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山形六日町教会

2021年12月19日

聖書:イザヤ書52章1~15節 ルカによる福音書2章1~20節
「主が知らせて下さったこと」波多野保夫牧師

クリスマスおめでとうございます! この日神の独り子主イエス・キリストが、真の人として私たちの住む地上に来てくださいました。 私たちは、11月28日から始まったアドベントの期間、このクリスマスへの備えをなしてきました。第1週の主日礼拝では、天使ガブリエルがマリアへ伝えた受胎告知を聞きました。第2週にはバプテスマのヨハネの父となるザカリアの預言を。先週の第3週はマリアの賛歌でした。主イエスを身ごもったマリアが、バプテスマのヨハネを身ごもった親戚のエリザベトを訪ねた時、二人は主の御業をたたえ合いました。そしてマリアは高らかに「主の御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。」この様に歌うのでした。
本日は説教題を「主が知らせてくださったこと」としました。聖書のみ言葉をご一緒に聞いて参りましょう。主イエスが来てくださる以前の、イスラエルの歴史を遡(さかのぼ)れば、民族の父祖アブラハムに行き当たります。彼は、新たな土地を与えてくださること、子孫を「天の星、浜辺の砂」の様に増やしてくださること(創世記2:17)。この神様の約束を信じて故郷を離れました。しかし、その歴史は順調ではありませんでした。神様に従順な時には、大いなる恵みが与えられましたが、その恵みを当然と思うようになった人々は神様から離れ「罪」の奴隷となりました。そのような彼らを悔い改めへと導くために、預言者が送られたのですが、聞く耳をもちません。そこで神様は敵を用いてその奴隷となさったことで、すべてが神様の恵みであったことに気づき、救いを祈り求めました。「罪」の奴隷から敵の奴隷に、この繰り返しの中で神様はモーセやヨシュアやダビデやペルシャ王キュロスたちを用いてイスラエルの民を救われたのです。
主イエスが誕生された当時のイスラエルはローマ帝国の支配下にあり、その支配からの解放、あのダビデ王の時代の輝きを取り戻してくれる救い主の到来を待ち望んでいました。ルカによる福音書2章1節以下はローマ皇帝アウグストゥスの時代に、ユダヤのベツレヘムと言うダビデの町で起きたある日の出来事を淡々と語ります。マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。住民登録の為に多くの人が出身地へと帰ったので、喧騒に包まれた宿屋はすでに満室でした。布にくるんで飼い葉桶に寝かされた赤ちゃんは、粗末ではあったものの、安全で暖かな場所で両親に見守られていたのでしょう。もちろん豪華な宮殿での誕生ではありませんでした。
救い主誕生の知らせは、天使たちによってまずベツレヘム郊外で 野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた羊飼いたちに告げられました。聖書には羊や羊飼いが多く登場します。
詩編23篇、ダビデは歌います。主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ 憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる。
イエス様はおっしゃいました。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。(ヨハネ10:14) 私たちは羊にたとえられています。羊は牛や馬などと比べて知能が低いと言われます。臆病な性質で、群れで行動することから、シェパードなど、賢い牧羊犬は先頭に立つ羊を導くことで群れ全体を動かしていきます。
しかし、ある脳神経学者が色の違うバケツに餌を入れて、それを認識させ正確に判別できるまでの回数を比較したところ、猿と同じだったそうです。ただの食いしん坊なのかも知れませんが、他のテスト結果も加えてこの研究者は、「羊は明らかに高レベルの学習能力を備えており、自らを取り巻く環境を認識し、かつ自分の取る行動を計画することができる。群れを作るのは、捕食動物などの危険から効果的に身を守るためだ。」この様に述べています。
脳化指数と言う体重と脳の重さの比に関しての指標がありますが、当然人間が一番です。羊は人よりはるかに低いのですが、牛より高く馬より低くいそうです。この指数は体重が多いと不利な様ですから肥満には気を付けたいと思います。
それはさておき、主は わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。 この様におっしゃっています。羊が賢いのは肝心なことに集中して頭を使っているからでしょう。主を畏れることは知恵の初め。これを行う人はすぐれた思慮を得る。主の賛美は永遠に続く。詩編111篇です。 私たちも主の愛を畏れ敬いつつ感謝することに知恵を用いたいと思います。
羊飼いです。大変古くからある職業ですが、羊の所有者から預かって牧草地へ連れて行ったり、オオカミなどから守ったりして賃金をもらいました。彼らは大変貧しかったのです。いわば365日24時間勤務で仕事柄、町から離れたところにグループで住んでいましたから、エルサレム神殿での祭儀に参加することはかないません。町の人達からは、うさんくさい者たちとしてうとまれていたそうです。神様からも人からも最も遠い存在だったのです。
主イエス・キリストの誕生と言う知らせを真っ先に知らされたのは、そんな羊飼いでした。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」野宿をしながら夜通し羊の群れの番をしていた彼らの許に、突然現れた天使の言葉です。「恐れるな!」との呼びかけは羊飼いたちが恐れたからに違いありません。人は自分の常識を超えたことに対して恐れを持ちます。
突然、聖霊によって身ごもったことを告げられたマリアは恐れました。いいなづけのマリアに身ごもったことを告げられたヨセフは恐れました。予期せぬ出来事、心の準備が出来ていないことに対して恐れを感じます。この世に生まれ、この世を去る。これは全ての人に例外なく起きます。そしてその二つの出来事の中間に予期せぬ様々なことが起こります。喜びも悲しみもあります。これが私たちの人生です。
この時、羊飼いたちが恐れたのは当然です。彼らは絶えず手にしていた杖に羊の数を刻むことは出来ましたが、今私たちが当然のこととしている、聖書を読んだり聞いたりすることは出来ませんでした。
マリアとヨセフは代々信仰を受け継いで来たユダヤの家庭で育ちましたから、幼いころから神様のなさる不思議なことを知っていました。天使の告げる「神にできないことは何一つない。」この言葉が心に響き渡る下地が備えられていました。
なぜ、神様からも人からも最も遠い存在だった羊飼いたちが選ばれて、人類の歴史の中で最も喜ばしい出来事、救い主の誕生が告げられたのでしょうか?その答えは簡単です。人々から蔑(さげす)まれ、疎(うと)まれていた貧しい羊飼いが素直な心を持っていたからです。
これは先週もご紹介しました。3000年前にダビデを次の王に選ばれた時の神様の言葉です。「わたしは人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、私は心によってみる。」(サムエル上16:7)この時、少年ダビデは羊の番をしていたのです。2000年前も神様は同じ様に羊飼いを選ばれました。そして現在も神様は私たちの心をご覧になります。先週次の様に申しました。「美容整形ではだめです。心の整形手術が必要です。そしてその最良の方法は週ごとの礼拝に出席して洗礼へと導かれることです。」
それでは、宗教教育を受けていなかった羊飼いが、人類の歴史上最大の喜ばしいニュースを真っ先に受けるのにふさわしいとされた、素直さとは、どの様なものだったのでしょうか? それは知らせを受けた彼らの行動を見ればわかります。天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。 そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。羊飼いたちは、天使を通して告げられた神様の言葉に従順でした。すぐに出かけて行って飼い葉桶に寝かせてある主イエス・キリストにお会いしました。この羊飼いたちが示した従順さ、これこそ神様が最も私たちに望まれるものなのです。彼らは長い間羊の群れから離れていることは出来ません。天使が話してくれた「この赤ちゃんこそ、すべての民に与えられた救い主、メシアなのだ。」この言葉を伝えると 神をあがめ、賛美しながら帰って行ったのです。
いかがでしょうか? この羊飼いたちは、今まさに私達が神様から求められていることを行ったのではないでしょうか。羊飼いたちは、天使を通して告げられた神様の言葉に従順でした。私たちは今、聖書を通して、さらに聖書の解き明かしである説教を通して、神様の言葉を聞きます。祈りの中においても聞きます。私たちも主のみ言葉に謙遜で従順な者でありたいと思います。彼らは羊を残して、主イエス・キリストにお会いするためにベツレヘムの町へと出かけました。預かりものの羊が傷つけば、貧しい中から弁償しなければなりません。リスクを伴う行動でした。私たちは週ごとの礼拝へと集います。何らかの犠牲やリスクが伴うこともあるでしょう。
羊飼いたちは主イエスの許で神様が告げられたことを分かち合いました。現在、礼拝後にみんなで豊かな時を持つことは困難ですが、「聖書に聞き、祈る会」でのことが思われます。
み言葉を聞いて心に響いたことを分かち合います。与えていただいた恵みを分かち合います。心配事を祈り合います。もちろん無理に話す必要はありません。自分の経験を越えて、隣人への聖霊の働きを聞くことは大きな喜びであり、励まされます。同じように私にも聖霊が働いてくださることを知るからです。
羊飼いたちは神をあがめ、賛美しながら帰って行きました。私たちも礼拝が終われば家路につきます。ユダヤの人たちが、何世代にもわたって待ち続けた「救い主」にお会いした羊飼いたちは 神をあがめ、賛美しながら帰って行きました。聖書はその後の彼らについて全く語っていませんが、神をあがめ、賛美しながら帰って行った彼らです。生涯主を礼拝し賛美の歌を絶やさなかったことでしょう。
それでは、彼らは神様のなさった偉大なこと、神の独り子が真の人となって地上に来てくださったことを多くの人に語り伝えたのでしょうか? 福音の伝道をしたのでしょうか? 聖書は直接語ることをしません。しかし、ヒントがあります。それはこのルカによる福音書に羊飼いたちが経験した出来事が詳しく記されている事実です。このルカ福音書は西暦90年代に各地の教会に伝わっていた話をルカが調べ上げて記録したものです。ですから、無学で人からうとまれていた羊飼いたちは、神様のなさったことをきちんと語り伝え、そして教会はその証言をきちんと受け止めていたのです。
私たちです。わたしたちはこの羊飼いが当時全く知らなかったこと。十字架の出来事であり、主の復活であり、聖霊が来てくださった教会の誕生であり、教会が成長していく様子を全て聖書の証言によって知っています。
さらに私たちは様々な生活の場面で神様の愛、神様のみ心を知ります。羊飼いよりも、もっともっと神様の愛、大いなる御業を知り、感じる、理解できる私たちではないでしょうか。主が示してくださった大いなる愛、福音の証人となって宣べ伝えるのです。これが伝道です。山形六日町教会と集う一人一人が担う喜びの務めです。「伝道なんてそんな大それたことを、それは長老さんや牧師に任せます。」 確かに神学的な整理はそれで良いでしょう。しかし、皆さんにしかできないことがあります。皆さんはスーパーの広告を見比べてどこに買いに行くのか、何を買うのか決めること、ないでしょうか?私は結構好きです。
では体の調子が悪いときはどうでしょうか? 一部の美容整形専門の医院を除いてテレビコマーシャルや折り込み広告は見かけません。名医を見つけるコツは、治してもらった患者さんの証言でしょう。何しろ良くなった本人の経験談です。説得力があります。しかしこの譬えは、ご利益宗教と間違えられる可能性がありますからチョット危険かも知れません。
いつもお話ししている漁師だったアンデレです。彼はペトロを主の許へと連れて行きました。(ヨハネ2:42)ペトロは主の一番弟子と呼ばれたように、後の教会が発展して際に大きな働きをしました。私たちはペトロになることは出来ないかも知れません。私は出来ません。しかし、アンデレにはなれるのです。主の許へと連れて行く大変大切な役目です。
「波多野先生、神様が私たちを愛してくださっていることを感じます。でもそれをなかなか人に言えないんです。伝道・伝道と言われると苦しいんです。」 確かにその気持ちわかります。私もサラリーマン時代できませんでした。以前、「隠れキリシタンだった。」と言ったら叱られました。「彼らに失礼でしょう。命がけの信仰の戦いの中にあったんだから。」そんな私を神様は我慢しながら用いてくださっています。皆さんの祈りを聞き入れてくださっているのです。
皆さんにまずお願いしたいのは、信仰を伝えたい方の為に祈りを絶やさないことです。きっと主に従う喜びを素直に話せるチャンスが与えられます。祈りには壁を破る力があるのです。2章19節です。マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。 彼女の生涯がどれほどのものだったのかを私たちは知っています。愛するわが子を身ごもった時から、その子の死に至るまでです。このクリスマスの出来事を心に納めた彼女は、さまざまな出来事の際に思い起したことでしょう。思い起し祈り続けたことでしょう。そして、その祈りは主イエス・キリストの復活の出来事として聞き届けられたのです。マリアの深い悲しみは、突然最高の喜びへと変わりました。神様のなさることは私たちの常識をはるかに超えます。「神にできないことは何一つない。」のです。

クリスマス・プレゼントの話をしましょう。主イエスが「真の人」として来てくださったクリスマスの出来事。神様からの民全体に与えられた最高のプレゼントです。私たち山形六日町教会は、受洗者が与えられることを祈り続けてきました。私たちがいただいている大いなる恵みを分かち合いたいからです。私たちが頂いた主の福音を隣人と分かち合うことは、愛する隣人への最高のプレゼントです。そして今日、私たちの祈りが聞き届けられて愛する姉妹が洗礼を受けられる。これは神様から私たち全員に送られた大きなクリスマス・プレゼントなのです。みんなで「いと高きところには栄光、神にあれ、 地には平和、御心に適う人にあれ。」この様に賛美したいと思います。そして、神様から最も遠いと考えられていた羊飼いたちが示した「主が知らせてくださったこと」への従順さを私たちも持ち続けて行きたいと思います。祈りましょう。