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山形六日町教会

2021年12月12日

聖書:サムエル記上2章1~11節 ルカによる福音書1章46~56節
「マリアの賛歌」波多野保夫牧師

待降節第3週を迎えました。クランツに灯るローソクが3本になり、光と暖かさが増しました。特に今朝はCSアドベント礼拝で、大勢の子供たちがページェントを演じ、沢山の賛美の歌を歌ってくれました。まだ、千歳認定こども園の園児たちに広く呼び掛けて礼拝することは叶いませんが、場所と時間は違っていても、主イエス・キリスト、神の独り子が私たちの所に来てくれたことを喜びと感謝の思いで祝うことは変わりません。子供たちがコロナの黒雲の先にある、新しい世界を主と共に歩んで欲しいと思います。
「だけど、教会のクリスマス礼拝は今年は来週12月19日なので1週早いんじゃない? クリスマスは12月25日なんだから、クリスマス礼拝もその日に守った方がいいんじゃない?」 そんな疑問を感じられた方もおいででしょう。 実はイエス様の誕生日は聖書に書かれていません。クリスマスを12月25日に祝う様になったのは、キリスト教が長い迫害の時代、黒雲が立ち込める時代が終わって、ローマ帝国の国教になった西暦300年代でした。ローマはもともと多神教だったのですが、その中に太陽神を祭る宗教があり、冬至の日を、力を失ってきた太陽が再び勢いを増す日として祝わったそうです。 国の宗教となったとはいえ、多くの民衆がまだ神々への信仰を持っていた時代です。教会は、世を照らす真の光として、来てくださった主イエスの誕生日をこの祝祭日に重ねました。4世紀の終わりまでには広く定着したそうです。
皆さんの中にも、クリスマス礼拝で洗礼を受けられた方がいらっしゃることでしょう。 主はおっしゃいました。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」(ヨハネ3:5)新しい命を与えていただいた洗礼が主のお生まれになった日と重なり、年ごとに豊かな恵みを思い、感謝をもってこの日を迎えられるのは素晴らしいことです。一方、欧米では洗礼式はイースターに行われることが多いそうです。新しく与えられた主にある命を、復活の日と重ねて感謝するのです。どちらも記念日として良い日です。
しかし、プロテスタント教会は、週の初めの日ごとに持たれる礼拝に重み付けしません。年間52回もしくは53回持たれる主の日の礼拝は、等しくみ言葉に聴き、祈り、賛美し献げる大切な礼拝です。礼拝において「罪人」であることが明らかにされ、その私に代わって罪を負い、十字架の死を遂げてくださった方の大いなる愛が思われます。さらに主に従う者を「罪のない者」と見なしてくださり、永遠の命を与える約束をしてくださいます。これが私たちの主の日の礼拝です。
喜びに包まれた私たちは、礼拝が終わって家路につきます。その私たちへの主のご命令です。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ福音書28:19,20)もちろん洗礼を授けるのは牧師に委ねられた務めですが、福音を世の人々に伝える、教会へと導くのは全員の務めです。ですから礼拝が終わって家路につくことは、それぞれが伝道の地へと派遣されることなのです。でも心配しないで下さい。あなたの業を聖霊が助けてくださいます。祈ることで始めましょう。洗礼の話でした。クリスマスやイースターに洗礼を授けて頂く。素晴らしいことです。しかし、他の日曜日に洗礼を授けて頂く素晴らしさも全くかわりません。洗礼は聖霊がなさる業です。教会は聖霊の働きを祈り求め、長老会は聖霊の業の為に働き、牧師は聖霊に用いていただくのです。余談ですが私は1966年10月2日に洗礼を授けて頂きました。クリスマスでもイースターでもありませんが大切な私の記念日です。
「すべての主日礼拝の時が等しく神様の恵みによって与えられているのは分かりました。それじゃあ、なぜ聖餐式は月の第一主日とクリスマスやイースターだけなんですか?」 鋭い質問ですね。宗教改革者カルヴァンは毎週の礼拝で聖餐式を行いたかったのですが、叶わなかったと言われています。毎週行っている教会もありますし、年に数回と言う教会もあります。しかし、人間はあまりにも頻繁だと習慣化してその恵みや大切さに鈍感になりますし、あまりに少ないと忘れてしまいます。長老会は現在の持ち方が六日町教会に適切だと判断しています。コロナ禍が終息したとは言えない現在です。注意事項を守って礼拝と聖礼典を休むことなく続けられる様にしましょう。さて、だいぶ時間を費やしました。

本日与えられた「マリアの賛歌です」2週間前のアドベント第一週の礼拝で、聖書が告げるマリアへの受胎告知を聞きました。突然マリアに顕われた天使ガブリエルは「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」この様に初めてマリアに告げました。「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」 15歳ほどの「マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。」 天使の言葉は、マリアの中で驚きから戸惑い・恐れへと変わりました。どれほどの時間が経ったことでしょう、少しずつ天使の言葉を理解し落ち着きを取り戻していったマリアです。ユダヤの家庭の中で受け継がれて来た、天地を創造された唯一の神への信仰は、ガブリエルの言葉「神にできないことは何一つない。」この言葉をマリアが受け止めるのに十分でした。どんなに不思議なことでも神様にお出来にならないことはないのだ。マリアは答えました。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」プロテスタント教会は三位一体の神だけを信仰の対象としますから、マリアを信仰の対象にはしません。しかし彼女にこれほどの信仰を与えてくださった聖霊が、私たちにも働いてくださっていることは自覚すべきです。
現代の日本において幼いころから信仰の養いを受けて育つ方は少ないでしょう。千歳認定こども園の働きは大切です。さらに最高の信仰の養いの場所と時間が与えられています。それが教会において守る主日ごとの礼拝です。そして洗礼へと導かれる。素晴らしいことです。しかし、洗礼は信仰の免許皆伝ではありません。神様と会衆の前で私が罪びとであることを認め、それにもかかわらず私の罪を負って十字架にかかってくださった主に従う喜びの人生を歩む、その誓いです。いわば出発点をハッキリさせること、これが洗礼です。ですから主日礼拝を守る、それが叶わないときにはその時を覚えて祈ることが大切です。聖霊が私たちの信仰を成長させてくださるのです。
天使は「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」この言葉を残して去って行きました。そこでマリアは急いで山里に向かい、ユダの町に行ってザカリアの家に入りエリザベトに挨拶しました。(ルカ1:39,40)エリザベトはマリアに言いました。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」(ルカ:45)この様に主のなさることをほめ讃え合う私たちでありたいと思います。
マリアの賛歌です。1:46 そこで、マリアは言った。「わたしの魂は主をあがめ、47 わたしの霊は救い主である神を喜び讃えます。48 身分の低い、この主のはしためにも 目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も わたしを幸いな者と言うでしょう、49 力ある方が、 わたしに偉大なことをなさいましたから。50 その憐れみは代々に限りなく、 主を畏れる者に及びます。天使ガブリエルの言葉に当惑したマリアでした。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」 「神にできないことは何一つない。」この言葉に信仰を呼び覚まされたマリアでした。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」私たちもこのマリアの言葉を口にしたいと思います。
そんな彼女がザカリアの家を訪ねて目の当りにしたもの、それは神様の愛を受けて大きな喜びに包まれているエリザベトの姿でした。そしてマリアは神様のなさることを高らかにほめ讃えるのです。48 身分の低い、この主のはしためにも 目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も わたしを幸いな者と言うでしょう、49 力ある方が、 わたしに偉大なことをなさいましたから。
コヘレトの言葉にひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い。(4:9)とありますが、主をほめ讃えるのもひとりよりもふたりが良い。のです。さらに、自分に与えてくださった大いなる愛の業を証言する。「証し」と呼びますが、実際に神様の愛を体験したあなたの「証し」には力があります。様々な機会をとらえて経験した神様の愛、困難な時にあって勇気づけられたこと、祈りが聞かれたことを語り伝えてください。「聖書に聞き、祈る会」で多くの方が「証し」してくださいます。喜びと勇気が与えられます。賛美の声は、一人よりも二人が良い。二人よりも三人が良いのです。主の福音をほめ讃える賛美と祈りの輪を広げていきましょう。

神様が自分の身になしてくださる大いなることをほめ讃えるマリアです。1章49節50節です。力ある方が、 わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、 主を畏れる者に及びます。続いて51節から53節。51 主はその腕で力を振るい、 思い上がる者を打ち散らし、52 権力ある者をその座から引き降ろし、 身分の低い者を高く上げ、53 飢えた人を良い物で満たし、 富める者を空腹のまま追い返されます。
神様について3つのことが言われています。
1.神様は思いあがる者を打ち砕かれます。私たちは神様の前で謙遜でなければなりません。主はおっしゃいました。 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。(マタイ11:28-30)主イエスご自身が謙遜な方なのです。さらにおっしゃいます。 心の貧しい人々は、幸いである、 天の国はその人たちのものである。 詩人は歌います。主は打ち砕かれた心に近くいまし 悔いる霊を救ってくださる。(詩編34:19) さらに、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られません。(51:19)私たちにとって謙遜であることは大変難しいことです。神様は多くの兄弟たちの中からダビデを選び出す際にサムエルにおっしゃいました。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(サムエル上16:7)美容整形ではだめです。心の整形手術が必要です。良い方法があります。主イエス・キリストを見るのです。どうしようか迷った時、イエス様ならどうなさるか? こう考えてみるのです。「ワカッチャいるけど」と思うのであれば、心を主に向け教会に集ってください。これが最良の方法です。
2. 権力ある者をその座から引き降ろし、 身分の低い者を高く上げられます。歴史の示すところに依れば、この世の権力者が神様のみ心から遠く離れた時には悲惨な状況に至ります。しかし、パウロは言います。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。(ロマ書12:19) 民主主義の世界にある私たちは真の主権者イエス・キリストのみ心を知りつつ、この世に対して行動していく必要があります。
3. 飢えた人を良い物で満たし、 富める者を空腹のまま追い返されます。残念なことにこの地球上には肉体の飢えや渇きを覚える人たちが多くいます。神様の愛を届ける使命が私たちに与えられています。同じように魂の飢え、魂の渇きを満たすこと。地上にある主の教会にその使命と力が与えられています。山形六日町教会は主の福音を宣べ伝える使命を果たしていきたいと思います。

ルカ福音書16章19節以下に「金持ちとラザロ」と言う譬えがあります。金持ちとその金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた貧しいラザロ。二人とも亡くなり、ラザロは天使たちによってアブラハムのそばの宴席へ招かれたのに対して、金持ちは陰府でさいなまれていました。 続きは後ほど読んでいただきたいと思います。
私は自分が富める者とは思わないのですが、世界的に見れば3度の食事ときれいな水を手にできる金持ちです。飢えた人を良い物で満たし、 富める者を空腹のまま追い返されます。思いあがる者を打ち砕かれる神様です。主の前でそして隣人の前で、さらに自分に対して謙虚でありたいと思います。
聖書朗読の際にお約束したサムエル記上2章1節以下の「ハンナの祈り」をお読みします。キリストが生まれる1000年以上前に、長い間子供が与えるようにと願っていたハンナの祈りです。与えられた子供はサムエル。主に仕え、後にダビデを王に選ぶ神様のみ心を行う預言者になりました。3000年前のハンナの祈り、2000年前のマリアの祈り、そして私たちの祈り。すべて同じです。その理由は神様の愛が変わらないからです。お聞きください。2:1 ハンナは祈って言った。「主にあってわたしの心は喜び 主にあってわたしは角を高く上げる。わたしは敵に対して口を大きく開き 御救いを喜び祝う。2 聖なる方は主のみ。あなたと並ぶ者はだれもいない。岩と頼むのはわたしたちの神のみ。3 驕り高ぶるな、高ぶって語るな。思い上がった言葉を口にしてはならない。主は何事も知っておられる神 人の行いが正されずに済むであろうか。4 勇士の弓は折られるが よろめく者は力を帯びる。5 食べ飽きている者はパンのために雇われ 飢えている者は再び飢えることがない。子のない女は七人の子を産み 多くの子をもつ女は衰える。6 主は命を絶ち、また命を与え 陰府に下し、また引き上げてくださる。7 主は貧しくし、また富ませ 低くし、また高めてくださる。8 弱い者を塵の中から立ち上がらせ 貧しい者を芥の中から高く上げ 高貴な者と共に座に着かせ 栄光の座を嗣業としてお与えになる。大地のもろもろの柱は主のもの 主は世界をそれらの上に据えられた。9 主の慈しみに生きる者の足を主は守り 主に逆らう者を闇の沈黙に落とされる。人は力によって勝つのではない。10 主は逆らう者を打ち砕き 天から彼らに雷鳴をとどろかされる。主は地の果てまで裁きを及ぼし 王に力を与え 油注がれた者の角を高く上げられる。」11 エルカナはラマの家に帰った。幼子は祭司エリのもとにとどまって、主に仕えた。3000年前、ハンナの夫エルカナは家に帰りました。2000年ほど前、3か月ほどエリザベトの所に滞在したマリアは自分の家に帰りました。私たちも家へと帰ります。主の御降誕の喜びを伝えるため、それぞれが伝道の地へと派遣されるのです。 祈りましょう。