HOME » 山形六日町教会 » 説教集 » 2021年11月28日

山形六日町教会

2021年11月28日

聖書:イザヤ書7章13~15節 ルカによる福音書1章26~38節
「主が共におられる」波多野保夫牧師

本日からアドベント、主イエス・キリストのご降誕を感謝し喜ぶクリスマスの礼拝に向けて、心の準備の他にも様々な備えをなしていく3週間が始まりました。このクランツの灯が一週ごとに増えていき、明るさを増して行きます。今年は玄関にクリスマスツリーも飾られました。 長い間、コロナ禍にあって重苦しさの中で必死に礼拝を守ってきましたが、注意を怠ることなく喜びに満ちたクリスマスを迎えたいと思います。
この一月ほどですが、10月31日は1517年のこの日にマルチン・ルターによって始められた宗教改革の記念日でした。宗教改革者たちは、贖宥状、いわゆる免罪符の販売など堕落の極みにあったローマ・カトリック教会と戦いました。一方カトリック教会は対抗宗教改革と呼ばれる内部改革を行うとともに、世界宣教へと目を広げたのです。その結果、フランシスコ・ザビエルが日本に福音を伝えました。先週の説教で主のみ言葉を聞きました。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。(マタイ11:29)お互いが神様の前で謙虚になることが必要です。宗教改革者たちは「聖書のみ」、「信仰のみ」、「万人祭司」を旗印としました。「聖書だけが神の言葉としての権威を持つ」としたのです。聖書に基づかない様々な伝承は権威として認めなかったのです。
「信仰のみ」は「信仰義認」とも呼ばれ、主イエスへの信仰だけによって人は正しい者と認めていただき、救われる。もちろん善い行いは大切ですが、それは救いの条件ではなく、救われた者の喜びから自然に出てきてしまうものなのです。
「万人祭司」では全てのクリスチャンが聖書を読み解く権威を持つとしたのです。主が「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」(マタイ16:16-19)とおっしゃった言葉を、ペトロと同じ信仰を持つ者、すなわち私たちは聖霊の助けによって聖書を正しく読み解くことが出来るとしたのです。これが「万人祭司」の要点です。
しかし、時が経つと「万人祭司」の旗印を悪用して、勝手な聖書解釈から勝手な行動に走るものが出てきたことで、あまり強調されなくなりました。私たち改革長老教会の神学的な基盤と長老制度を始めとする教会制度は、第2世代の宗教改革者ジャン・カルバンに依ります。改革長老教会の伝統では「聖書のみ」「信仰のみ」に加えて「恵みのみ」、私たちは努力に依ってではなく、神様の一方的な恵みによって愛の中に置かれていること。「キリストのみ」救いの根拠は私の内側、心の中にあるのではなく、恵みによってイエス・キリストから一方的に与えられる。そして「ただ神にのみ栄光を」恵みをいただいた私たちは自分にではなく、この世の権威者・権力者にでもなく、ただ神様にだけ栄光をお捧げします。
この5つの「のみ」を強調したのです。余談になりますが、私は聖書をお送りする時、この言葉「ただ神にのみ栄光を」を書きます。これは私が洗礼を授けていただいた際に教会から送られた聖書に記してある言葉です。私はこれからもたくさんの聖書をお送りし、「ただ神にのみ栄光を」と書きたいと思っています。
11月10日は134年目の教会創立記念日でした。改革長老教会の伝統に立ち、一致教会山形講義所として歩み始めた山形六日町教会は、その後日本基督教会から日本基督教団へと歴史の中で所属する全体教会の名称は変わりましたが、諸先輩方と地域の教会の祈りに神様が答えてくださった事に依って、幾多の困難を乗り越えての今日があります。感謝するとともに、ぜひ次の世代に受け渡していきたいと思います。パウロの言葉「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。」(Ⅰコリント15:3)主の福音を語り続ける山形六日町教会であり続けたいと思います。

さて、本日与えられた聖書は、天使ガブリエルがおとめマリアに「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」この様に告げた場面です。多くの画家がこの「受胎告知」の場面を描いて来ましたし、ページェントでの一つのハイライト場面です。私たちがこの場面で一番心を打たれるのは38節のマリアの言葉でしょう。マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」 私たちプロテスタント教会はマリア自身を信仰の対象としません。信仰の対象は三位一体の神様だけです。しかし、マリアの信仰、聖霊の助けを受けて至った彼女の神様への信頼は見習っていくべきです。同じ聖霊が私たちにも同じように働いてくださるからです。
天使ガブリエルが突然やって来て彼女に告げました。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」 しかし、マリアの心に届いたのは あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。 この言葉だけだったでしょう。これ以外は何の意味もなくマリアを通り過ぎて行ったに違いありません。沈黙の時間がありました。そして次第にこの言葉の意味が分かってきた彼女は声を絞り出すようにして言ったのです。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」 冷静さを取り戻して導かれた彼女の大いなる疑問。それに対して、天使の答えは3つでした。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。」「年取った親戚のエリザベトも男の子を身ごもっている。」そして「神にできないことは何一つない。」この3つだけです。落ち着きを取り戻したマリアは答えました。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」
年老いた親戚のエリザベトが子を宿して6か月目のことでした。不思議な出来事のうわさはマリアにも届いていたのでしょう。しかし、そのうわさがマリアの疑問と不安を取り去るのにどれだけ役に立ったのでしょうか? ルカ福音書の告げるクリスマス物語の小見出しを追えば、この受胎告知に続いて、「マリア、エリザベトを訪ねる」「洗礼者ヨハネの誕生」そして2章の冒頭で「イエスの誕生」とあり、さらに羊飼いたちの礼拝へと続きますが、マリアの婚約者ヨセフには触れません。週報に記しましたが、マタイ福音書では2章18節以下の小見出しに「イエス・キリストの誕生」とあり、天使が夢の中でヨセフに現れて告げました。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。」 二つの福音書が響き合って一つの真理を証ししています。
マタイによる福音書1章18節19節。 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。 ヨセフはマリアから、身ごもったことを知らされました。ここで夫ヨセフと呼ばれていることから分かる様に、ユダヤの婚約は社会的には結婚に相当する重さを持っていました。
しかし、結婚前に子を宿すことは赦されません。律法に従って訴え出れば、彼の名誉は守られますがマリアは石打刑になります。マリアが身ごもっていることが人々に知られ、ヨセフが訴え出ないのであれば、彼の名誉も損なわれるのです。それをせずに縁を切ろうとした彼の決心は、マリアを守る唯一の手段でした。聖霊によって身ごもったことを告げられたヨセフは、マリアに疑いの目を向けることはなかったのですが、大いなる不安の中に落とされたことは確かです。私たちです。様々な心配事であり不安があるのではないでしょうか? どうなっているのか判らない、先が見えない、明らかな不都合が待っている。仕事や家庭や友人関係、あるいは試験の日が迫って来る。お金のこともあるでしょう。疲れやすくなったり、今まで当たり前だったことがそうではなくなってくる。健康であり病気もそうです。日常生活だけではありません。世界平和やエネルギー問題、温暖化の問題。子供たちの将来。そして日本の教会の会員数減少と高齢化。現代において、ほとんど全てのことが不安の原因となり得ます。気にし始めたらキリがありません。そんな中にあっても私たちに留まらず、世界中の人が不安を覚えた、それが今回のコロナウィルスではないでしょうか? 再流行が言われています。用心をしながら礼拝を守り続けていきたいと思います。
マリアは大いなる不安の中に戸惑いつつも「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」この様に天使ガブリエルに答えたのです。ヨセフはひそかに縁を切るのをやめて、マリアと生まれてくる赤ちゃんを守ったのです。なんで、マリアとヨセフは不安を乗越えることが出来たのでしょうか?マリアの場合からを見ていきましょう。 1章28節 天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」29 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。 マリアは天使ガブリエルが何を言っているのか分かりませんでした。かつて広く用いられていた口語訳聖書では、「恵まれた女よ、おめでとう」この様にありましたので、私はご婦人に教会の仕事をお願いする際、「恵まれた女よ、おめでとう」と言っています。皆さん、私のたくらみを察したうえで快く引き受けてくださいます。
一方、マリアには全く思い当たることがありません。しかし、唯一の神への信仰を受け継ぐ敬虔なユダヤ教徒の家庭で育ったマリアです。旧約聖書に次の言葉があります。 モーセから出エジプトのリーダー役を引き継いでイスラエルの人々を導く若きヨシュアに神様はおっしゃいました。ヨシュア記1章9節 わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。 そんなヨシュアですが、神様に背く人々を前にして途方に暮れてしまいました。申命記6章12節 主の御使いは彼に現れて言った。「勇者よ、主はあなたと共におられます。」 時代が下ってダビデ王です。神殿をささげることを願ったダビデですが、その難工事を息子ソロモンに託さざるを得ませんでした。歴代誌上28章20節 こうしてダビデはその子ソロモンに言った。「勇気をもって雄々しく実行せよ。恐れてはならない。おじけてはならない。わたしの神、神なる主はあなたと共にいて、決してあなたを離れず、捨て置かず、主の神殿に奉仕する職務をことごとく果たさせてくださるからである。
マリアは天使ガブリエルが伝える言葉「主があなたと共におられる」。この言葉を聞いた時に、小さいころから教えられ慣れ親しんだ旧約聖書が伝える出来ごとが意識の底に広がったのでしょう。それは自分たちの祖先ヨシュアがそしてダビデ王やソロモン王が自分には負いきれない重荷を負った時に神様の愛を思い起すに最もふさわしい言葉だったのです。「主が私と共にいてくださる。」マリアは自分に注がれている神様の愛に気づくことが出来たのです。私は神様に愛されているのだと気づいたのです。それは「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」 恐れと不安を感じつつ思わず口にしたこの疑問を乗越えるのに十分だったのです。
ヨセフです。彼は夢に現れた天使が、神様のみ心を告げてくださったのだと信じ従いました。私なら「眠りが浅くて変な夢を見ちゃった。」で終わってしまいます。ではなぜ彼は夢の中で神様が語られたのだと判ったのでしょうか?彼はダビデ王の血筋の者ですから、当然唯一の神の愛を信じるユダヤ教の家庭で育ったので、神様がヤコブやヨセフやサムエルやダニエルに夢の中で語りかけられたことを知っていたのです。ですから、ヨセフは「わたしにも同じように神様が語ってくださったんだ。」この様に素直に受け止めることが出来たのです。1:24 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、25 男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。
私たちの人生には様々なことが起きます。うれしいこと楽しいこともたくさんあることでしょう。この一週間の喜ばしい出来事を思い起してください。特に苦しいこと、困ったことが解決した。そこまではいかなくても希望が持てるようになった。主に感謝してください。未だに重荷を負っているのであれば、このクランツのろうそくの光を見つめていただきたいと思います。主イエス・キリストの愛・恵みの光はどんな時であってもあなたを照らしています。 詩編23篇。週報に記しました。 23:1 【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。2 主はわたしを青草の原に休ませ 憩いの水のほとりに伴い3 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる。4 死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖 それがわたしを力づける。5 わたしを苦しめる者を前にしても あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ わたしの杯を溢れさせてくださる。6 命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまるであろう。 ヨセフもマリアこのダビデ王の思いに至ることが出来ました。その一つの大切な下地は、普段の日々に於いて聖書が伝えるみ言葉に接し、祈りを欠かすことが無かったからです。これは私たちと同じです。
詩編23篇4節、ダビデの告白です。 あなたがわたしと共にいてくださる。マタイ福音書2章23節、ヨセフは聞きました。神は我々と共におられる。ルカ福音書1章28節、マリアは聞きました。 主があなたと共におられる。2021年に生きる私たちは、3000年前のダビデと、そして2000年前のマリアやヨセフと同じです。たとえ困難の中にあっても、主が共にいてくださるのです。しかし、私たちには、彼らと全く違うことがあります。私たちは大いに違います。
それは、私たちが主イエス・キリストの十字架と復活の出来事を知っていることです。ダビデ王はもちろんマリアもヨセフも全く知らなかった神様の大いなる愛の出来事です。主に従って歩む時に、私たちは罪のない者と見なしていただき、神様の大いなる愛の中を歩む人生が約束されています。そして、この為にこそ主はクリスマスの夜、この地上へと来てくださったのです。天使が去って行った後も彼らの不安は残ったことでしょう。いや時間と共に増して行ったことでしょう。マリアのお腹は大きくなり、周りの人が知る様になって行ったのです。しかし、天使ガブリエルが告げた言葉は真実です。ルカ福音書1章37節38節。神にできないことは何一つない。そして、マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」 主の十字架の出来事を知る私たちです。「わたしは主に従う者です。お言葉どおり、主の愛の中を歩む者としてください。」この祈りを持って、クリスマスに向かって、アドベントの時を歩んで行きましょう。祈りましょう。