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山形六日町教会

2021年12月5日

聖書:詩編106編1~4節 ルカによる福音書1章67~80節
「主の道を備える者」波多野保夫牧師

アドベント第2週を迎えました。ローソクが2本灯(とも)され、明るさが2倍になりました。寒さが増して来ましたが、私たちの心に灯(ともる)る灯(ひ)、主イエス・キリストが与えてくださる愛の灯(ともしび)の明るさと暖かさも2倍に感じられます。本日は聖書が伝える主のみ言葉と、主が定めてくださった聖餐によって、クリスマスへの備えをなしていきたいと思います。
本日与えられた聖書箇所、ルカ福音書1章67節以下には「ザカリアの預言」と言う小見出しが付いています。 実はこのルカ福音書は短い挨拶の後、1章5節から2章21節まで、主イエス・キリストの誕生の物語が語られていますが、1章5節以下の小見出しには「洗礼者ヨハネの誕生、予告される」とあり、それに続いて26節以下には「イエスの誕生が予告される」とありました。 
先週、アドベント第1週の礼拝ではマリアへの「受胎告知」の出来事を通して主のみ言葉を聞きました。「神にできないことは何一つない。」と告げる天使の言葉にマリアは答えました。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(ルカ1:37,38)私たちもこの謙虚さを持ってクリスマスを迎えたいと思います。
続けて小見出しを追えば、「マリア、エリザベトを訪ねる」「マリアの賛歌」と続き、1章57節以下には「洗礼者ヨハネの誕生」「ザカリアの預言」とあり、2章に至って「イエスの誕生」すなわちクリスマスの夜の出来事が語られるのです。 2:8 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。9 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。10 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」子供たちが演じてくれるクリスマス・ページェントのハイライトシーンです。
先ほど山口長老に読んでいただいた「ザカリアの預言」の箇所ですが、聞いていると、主イエスのことを言っているのかと聞こえてしまいます。しかし、76節に 幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整えるのだ、と預言していますから、バプテスマのヨハネのことを父親の祭司ザカリアが預言した言葉ですね。なぜこのアドベントの時にバプテスマのヨハネなのかと、不思議に思われるかも知れません。ルカ福音書は主イエスの誕生と、バプテスマのヨハネの誕生の物語を、縦糸と横糸の織り成す一つの織物の様に語るのですが、ヨハネの誕生の物語は、クリスマス・ページェントには登場しませんし、アドベントの説教で語られることも稀でしょう。しかし、ザカリアは主イエス・キリストの道を整える役目を担ってヨハネが生まれるのだと神様のご計画を語りました。ですから主の御降誕に備えるこのアドベントの時に、ヨハネの物語を聞くことは大切なのです。
ルカによる福音書1章5節以下です。1:5 ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった。6 二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。7 しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた。
祭司と言いますと大祭司や30人ほどの祭司長たちが思い浮かびます。彼らは最高法院に議席を持つエリートであり権力者でしたが、自分たちの利権を守るために、普段は中の悪いファリサイ派や律法学者たちと手を組んで、主イエスを十字架に架けてしまったのです。しかし、エルサレム神殿に仕える一般の祭司は7200人おり、24人の祭司長の許に300人ずつの組を作って、一年に2週間ほど神殿での勤めにつくだけで、普段は他に仕事を持って生計を立てていたそうです。ザカリアはその様な年老いた祭司の一人でした。1:8 さて、ザカリアは自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていたとき、9 祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことになった。10 香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた。大祭司だけが年に一度だけ中に入ることが赦された至聖所のすぐ外側にある聖所で香をたく務めは、7000人以上の祭司の中からくじで選ばれた者が行う、一生に一度あるかないかの名誉ある務めでした。その務めの最中に天使が現れて言いました。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。」 この天使の伝える言葉を、にわかには信じられずに疑ったザカリアは口が利けなくなったとあります。これはザカリアが不信仰だとされ、与えられた罰なのでしょうか?
2週間前、11月21日の礼拝でペトロの手紙Ⅰから3:10 「命を愛し、 幸せな日々を過ごしたい人は、 舌を制して、悪を言わず、 唇を閉じて、偽りを語らず、11 悪から遠ざかり、善を行い、 和を願って、これを追い求めよ。12 主の目は正しい者に注がれ、 主の耳は彼らの祈りに傾けられる。主の顔は悪事を働く者に対して向けられる。」(3:10-12) このみ言葉を聞きました。その日の週報に旧約聖書箴言と詩編から「舌」に関係する聖句を記しました。いくつかをお読みしましょう。箴言 12:18 軽率なひと言が剣のように刺すこともある。知恵ある人の舌は癒す。25:23 北風は雨をもたらし 陰口をたたく舌は憤りの表情をもたらす。詩編 37:30 主に従う人は、口に知恵の言葉があり その舌は正義を語かたる。 39:2 わたしは言いました。「わたしの道を守ろう、舌で過ちを犯さぬように。神に逆らう者が目の前にいる。わたしの口にくつわをはめておこう。」
皆さんは、なんで神様は私の願いを聞き届けて下さらないのだろうか。こんな思いに駆られたことはないでしょうか?この時、年老いたザカリアにとってこんな思いはすでにズーット昔のこととなっていたことでしょう。
祈りについていつも申し上げていることをくりかえします。神様は私たちの祈りを聞いてくださっています。そして4つの答えのどれかで答えてくださいます。繰り返しましょう。「やっと祈ったね、前から分かっていた。かなえてあげよう。」「わかった。だけどあなたが願ったよりももっと良いものをあげよう。」「いいえ、あなたの恵みは十分だ。」「今はその時ではない。」
かつてザカリアも、いずれかの答えを聞いたはずです。彼の口は閉ざされてしまいましたが、これは天使の言葉を疑った罰ではなくて、沈黙して神様のなさることに思いを馳せる大切な時間が与えられたのではないでしょうか。私の子供のころです。ちょうど誕生日が近づいたころに「何が欲しい」と言うおじさんに、ミズーリー号と言う船のプラモデルと言ったところ、すぐに送ってくれたのですが、大切にした記憶は残っていません。ザカリアは赤ちゃんが誕生して8日目に、天使に命じられたことを守ってヨハネと名付けました。すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。(ルカ1:64)ザカリアに与えられた10ヶ月に及ぶ沈黙の時、これは神様の大いなる愛のご計画を理解するために必要な恵みの時だったのです。箴言15章2節にはこの様にありました。 知恵ある人の舌は知識を明らかに示し 愚か者の口は無知を注ぎ出す。 知恵とは私たちを愛してやまない神様のみ心を知る知恵です。私たちは舌を神様の御業を褒め称えるために用いたいと思います。
さて、「ザカリアの預言」に戻りましょう。先ほど私はこの箇所をぼんやり聞いていると主イエスのことを言っている様に聞こえてしまうと申しました。言い訳をすれば、ルカは二つの誕生物語を、縦糸と横糸の織り成す一つの織物の様に語り伝えますが、それを反映してか、ザカリアも主イエスとヨハネの二人について語っています。1章68節から75節では、預言者たちの口を通して約束されたとおりに、ダビデ王の子孫から救い主を起こしてくださる神様を賛め称えます。アブラハムに与えられた誓いは、一方的な恵みによって土地を与え(創世記15:18-21)、子孫を「天の星、海辺の砂」の様に増し加えてくださる(創世記22:17)との大いなる愛の誓いでした。しかし、その誓いの通りに神様が与えてくださった「救い主」は、ユダヤの人たちが思い描いた「救い主」、民族の救い主に留まらなかったのです。
もっともっと大きな救い主だったのです。神様の大いなる愛は、主イエス・キリストを通してユダヤ人にだけではなく、世界の全ての人に与えられたのです。 それだけではありません、その大いなる愛は、聖霊によって立てられた教会を通して、2021年の現代にまで及んでいます。神様が独り子を十字架に架けてまで私たちの罪を赦してくださる愛は、時間と空間を全て覆う愛なのです。あまりにも大きく深い愛なので、人間の目には入り切らないことも起こります。その原因は私たちが神様の愛を、人間同士の愛から推(お)し量ろうとするからではないでしょうか。
73節後半からです。 こうして我らは、敵の手から救われ、 恐れなく主に仕える、生涯、主の御前に清く正しく。敵の手から救われるとありますが、私たちの最大の敵は、主イエスの愛から離れさせよう離れさせようと全力で働きかけてくる「悪魔」です。次に、恐れなく主に仕えるとあります。いかがでしょうか?「生涯、主に仕える」なんていわれると、今の仕事を辞めて修道院に入るとか、社会福祉施設で働くとか、あるいは牧師になるとか。もちろんそれらが大切な務めなことはわかるけど、「自分のやりたいことと違うし、第一そんな事、不安で出来っこない。」この様に思われるかも知れません。わたしも牧師になる、もっと正確に言えば牧師として用いていただくことになるとは、全く思っていませんでした。しかし、みなさんが祈りで支えてくださり、神様がその祈りを聞き届けて、我慢を重ねて用いてくださっている現実があります。主に仕える喜びがあります。
宗教改革以前には、働くことはエデンの園を追放され土を耕さなければならなくなったアダムが行う卑しい行為だと考えられていました(創世記3:23)。しかし、宗教改革者たち、特にカルヴァンは一生懸命自分の仕事に打ち込み社会に役立つことは神様の栄光を現す行い、すなわち「主に仕える」のだとしたのです。ですから、例え寝たきりであっても隣人の為に祈ることは「主に仕える仕事」なのです。神様の栄光を現すからです。
洗礼準備で学ばれた方もいらっしゃるでしょう。ハイデルベルク信仰問答第一問は「生きている時も、死ぬときも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。」と問います。そして「わたしがわたし自身のものではなく、身も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。実に万事がわたしの益となるように働くのです。」この様に答えます。
73節以下を次の様に読み替えることは適切でしょう。「こうして我らは、「罪」へと誘う悪魔の手から救われました。喜んで主に仕え、生涯主イエス・キリストの御前にあって清く正しくしい人生を送るのです。」パウロは言います。霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。(ガラテヤの信徒への手紙5:22,23)
清く正しい人生は主に従って「神と自分と隣人を愛し」神様の愛の中にあって普通に過ごすことが前提です。その上でさらに与えられた賜物を生かし努力を重ねて、隣人のために尽くすのであれば、きっと神様は喜んでくださいます。
76節77節は誕生したばかりのヨハネの役割です。1:76 幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、77 主の民に罪の赦しによる救いを 知らせるからである。「主に先立って行き、その道を整え」る務めが与えられました。78節79節は再び神様の憐みの心によって主が来てくださることを告げます。1:78 これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、 高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、79 暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、 我らの歩みを平和の道に導く。ザカリアは、救い主の到来と、ヨハネに与えられた務めを語っています。
私たちは、主イエス・キリストの誕生から2000年を経た時代にいます。しかし、私たちにとって主イエスとの出会いは常に現在形です。皆さんそれぞれに教会に足を運ぶようになった切っ掛けがおありでしょう。それだけでなく、私たちは日々主イエスにお会いするのです。「健やかなる時も、病める時も、富める時も、貧しい時も、罪に敗(やぶ)れた時も。」繰り返し主の愛を思い起して心の中にお迎えするのです。そしてこの繰り返しこそが教会でクリスマスを毎年、毎年お祝いする意義ではないでしょうか。
主イエスとヨハネの誕生から30年の時がたちました。洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。(マルコ1:4)そのヨハネから洗礼を受け、荒れ野で悪魔の誘惑に勝利された主イエスの言葉です。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」 主の福音が宣べ伝えられ神の国が地上に広まっていく原点がここにあります。主の道を整える務めを与えられたヨハネの生涯をたどって見ましょう。やがて領主ヘロデによって牢に閉じ込められてしまったのですが、そんな彼はローマ帝国や領主の横暴が一向に収まることがなかったからでしょう。主イエスが本当の救い主なのかと疑問をいだくようになり、弟子を送って問いました。『来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか』 主の答えです。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。 わたしにつまずかない人は幸いである。」(ルカ7:20-23)
神様は全ての人に恵みが届くことを願っておられ、主の福音を知る私たちに、ヨハネと同じようにその道備えをすることを望んでいらっしゃいます。ですから一人一人が神の国の前進のために祈り行動するのが山形六日町教会の使命です。しかし、その成果はなかなか上がりません。それだけではなく私たち一人一人にはそれぞれが担う重荷があります。厳しい現実の世界にあって、祈っても祈っても重荷が取り去られないことが確かにあるでしょう。残念なことですが、ヨハネの様に主イエスにつまずくこと、疑いの心が湧いてくることもあるでしょう。しかし主は、その躓いたヨハネにおっしゃるのです。 言っておくが、およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。(ルカ7:28)
多くの人に先立って、主の大いなる恵みによって教会へと招かれた私たちです。まだ主の福音を知らない方々の為に、あのバプテスマのヨハネと同じように道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを 知らせる 務めが与えられています。だとしたら、私たちはクリスマスに向かって、神の国の前進の為に用いていただきたいと思います。多くの方を招きたいと思います。その時、主はおっしゃってくださるでしょう。「およそ女から生まれた者のうち、神の国の前進の為に祈り行動する者より偉大なものはいない。」そして聖霊は喜んで私たちを力づけてくださるに違い無いのです。祈りましょう。