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山形六日町教会

2021年11月14日

聖書:イザヤ書60章4~5節 マタイによる福音書22章2~14節
「婚宴においでください」波多野保夫牧師

この説教シリーズ「たとえて言えば」では、主イエス・キリストが譬え話を用いて語られた神様の愛を聞いて来ました。その11回目です。前回はぶどう園の主人が送った最愛の息子を「これは跡取りだ、さあ殺して相続財産を奪ってしまおう」と言った農夫たちの話でした。前々回は父親から農園に行って働くように言われた兄弟の話でした。色よい返事をした弟は結局ぶどう園には行きませんでした。一方、兄は「行かない」と言ったものの、後で考え直して出かけたのです。共にこの山形が迎えたブドウの収穫期に相応しい譬えでしたが、注目したいのは主イエスがエルサレムに入城されてから十字架に架られるまでの5日程の間に、これらを語られたと言う事実です。
日曜日には平和をもたらす王として、ろばに乗り民衆の大歓迎を受けてエルサレムに入城されました。翌、月曜日には神殿を商売の場としていた商人を、力づくで追い出してしまいました。「宮清め」と呼ばれますが、主が暴力を振るわれたのには驚かされます。聖なる神様を冒涜することだけは赦せなかった、赦してはいけないことだったのです。そして火曜日以降、神殿の境内で、祭司長や民の長老たちに先ほどの二つのぶどう園に関係する譬えを語られたのです。彼らは宗教指導者であると同時に、最高法院の議員でしたから、政治権力も合わせ持つエリートたちでした。
なぜこの様に十字架の時が間近に迫るなかで、彼らに貴重な時間を割いてまで、譬えを用いて悔い改めを迫ったのでしょうか。2つの理由が考えられます。
一つは、自分が神様の御許に帰った後を託す弟子たちが全く不甲斐ない状態だったことです。彼らは「自分たちのうちで誰がいちばん偉いだろうか」(ルカ22:24)と言いあっていたのです。一方、宗教指導者たちが人々の心の平安だけでなく生活面においても大きな影響力を持っていた社会です。彼らが悔い改め神様に立ち返れば、民衆がどれほどの恵みを受けるのかをご存知でした。政治が民衆の生活と平安に大きな影響力を持つことは、どんな時代にあっても変わることはありません。
二つ目は、自分を十字架に架けようとしている者たちでさえも神様に立ち返ること、幸せな人生を歩むことを望まれていたのです。 ローマ帝国に収める税金に加えて、私腹を肥やすためのお金を取り立てていた徴税人のザアカイは主イエスが近くに来てくださったことで、今までの悪事に気付いたのです。そんなザアカイに対しておっしゃいました。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。 人の子、イエス様のことですね。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(ルカ19:9,10) 十字架の時が迫っているこの期に及んでも わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。これはマタイ福音書5章44節のみ言葉ですが、全くぶれることは無かったのです。
しかし、ぶどう園に関しての二つの譬えを用いて悔い改めを促された 律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。(ルカ20:19)のです。残念ながら彼らは貴重な時間を割いてまで語られた主の言葉を、当てつけとして聞くことしかできなかったのです。
それでは、私たちはどうなのでしょうか? 律法学者たちや祭司長たちが全く知らなかったこと、思いもよらなかったことを聖書の証言によって知っています。十字架による死の3日後の出来事、主イエスの復活の出来事です。 私たちの主イエス・キリストは死に勝利された方なのです。この素晴らしい出来事を思いながら本日のみ言葉を聞いて参りましょう。
「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。」この様に語り始められます。およそ3年前に30歳になられた時、ヨルダン川でバプテスマのヨハネから洗礼を受けられたイエス様は、悪魔から誘惑を受けられたのですが、その誘惑に勝利されました。それ以降神様のみ心を、力ある言葉と力ある業で示され、人々に「罪」を悔い改めて、神様の愛に立ち返る様にと宣教の旅を始められたのです。
その第一声をマタイ福音書4章17節は伝えます。イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。 山上の説教の第一声は 心の貧しい人々は、幸いである、 天の国はその人たちのものである。(マタイ5:3)実はこの「天の国」はマタイ以外の3つの福音書では「神の国」と述べられています。どちらも全く同じ意味で、神様の御支配が行き届いた場所であり時です。もちろん完全な「天の国」の到来は終末の時、イエス様が再び地上に来て裁きを行い、悪を完全にほろぼされる時を待たなければなりません。しかし、主イエスご自身がまさに「天の国」であり、その方が送って下さった聖霊によって立てられた教会、この山形六日町教会もそうです、主の教会は「天の国」の先駆け、モデルケースなのです。それにふさわしく、主に支配していただく山形六日町教会でありたいと思います。
このマタイ福音書では主イエスが「天の国」について、20回以上語られたことを伝えています。すべての人が神様に立ち返って、主の愛の中を幸せな人生を歩んでほしい、永遠の命に与って欲しい。これが2000年前に神の独り子が地上に来てくださった目的であり、現代においては教会が語る主の福音なのです。
十字架を前にした主が語られたたとえ話に戻りましょう。王は王子のために婚宴を開きました。パレスチナの結婚式は村人全員が楽しむ一種のお祭りで深夜まで続くそうです。イエス様の最初の奇跡は、カナと言う村の婚宴で、ぶどう酒が無くなってしまった時に、水を最上級のぶどう酒に変えられたのですが、その量は600リットル程でした。一大宴会だったことが分かります。
今日のたとえ話は王子の婚宴です。数日間に及ぶものだったのでしょう。当時の婚宴では「あらかじめ何月何日に開きます。参加ください。」この様な招待状が配られましたが、始まる時間は書かれていません。準備が整うと「おいで下さい。」この様に告げて回ったのです。3節4節。22:3 王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。4 そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』 
みなさんが王様の催す宮殿での晩さん会に招待されたとします。牛や肥えた家畜を屠っての料理が並んでいます。もちろん鯛やヒラメの刺身、車エビのてんぷら、松茸もあればキャビアもあり、純米吟醸酒や高級ワインも出されます。ただし、これはテレビの芸能人格付けと言う番組に出てきた1本数百万円するロマネコンティ1971年ものはありません。主イエスが地上におられた紀元30年代の話です。いずれにしろ贅を尽くした王様が催す婚宴に招待されたら、私はその日を指折り数えて待っていて、知らせを告げる家来がやってきたら真っ先に駆け付けるに違いありません。王子の結婚を心から祝おうとの気持ちを問うことなく話が進みますが、みなさんも招待されれば私と同じように喜んで出席するのではないでしょうか。王様は一向に姿を現さない招待客の所に別の家来たちを送って婚宴への参加を促します。5節6節 22:5 しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、6 また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。王様の再度の招きを無視しただけではありません。使者を捕まえて殺してしまったと言うのです。戦国時代、和議の使者を殺してしまえば戦いが始まりますし、現代においても外交官特権が与えられている大使などを傷付ければ、宣戦布告に当たります。人々が戦いを挑むほどにこの王様はひどい王様で嫌われ者だったのでしょうか? 
たとえ話の登場人物を見て行きましょう。王様は神様、王様の招きを伝えに行った召使は、旧約聖書に大勢登場する預言者たちです。婚宴は神様のみ許での恵みに満ちた日々であり、その婚宴への招きを拒否して預言者たちを殺してしまったのは、歴代の宗教指導者であり、神様が選んで愛情を注ぎ続けてくださったにも関わらず、裏切り続けたイスラエルの歴史そのものです。7節 そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。 歴史上の出来事としてバビロン捕囚がそれにあたります。
神様はバビロニア帝国を用いてユダ王国を滅ぼし、エルサレムの町とそこに建つ神殿を徹底的に破壊させ、人々を奴隷としてバビロンに連行させられた出来事です。王様は家来たちに命じました。10 そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。町に出て行って呼びかけました。「皆さん。王様が王子様のために婚宴を開かれる。たくさんのおいしい料理もあれば最高級のワインもそろっています。そのままでいいから婚宴においでください!」こんな調子だったのでしょう。私みたいな者は「これはしめた。タダでごちそうにありつける。」と言って真っ先にかけつけます。大勢がぞろぞろと王宮に入っていたことでしょう。その中には善人も悪人も混じっていました。当然です。王子の結婚を心から祝う気持ちは問題にされていないのです。イスラエルの人たちは、かつて神様に選んでいただいたアブラハムの子孫です。神様との契約を守るならば、あなたの子孫は空の星、砂浜の砂の様に多くなる。わたしは、あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする。王となる者たちがあなたから出るであろう。わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、わたしはあなたとあなたの子孫の神となる。(創世記17:1)
歴史の示すところによれば、彼らは神様との約束、神様に従うことをしませんでした。そんな彼らに、悔い改めて神様に立ち返る様に宣べ伝える預言者たちを殺してしまったのです。私たちは預言者を自分の手で殺すことはありません。そうではなくて私たちの不従順、即ち「罪」を一身に負ってくださった主イエス・キリストの十字架の出来ごとを知っている者です。その私たちが、神様に従って生きる日々は、恵みの内を生きる日々です。争いや憎しみから離れ、恐れに支配されることのない、安らぎと平安に包まれた日々です。「波多野先生。それじゃあ一生懸命勉強して受験戦争に勝ち抜いたり、一生懸命商売をして売り上げを増やしたりするのは悪いことなんですか?」鋭い質問ですね。不正をして良い点数を取るのはダメです。しかし、一生懸命勉強して将来社会に役立つことは大切でしょう。まあ、世間で言われている良い大学に入って、良い会社に入ったり公務員になって、安定した生活を確保することだけが目標だとしたらもったいないですね。その安定した生活をどの様に用いるのかが大切です。お金も同じでしょう。
コリントの信徒への手紙Ⅰ 9章24節、パウロの言葉です。あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。これだけを聞くと、オリンピックで金メダルを取るため、あるいは、今月の売り上げNo1. になるために頑張りなさい、と言っているように聞こえます。別にそれを否定する必要はないのですが、直前の23節です。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。福音、神様の大いなる愛を伝えることが、隣人を愛する最高の表現です。福音を伝えるためならば何でもします。その為ならば金メダルを目指すアスリートの様に、すべてを犠牲にします。実際パウロは経験しました。
ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。 鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、 苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。(Ⅱコリント11:24-27)パウロに「何でこんなことに耐えるのですか?」と聞けば「私が神様から本当に愛されているからです。」この様に答えるでしょう。確かに私たちはパウロと同じように神様に愛されていますが、パウロの様にはなかなかできないでしょう。私は出来ません。しかし、私たちはパウロにはなれなくても、困っている人に寄り添うことで、主の愛を感じてもらうことは出来ます。例えばクリスマスの機会を捉えて礼拝に誘ってみる。これならできるのではないでしょうか。でも、何か難しい質問をされたら困る。大丈夫です。難しい質問は長老さんや牧師に回してください。私はどうしてもわからない時には、一緒に祈ります。神様に委ねます。皆さんの周りの人たち、隣人に声をかけること、誘うこと。これは皆さんにしか出来ません。パウロにはなれなくても神様の喜ばれる働きは身近にあるのです。
婚宴のたとえ話に戻りましょう。招待されてもやってこないイスラエルの人たち。彼らは大いなる恵みが約束されているアブラハムの子孫です。一方、街角から呼び集められた人たちは本来の招待客ではありません。イスラエルの人達が神様と共に集う婚宴の席から聞こえてくる楽しそうな話し声や歌声を遠くから聞いて、うらやましく思っているはずの人たちです。異邦人と呼ばれます。もちろん私たち日本人も異邦人です。
私たちは思いもよらなかった婚宴に招き入れてもらいました。今この様に山形六日町教会に集って礼拝をまもっています。現在教会で、主の聖餐以外に肉の糧を共にすることはかないませんが、心の糧をいただいています。喜びの祝宴がここにあります。11節から13節。王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』チョット不思議な話です。家来が町に行って呼び集めてきたのですから、礼服を着ているはずはありません。しかも一人以外は礼服を着ていたのです。これにはからくりがあって、客は埃っぽいパレスチナの道を通ってやって来ます。主人は宴会用の礼服を準備しており、招かれた者はその礼服に着替えて婚宴の席に着く習慣があったのです。
では、なぜ一人だけ着替えずに宴席に連なっていたのでしょうか? 人と同じに振舞うことを良しとしない人がいます。反骨精神と言うのでしょうか。昨今は個性を重んじる様になっていますから称賛されたりします。悪いことではありません。しかし、この人は神様が備えてくださった服に着替えることを拒否したのです。一体どんな服なのでしょうか。
パウロは言います。神様に愛されている者の服装です。 立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。(エフェソ書6:14,15)さらに彼は言います。夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい。(ロマ書13:12-14)神様の催してくださる喜びの婚宴に加えていただいた私たちです。神様の前で謙虚でなければなりません。そして神様の願われるすべての人の救い、福音の前進のために祈って行きましょう。
最後に気になることがあります。7節。 王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。13節。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』 神様ってこんなに恐ろしい方なのか、と言う思いです。神様は聖なる方ですからみ名を汚す者をいい加減にはなさいません。大変厳しい方です。しかし、その厳しさ故に一人子主イエス・キリストの十字架の死があったのです。その主イエス・キリストは私たちの友となってくださいました。「婚宴においで下さい。」神様の招きにお答えして、キリストを身にまとって愛に満ちた豊かな日々を歩んで参りましょう。祈ります。