝をささげています。
2000年に及ぶ神様のご計画、聖霊の働きの一端を見る気がして、私は使徒言行録のこの部分が大好きなのです。
私たちの人生においても、あるいは教会の歩みにおいても、思い通りにいかなかったり、願い通りにいかない。祈っても聞き届けて下さらない。扉が閉ざされてしまう。そんな時はあるでしょう。しかしそれは神様が違った方向へ、思わぬ幸せな方向へと導き、そして用いてくださる時なのではないでしょうか。そんなことを思うからです。
16章11節以下です。16:11 わたしたちはトロアスから船出してサモトラケ島に直航し、翌日ネアポリスの港に着き、12 そこから、マケドニア州第一区の都市で、ローマの植民都市であるフィリピに行った。そして、この町に数日間滞在した。13 安息日に町の門を出て、祈りの場所があると思われる川岸に行った。そして、わたしたちもそこに座って、集まっていた婦人たちに話をした。聖霊の命じるままにマケドニア州に到着したパウロは、ローマの植民都市として栄えていたフィリピにやって来ました。
13 安息日に町の門を出て、祈りの場所があると思われる川岸に行った。なぜパウロは安息日に川岸に行ったのでしょうか? 彼はまずユダヤ教の会堂を探したのですが、この町に会堂がなかったからです。
20年程前に主イエスを十字架に架けたファリサイ派の人たち、律法学者や長老たちが中心的な位置を占めているユダヤ教の会堂を、主の福音を伝えようとする彼がまず探したというのは、ちょっと不思議です。

主イエスが30歳になり、バプテスマのヨハネから洗礼を受け、悪魔の試みに勝たれた頃のことです。4:14 イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。15 イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。(ルカ福音書)この後イザヤ書を開いて朗読し、説教なさいました。その20年後にパウロも、しばしば会堂に行って福音を述べ伝えました。考えてみれば当然です。ユダヤ教とキリスト教は同じ唯一の神を信じ、私たちの旧約聖書は正に彼らの聖書です。
しかし、根本的な違いがあります。それは、主イエス・キリストをメシア、救い主として受け入れるかどうかです。ですからユダヤ教の人たちは本当にモッタイナイのです。素晴らしい福音が与えられているにもかかわらず、それを見ようとしないからです。今パウロは聖霊に導かれて、ヨーロッパに初めて福音を伝えることになった、第二回伝道旅行の途上にありますが、先立つ40年代後半の第一回伝道旅行の際、トルコの内陸地方の町でのことでした。
主の福音の説教をした後のことです。13:42 パウロとバルナバが会堂を出るとき、人々は次の安息日にも同じことを話してくれるようにと頼んだ。45 しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した。(使徒言行録)パウロは同胞のユダヤ人に福音を語り、自分と同じようにクリスチャンを迫害する者から、キリストに従う者へとなる幸せを語ったのですが、ユダヤ人は受け入れようとしません。
そこで彼は 「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。」この様に宣言して、異邦人、すなわち唯一の神を知らない人たちに福音を伝える決意をしました。その彼が聖霊に促されてヨーロッパに渡り、さらにその末に日本に福音が伝えられて、今私たちがここで礼拝をしています。神様のご計画を見る思いがして楽しくなります。

さて、安息日に、フィリピの町のどこかで、きっと祈りの集会が持たれているに違いないと考えたパウロです。6章13節 安息日に町の門を出て、祈りの場所があると思われる川岸に行った。そして、わたしたちもそこに座って、集まっていた婦人たちに話をした。やっと見つけた婦人たちの集会です。これもまた聖霊の導きですね。16:14 ティアティラ市出身の紫布を商う人で、神をあがめるリディアという婦人も話を聞いていたが、主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた。
お待たせしました。やっと本日の主人公リディアの登場です。彼女は紫布を商う人、とあります。紫は巻貝の鰓下腺(えらしたせん)の粘液を日光にさらして得られる、大変貴重で高価な染料でしたから、彼女は裕福であり、神をあがめるリディアとありますから、唯一の神を崇(あが)めて安息日を守る婦人たちのリーダー的な存在だったのでしょう。主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた。
さて、昨年9月に来日したローマカトリック教会のフランシスコ教皇ですが、その彼が2017年にこの聖書箇所の説教した際の記録があります。紹介しましょう。【 主はリディアが神の言葉に従うようにと彼女の心を開かれました。主は聖霊が宿ることが出来るようにと彼女の心を開かれたのです。カトリック教会では聖霊のことを「心にお迎えする香(かぐわ)しいお客様(the sweet guest of the heart)」と呼びます。しかし、主は閉ざされた心に入ることはできません。どこで心のカギを買うことが出来るのでしょうか?そんなカギはどこにも売っていません。それは神様の贈り物なのです。 主よ、心の中に聖霊をお迎えするために、私の心を開いてください。 そうすればイエス様が私の主、私の神であることを理解できるからです。】さらに彼は毎日次のように祈ることを勧めました。【 主よ、私の心を開いてください。あなたが教えてくださったことを理解するために。主よ、私の心を開いてください。あなたのみ言葉をいつも胸に覚えるために。主よ、私の心を開いてください。私の心が常に真理で満たされるために。】(“Open your hearts to the Holy Spirit” May 22, 2017 Casa Santa Marta)
私たちも共にしていきたい祈りです。

16章15節  そして、彼女も家族の者も洗礼を受けたが、そのとき、「私が主を信じる者だとお思いでしたら、どうぞ、私の家に来てお泊まりください」と言ってわたしたちを招待し、無理に承知させた。リディアは心を開いて主イエス・キリストを受け入れ、家族の者たちを導き、主の兄弟をもてなしました。彼女は気概を示したのです。「チョット待ってください。質問があります。リディアは確かに以前から神様を崇(あが)めていたし、パウロの話を注意深く聞いたのは分かります。しかし、主なる神様が彼女の心を開いたんであって、別に彼女が特別な気概を示したわけじゃないんじゃないですか?」
またまた鋭い質問ですね。確かに神様が全てを備えてくださることは事実です。パウロをマケドニアに遣わし、安息日のこの朝に町の門を出て川岸に行かせたのも御霊なる神様です。2000年後の今、私たちをここに集めてくださっているのも御霊なる神様です。
週報に黙示録3章19節以下を記しました。20節をお読みします。「20 見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」全てを神様が整えてくださいます。しかし、扉を開くのだけはリディアであり私たちなのです。ですからリディアも、そして私たちも気概を示す必要があるのです。
「二つ目の質問です。家族の者を導いたって言ったけど、大家族制の時代でしかもリディアは金持ちだったから、みんな従っただけじゃないのかな? それにお金持ちだから主の兄弟をもてなすことも出来たんでしょ?」当時の家族制度を知った上での鋭い質問ですね。後で使徒言行録の続きの部分を読んでください。暫らくフィリピの町に滞在したパウロとシラスですが、ある日ひょんなことから逮捕され牢屋に入れられてしまいます。
そして16章40節です。 牢を出た二人は、リディアの家に行って兄弟たちに会い、彼らを励ましてから出発した。そうです、リディアの家はヨーロッパ最初の教会、「家の教会」と呼ばれる教会になっていました。お金持ならば教会の建物を立てることは出来るでしょう。
しかし、そこにはクリスチャンとなった兄弟たちが集まりパウロとシラスのために真剣な祈りが献げられていたのです。福音の広がり、すなわち伝道のためにリディアの大いなる祈りがあったことは確実です。彼女が心を開いて主を畏れ仕える者となったことがお分かりいただけたと思います。
私たちは洗礼を受けるに当たって自分の手で心の扉を開けて、聖霊を心の内にお迎えしました。そうですね!感謝してその恵みを忘れないようにすることが大切です。「神と自分と隣人」を愛し続けるのです。
まだ洗礼に至っていない方は是非心を主に向かって開いてください。それこそが私たちが示すべき大いなる気概。祝福に満ちた気概なのです。

最後に週報に記しましたローマの信徒への手紙10章9節9節をお読みします。9 口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。10 実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。これが主の大いなる恵みの言葉です。祈りましょう