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山形六日町教会

2021年11月21日

聖書:詩編131編 ペトロの手紙Ⅰ3章8~17節
「謙虚になりなさい」波多野保夫牧師

この説教シリーズ「あなたへの手紙」では、新約聖書に多く収められている手紙が初代教会の人々にだけでなく、2021年のクリスマスを一か月後迎える私たちにも宛てられていることを覚えて読み進めています。前回はペトロの手紙Ⅰ 2章11節以下から「ローマ皇帝や皇帝が派遣した総督など、人間が立てた制度に従いなさい。」と言うみ言葉を聞きました。ローマの信徒への手紙13章でパウロも同じことを言っています。1節2節をお読みします。13:1 人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。2 従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。現代の民主主義教育の中で育った者にとっては違和感を感じる聖書箇所ではないでしょうか。確かに教会の2000年の歴史の中には、理不尽と思えるほどに無秩序を嫌う傾向がみられます。人が理性を失って烏合の衆となった時の危険を知っているからでしょう。
イラク戦争が始まった直後のアメリカの教会の祈りを紹介しました。それは「早く戦争に勝利します様に」と言う祈りではなく「戦っている両方の国のリーダーが、神様のみ心を知って戦いを止め、速やかに平和が訪れます様に。兵士たちが安全に家族の許に返れますように」との祈りでした。丁度1週間後に衆議院選挙を控えた10月24日にこのみ言葉を聞きました。選ばれた日本のリーダーが神様のみ心を直接に間接に知る者であります様に、聖霊の豊かな働きをご一緒に祈りたいと思います。
寒河江長老に読んでいただいたペトロの手紙Ⅰ 3章8節は 「終わりに」と言う言葉で始まっています。これは2章18節以下で2:18 召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい。 と述べ、3章1節以下で 3:1 同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。 と述べてきたことを受けて「終わりに」と語りだすのです。ペトロの語るこの二つの勧めから始めましょう。どちらも私たちの常識にそぐわない様に思えます。
まず「召し使い」とありますがこれは古代における奴隷です。奴隷はほぼ人類の歴史と共に存在し、モーセに導かれてエジプトを脱出したイスラエルの民はファラオの奴隷となっていました。基本的に物として扱われ所有者への服従が求められました。奴隷と言うと18世紀19世紀のアメリカで鎖につながれ鞭うたれたる虐待を受け続けた黒人奴隷の姿が思い浮かびますが、多くの場合は所有物として大切にされていたようです。能力を生かして主人から重要な仕事も任される者もいました。医者や教師、音楽家もいました。古代において、その多くはバビロン捕囚の民の様に戦争に負けた者が奴隷となったのですが、ローマ帝国の時代には、奴隷の子孫がそのまま奴隷となっている場合が多かったそうです。彼らには賃金も支払われましたから自分で奴隷の身分を買い戻し自由人になった者もいたのです。しかし、基本的に自由を奪われた奴隷に向かって、ペトロは主人に従いなさいと言います。これも、権威に従いなさいと彼が言ったことの拡張なのでしょうか、奴隷を解放しなさいとは語りません。歴史上は1865年12月にアメリカ合衆国憲法修正第13条が批准され奴隷が禁じられるまで1800年近くを必要としたのです。
私は急に博愛主義者になって、「何でそんな不正をそのままにされたのだろう。」と神様を非難しだします。しかし、それだけではありません。現代においても奴隷とまでは言わなくても、様々な差別やいじめに苦しむ人がいます。その解決は私たちに委ねられているのでしょう。大きな道筋をつける意味では政治の担うべき課題ですから、上の権威が神様のみ心に従う様に祈り行動したいと思います。
現代における「奴隷」の問題に関してもう一つ目を向けなければならないことがあります。主イエスはおっしゃいました。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。」(ヨハネ8:34)もしも、私たちが「神と、自分と、隣人を愛すること」から離れているのならば、私たちは罪の奴隷となっているのです。私たちは罪に仕え、罪が私たちを支配しているのです。パウロの言葉を聞いてご自分のことを見つめ直してください。ローマの信徒への手紙7章15節以下です。わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。いかがでしょうか。分かっているんだけどついやってしまう。まずこれをしなければと分かっていても、なんか言い訳を見つけて自分を納得させ、後回しにしてしまう。罪の奴隷ですね。
さらにパウロは言います「6:6 わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。16 知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。」 実際歴史上で奴隷だった人が解放されるのに、1800年を要し、しかも現在でも多くの人が隣人を愛することの無い人によって苦しめられている。もちろん悲惨な目にあっている人に寄り添うことは必要です。しかし、それだけでは解決できないこともまた歴史の示すところです。
一番の近道は全員が神様に近づくことではないでしょうか。なぜなら、神様もそれを望んでらっしゃるからです。私たちは祈ることから始めて行きたいと思います。そして、私たちを罪の奴隷から解放してくださる方。それは主イエス・キリストだけだと言うことを覚えて先に進みましょう。
次は3章1節以下です。3:1 同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。2 神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです。3 あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。4 むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。このような装いこそ、神の御前でまことに価値があるのです。「妻たちよ、夫に従いなさい」は現代において理解が難しい言葉ですが7節に飛びます。7 夫たちよ、妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にし、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい。そうすれば、あなたがたの祈りが妨げられることはありません。2000年前の徹底的な男尊女卑社会に有っての言葉です。「妻が自分より弱い」と言っていますが、現代においてはどうなのでしょうか? 一方が信仰に至っていないのなら、神様を愛する姿を見せなさい。自分と隣人を愛する姿を見せなさい。そしてお互いに祈り合うことを目指しなさい。神様の愛のもとにあっての日々ほど幸せなものは無いのです。俗に「恋は盲目」と言いますが、これから家庭を持つ方には、主イエスを仲立ちとした祈り合う家庭を築いていただきたいと思います。
先ほど寒河江長老に読んでいただいた3章8節にたどり着きました。3:8 終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。9 悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。奴隷制は制度としては廃止されていますが、様々な差別やいじめがある現代社会です。思い通りに行かない不満を自分より弱い者にぶつけることもあります。考えられないような児童虐待も報道され重い気持ちにさせられます。千歳認定こども園や教会学校の子供たちの笑顔がすべての子供たちのものであって欲しいと思います。
男女共同参画社会が言われますが、それぞれに生きにくさがある現代でしょう。ペトロは2021年に生きる私たちに向かって言います。皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。9 悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。
全ては祈りから始まりますが、敵のために祈ることは難しいですね。ここでいつも申し上げている祈りの登場です。「あのイヤナ波多野が神様に近づきます様に!」ですし、また上に立つ権威に対しては「神様のみ心に少しでも近づき、良い政治を行う者としてください。」この祈りを祈りましょう。
「祈ってばかりいても何も変わらないじゃないか!」こんなことをいう人がいます。確かに奴隷制度が廃止されるまでには2000年近くもかかりました。しかもまだその余韻が残っていますがここが問題です。祈らなく始めたこと、神様のみ心を尋ねずに始めたことは、どこに行ってしまうのでしょうか。「祈らないで何が変えられる!」こう言いたいと思います。
3:10 「命を愛し、 幸せな日々を過ごしたい人は、 舌を制して、悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語らず、11 悪から遠ざかり、善を行い、 平和を願って、これを追い求めよ。12 主の目は正しい者に注がれ、 主の耳は彼らの祈りに傾けられる。主の顔は悪事を働く者に対して向けられる。」 ペトロは詩編34編を引用しています。旧約聖書の時代から初代教会の時代、そして現代の私たちに至るまで、神様の愛の中を生きる者、クリスチャンへ、「舌を制しなさい」との勧めです。
「舌」に関して、旧約聖書箴言にたくさんの勧めがあり、多くの気づきを与えてくれます。週報に記しましたので後ほど味わってください。14節。 義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。 主イエスは山上の説教でおっしゃいました。 義のために迫害される人々は、幸いである、 天の国はその人たちのものである。(マタイ5:10) キリストにしたがって「神と自分と隣人」を愛して生きる。すなわちクリスチャンとして生きること自体が迫害の対象となった時代です。そう遠くない時代には、クリスチャンになると結婚に差し障ると反対された話も聞きます。現代においてクリスチャンであることが原因で直接的に迫害を受けることは少ないでしょう。大切にしたいことです。
しかし、正しいことを行うことで差別されたりいじめられたりすることは、現代においても結構あるでしょう。いじめられている友達を助けたいと思って先生や上司に知らせたら、自分がいじめられてしまった。こんな時にどうすれば良いのでしょうか? 初代教会が迫害の時代にどうしたのかが参考になります。集まって祈ったのです。現代においては、迫害されている人、苦しみを負っている人が自分一人で重荷を担わないことが大切です。どんな時にあっても、いっしょに重荷を負ってくださる方、主イエス・キリストを知る者たちが課題を共有していっしょに祈る。寄り添ってくれる仲間です。絶対に裏切ることの無い友、主イエス・キリストが中心にいて下さる仲間です。主の愛を知る者たちが祈りを共にする時、この祈りの集団は希望を持つ強い者達の集まりとなるのです。
もちろんこの祈りの集団が自分と共にいて重荷を負って下さるイエス様と二人だけということもあるでしょう。主イエス・キリストが私を愛してくださっている。私と共にいてくださっている。このことを一人で、あるいは仲間とはっきり知った時に希望が湧いてきます。そして、希望を持つときに私たちは強いのです。
使徒パウロの言葉です。5:2 このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。3 そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、4 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。5 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。(ローマの信徒への手紙)練達と翻訳されているギリシャ語は、不純物を取り除くと言った意味を持っています。忍耐することは信仰の成長を促し、信仰の成長は希望を生み出すと言った意味です。
3章15節から17節は希望に生きる私たちに求められるのです。3:15 心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。16 それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。主によって、希望を与えられた私たち。周りの人は「あなたはこんな状況で、なんで喜んでいられるの? 希望を持っていられるの?」 この様に問うでしょう。「なんで?」と聞かなくても不思議に思っているはずです。聞かれても、聞かれなくてもはっきりと証しするのです。「イエス様が私の救い主です。どんな時でも私を愛してくださっている方です。」
17節。 神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。 残念なことですが、世の中には悪を行っても苦しまない人がいます。私たちは善を行ってそれを喜ぶ者でありたいと思います。その際の秘訣。それは「神様と自分と隣人」を愛すると同時に、神様の御前で、隣人対して、そして自分自身に対して謙虚であることでしょう。
本日の説教題を「謙虚になりなさい」としました。私たちが謙虚であるならば神様の愛が心の奥まで届きます。神様の愛を隣人の心の深いところに届けることが出来ます。そして、自分の喜び、愛されている喜びは膨らむのです。主イエスの言葉です。11:28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。(マタイ福音書)主イエスご自身が柔和で謙遜な方なのです。最初に読んでいただいた詩編131編をもう一度お読みします。イスラエルの王ダビデが主なる神への信頼を歌っています。131:1 【都に上る歌。ダビデの詩。】主よ、わたしの心は驕っていません。わたしの目は高くを見ていません。大き過ぎることを わたしの及ばぬ驚くべきことを、追い求めません。2 わたしは魂を沈黙させます。わたしの魂を、幼子のように 母の胸にいる幼子のようにします。3 イスラエルよ、主を待ち望め。今も、そしてとこしえに。来週から待降節を迎える私たちです。祈りましょう。