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山形六日町教会

2021年12月26日

聖書:箴言1章7節 マタイによる福音書2章1~12節
「喜びにあふれて」波多野保夫牧師

先週のクリスマス礼拝で、神様は私達山形六日町教会に二人の姉妹を与えてくださり、大きな喜びにあふれました。聖霊の御業を褒め称えたいと思います。ところで、本日の説教を先週と同じ様に「クリスマスおめでとうございます。」この様に言って始めたらいかがでしょうか?私は時々、毎週の日曜日が「クリスマスであり、イースターです。」この様に申し上げています。
イースターはユダヤの過ぎ越しの祭りの時に、十字架の出来事があり、その3日後に復活されたのですから、ある程度の日取りは分かります。しかし、クリスマスが何月何日なのかは聖書には書かれていません。私たちの一日が、心に主をお迎えすることで始まるのであれば、毎日がクリスマスでしょう。私たちの罪を負って十字架にかかってくださった方に、罪の自覚を持つごとに感謝するのであれば、毎日がイースターでしょう。
私たちにはあまりに頻繁に行うと、その本質に思い至らなくなる性質があります。毎週、週の初めの日曜日に礼拝を守り、月の初めの礼拝で聖餐式を守る。 年に一度備えの時を伴って、クリスマスやイースターの礼拝を守る。教会の2000年に渡る歴史の中で、先輩たちが見出した知恵です。その一方で「毎日がクリスマスであり、毎日がイースター。」この思いも大切にしたいと思います。主がおっしゃるからです。 わたしは世の終おわりまで、いつもあなたがたと共にいる。(マタイ28:20) 「いつも」です。
しかし、今日12月26日に「クリスマスおめでとございます。」と言うのにはもう少し根拠があります。教会歴では1月6日を公現節と言って、東方の占星術の学者が赤ちゃんイエス様を尋ねて礼拝した日として祝います。そして教会歴を重んじるカトリック教会などでは、12月25日から1月6日までの12日間を降誕節としてクリスマスの祝いが続くそうです。東方の占星術の学者が尋ねて来たのが、主の誕生から日が経ってからだと申したことを不思議に感じられた方もおいででしょう。12月17日に千歳認定こども園で行われたユリ組さんのクリスマス礼拝でページェントが演じられました。生まれたばかりの赤ちゃんイエス様が飼い葉桶の中に寝ています。そのイエス様を羊飼いたちがやって来て礼拝しました。それに続いて3人の博士が黄金、乳香、没薬を献げて礼拝しました。園児たちが一生懸命、歌って語って演じてくれる姿は何度見ても良いものです。これから、厳しい時代を生きていく園児たちです。イエス様の豊かな愛の中で成長して欲しいと思います。占星術の学者たちがやって来た時期について、現代の聖書神学者たちはもっとすごいことを言います。彼らは聖書を書かれたままに読むことで一旦2000年前の聖書著者の意図、聖霊によって与えられた語り伝えるべきことを正確に読み取ろうとします。その上で、習慣も文化も全く異なる現代に向かって何が語られているのかを正確に読み解くのです。
マタイ福音書2章16節に さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。 この様にあります。わざわざ2歳以下と言っていることから、主イエスの誕生から2年近く後のことではないかと言うのです。さらに、宿屋がいっぱいで生まれた赤ちゃんを飼い葉桶に寝かせた夫婦だったのですが、11節には学者たちが家に入って見ると、とあります。家族3人が安心して過ごせる状態になっていたのです。2000年に渡って聖書を研究し、正確に読み取ることを大切にしてきたことが分かります。
話しがそれてしまいました。マタイ福音書2章1節に戻りましょう。イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムにやって来ました。 この学者たちは遠くペルシャからやって来たようですが、ギリシャ語で書かれている聖書原典にありますマゴス(μαγος)と言う言葉は、以前私たちの礼拝で用いられていた口語訳聖書では「博士たち」と訳されていました。
2000年前に文明の進んでいたペルシャにおいて、占星術は星の運航を詳しく研究する最先端の自然科学で、現在私たちの抱くイメージとは異なっていました。さらに、薬学や哲学にも秀でていたそうです。彼らは毎晩観測している星空に突然現れた明るい星が、大いなる喜びの印だと理解できたのです。
紀元前538年、ペルシャ王キュロスはバビロニア帝国を滅ぼし、イスラエルの民をバビロン捕囚から解放しました。それだけではなく、エルサレムに帰った人たちの第2神殿建設を支援したのです。さらにかつてのペルシャ帝国の首都スサはあのエステル記の舞台でした。 第一級の知識人だった学者たちです。バビロンで活躍した預言者イザヤの書を知っていたのでしょう。イザヤ書9章5節  ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神 永遠の父、平和の君」と唱えられる。 星に導かれてエルサレムにやって来た学者たちは尋ねました。マタイ福音書2章2節3節。 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。 占星術の学者は現れた星が、救い主の誕生を意味していると理解出来ました。
一方ヘロデ大王ですが、若いころの彼は才覚にあふれていました。当時勢力を拡大していたローマ帝国に取り入って「ユダヤ王」の称号を許され、やがてヘロデ大王と呼ばれる様になりました。民衆の歓心を買うために、小規模だったエルサレム第二神殿を大改修して荘厳な神殿としたのも彼です。イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」マルコ福音書13章1節にはこの様にあります。さらに、ユダヤ地方を大飢饉が襲った際には、私財をなげうってエジプトから食料や衣類、さらに種もみを買い求め、困った人達に与えました。その結果翌年には飢饉は収まったそうです。 しかし、晩年になると彼は持ち前の猜疑心の強さから、自分の地位を奪う可能性がある者を次々と殺してしまいました。母親、妻、長男を始め3人の息子、さらに有能な家臣たちも反逆罪に問うたのです。
そんなヘロデ大王に東方の学者たちは「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。」と尋ねたのですから、ヘロデ王は不安を抱きました。エルサレムの人々も、あのヘロデ大王がそんなことを聞いたらまたひどいことをするに違い無いと恐れたのです。 宗教指導者たちは、旧約聖書ミカ書(5:1,2)を参照して「ユダヤのベツレヘムです。」と答えました。ヘロデ大王は言いました。「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう。」 9節以下です。 9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。救い主にお会いするために2000キロ以上に渡る砂漠の旅を続けて来た学者たちは、主イエスにお会いし喜びにあふれ、主を礼拝し3つの献げものを献げました。黄金は王様に相応しい送り物です。ソロモン王を訪ねたシェバの女王からの贈り物は黄金でした。(列王記上10:10)乳香は祭司が神殿での祭儀の際に用います。没薬は死体の腐敗を防ぐために用いられました。いずれもとても高価なものです。
この世の真の王として来られた方、祭司は罪の赦しを求めて犠牲をささげましたが、人間の犯した罪の犠牲として、ご自身をささげられた方、そして十字架での死の三日後に復活なされるために墓に葬られた方。黄金、乳香、没薬はその方の為に相応しい贈り物だったのです。
2章12節。 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。この後2つの出来事が語られます。天使がヨセフに現れ告げました。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」そして、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。
主イエス・キリストを中心に2種類の人間模様が展開されています。東方からやって来た、最先端の自然科学と薬学や哲学に通じた占星術の学者たちと、かつては豊かな才能を発揮してユダヤを良く治めていたものの、年老いて猜疑心の虜(とりこ)となったヘロデ大王です。両者とも今流に言えばIQの高い賢者でした。 ペルシャの宗教はゾロアスター教と言う燃える火を神聖視する異教でした。そんな異教徒の賢人たちが、危険な砂漠の旅を厭(いと)わず、星に導かれて誕生したばかりの救い主の許を訪れ、礼拝し宝物を献げたのです。
初めて異教徒に主の福音が示されたとされる1月6日を公現節と呼ぶのは、主イエスが異邦人と呼ばれた異教徒を含めて福音、即ち神様の愛を伝えるために初めて公に現れた、そういった意味を持っています。 彼らは、ペルシャで神様が新しい星の出現と言う現象を用いて示された招きに、素直に応じました。献げものを携えて厳しい砂漠の旅を厭いませんでした。ヘロデ王の許を去った後、先立って進む東方で見た星に素直に従いました。救い主にお会いし、喜びの内に礼拝することが出来た彼らは「ヘロデの所に帰るな」とのお告げに従順に従いました。
先ほど救い主が来てくださることを予言するイザヤ書を引用しましたが、同じイザヤ書に次の言葉があります。天にしるしを見る者、星によって占う者 新月によってお前の運命を告げる者などを 立ち向かわせ、お前を救わせてみよ。 見よ、彼らはわらにすぎず、火が彼らを焼き尽くし 炎の力から自分の命を救い出しえない。この火は体を温める炭火でも 傍らに座るための火でもない。(イザヤ47:13,14) 占星術師など何者だろうか。彼らは何もできないではないか。「わらに過ぎない彼らを火が焼き尽くす」と言うのは燃える火を神聖視するゾロアスター教を非難する言葉です。だとしたら、この占星術の学者たちになぜ福音が知らされたのでしょうか? その理由は簡単です。彼らが神様の言葉に対して素直だったからです。
一方のヘロデ大王です。年を取るとともに、自分の地位を危うくするのではないかと言う思いから、悪魔に支配されるようになってしまいました。信頼できる者が一人もいないのです。彼はエルサレム神殿を再建した人物です。唯一の神がどのような方なのか良く知っていました。「神と自分と隣人」を愛しなさいという十戒を始めとする律法の戒めを良く知っていました。神様に対する素直さを失った彼は悪魔に対して素直だったのです。
旧約聖書は「主を畏れることは知恵の初め。」と繰り返し述べています。この「畏れる」という言葉は説明が難しいのですが、怖(こわ)がることではありません。辞書には「近づきがたいものとしてかしこまり敬う」とありますが、「主を畏れる」とは、「独り子主イエス・キリストを与えてくださるほど、私たちを愛してくださっている神様を信頼して素直になる。」ことです。箴言1章7節。主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。箴言9章10節。 主を畏れることは知恵の初め 聖なる方を知ることは分別の初め。詩編111篇10節。 主を畏れることは知恵の初め。これを行う人はすぐれた思慮を得る。主の賛美は永遠に続く。
占星術の学者たちは主を畏れました。ヘロデ大王は主を畏れませんでした。あなたは、そして私はどちらなのか、主イエス・キリストの前で問われます。
同じく箴言3章5節以下です。3:5 心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず6 常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば 主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。7 自分自身を知恵ある者と見るな。主を畏れ、悪を避けよ。
私たちは降誕節にあって神様の大いなる愛をあらためて感じることが出来ます。しかし、そんな私たちは残念ながら「神と自分と隣人を愛しなさい。」このみ言葉から離れること、即ち「罪」を犯すことと無縁であり続けることは出来ません。
15年程前になりますが、NHKで放送されていた「ザ・ホワイトハウス」と言うドラマを良く見ました。大統領とそのスタッフたちが織り成すドラマです。 ある日大統領の首席補佐官が、かつてアルコール中毒の治療を受けていたことが明らかになりました。これは政治的には大きなスキャンダルです。その時首席補佐官と共に大統領を支える一人が次のたとえ話をしました。 【ある男が通りを歩いていたら穴に落ちてしまったのですが、穴が深くて登れません。すると医者が通りかかったので大声で叫びました。『お~い、お医者さん、助けてくださーい』。医者は穴の上から男を見下ろして、処方箋を書いて穴の中へ落とすと立ち去っていきました。
次に牧師が通りかかったので男は叫びました。『牧師さん、どうか助けてくださ~い』。 牧師は祈りの言葉を紙に書いて、穴に落とすと去っていきました。
次に友人が通りかかりました。『おれだ、助けてくれ』。彼は穴の中の友を見留めると、すぐに穴の中に飛び降りたのです。男は言いました。『バカだな、二人とも落ちてどうするんだ!』。 友人は言いました。『私は、以前この穴に落ちたことがあるから、脱出方法を知っているんだ』。】
私たちの人生には様々な苦しみ悩みが確かにあります。しかし、私たちには素晴らしい友人がいるのです。ヨハネ福音書15章15節。15:15 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。
クリスマスの日に生まれた私たちの友は真の苦しみを知っていらっしゃいます。その苦しみは肉体的な苦しみと無実の罪を負わされた苦しみに留まりません。神様に見放された苦しみも味わわれました。そして落ちた穴は陰府すなわち死者の世界です。しかし、この方はその落ちた穴から脱出した、復活なさった経験を持っている方です。その方が私たちの友なのです。
私たちはあの学者たちの様に神を畏れる者でありたいと思います。神様の前で素直に「神と自分と隣人を愛すること」の不十分さを認めたいと思います。
「罪」を認めたいと思います。そして、私たちは隣人を深く愛するものになりたいと思います。なぜなら私たちの友、主イエス・キリストが、いつも私たちを愛してくださっているからです。 祈りましょう。