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山形六日町教会

2021年11月7日

聖書:エゼキエル書37章1~9節 ローマの信徒への手紙10章9~11節
「主の言葉を聞け」波多野保夫牧師

今年も皆さんと一緒にこの様にして召天者記念礼拝を守れますことを主に感謝します。既に主の許へと召された兄弟姉妹の生涯に渡って、神様が注いでくださった大いなる恵を感謝するとともに、同じ恵みが今、私たちにも注がれていることを覚えたいと思います。お手元にお配りした「召天者名簿」には、教会員とそのご家族、さらにゆかりの方が記されています。従来、お名前を読み上げておりましたが、昨年来のコロナ禍にあって時間の関係でお読み出来ません。今年、新たにこの名簿に加えられた方のお名前だけ、お読みします。久我睦夫さん、桑名タカさん、稲垣禎一さん、今野愛知さんの4名です。後ほど、今お読みできない懐かしい方々のお名前と共に、その生涯に渡っての主の導きと励ましとを思い起こしていただきたいと思います。
本日与えられました聖書のみ言葉をご一緒に聞いて参りましょう。このエゼキエル書ですが、イエス・キリストが誕生する600年ほど前の時代、ユダ王国の人々はバビロニア帝国との戦いに敗れるたびに、捕虜となりました。バビロン捕囚と呼ばれます。エゼキエルはエルサレム神殿に仕える祭司の息子だったのですが、紀元前597年、最初の捕囚の民としてバビロンに連れていかれました。彼らは奴隷として様々な仕事をさせられたのですが、与えられた仕事をしっかりする限りにおいて自由が与えられていました。そのバビロンの地で、神様はエゼキエルを預言者として立てられたのです。預言者の預言とは、漢字で言葉を預かると書くように、神様のことば、これは神様のお考えのことですが、神様のことばを預かって人々に正確に伝えることです。ですから、預言者の中で神様のお考え、私たちを含めてすべての人を愛して止まないお考えを正しく伝えた歴史上の人物で、大預言者と呼ぶにふさわしい人がいます。私たちの罪を負って十字架の道を歩んでくださった主イエス・キリストです。
エゼキエルに戻りましょう。彼は預言者として立てられると、滅びの瀬戸際にあった、エルサレムの人々に向かって手段を尽くして(エゼキエル4,5章)罪を悔い改めて神様に立ち返る様に語り伝えました。しかしユダ王国は、バビロン帝国の攻撃に対抗するためにエジプトや周辺の強国と同盟を結んで国を守ろうとしました。その結果、それらの国々の神々を刻んだ像、偶像がエルサレム神殿の各所に祭られ、長老たちが礼拝している始末でした。(エゼキエル8章)人々は神様の愛の中を歩むのではなく、偶像を礼拝し、乱れた生活に浸りきり、指導者たちは 弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配したのです。(エゼキエル34:4)「神様と自分と隣人を愛すること」からかけ離れた生活、すなわち「罪」の中にあったのです。そんなある日、バビロンの地で預言者エゼキエルに届いたのは、エルサレムが陥落し神殿が完全に破壊されたとの悲しい知らせでした。(エゼキエル33:21)ユダ王国は滅びました。
高校の漢文の授業で習った、中国の詩人杜甫の詩です。「國破れて 山河在り 城春にして草木深し 時に感じて花にも涙を濺(そそ)ぎ 別れを恨(うら)んで 鳥にも心を驚かす」戦乱によって破壊しつくされた都から眺める山や河は変わることがない。春を迎えた町並みの跡地には草木が生い茂っている。そんな姿を見ると分かれた家族のことが思い起こされ涙を流さずにおられない。この様な意味でしょうか。皆さんや諸先輩方の中には第2次世界大戦の結果、この様な経験をなさった方もおいでのことでしょう。戦争はいつも悲惨な結末をもたらします。
しかし、このエゼキエル書が語る物語は祖国とそこに建つエルサレム神殿が破壊された上に、捕虜となって敵国で働かされる。そのみじめさを嘆き悲しむ物語ではありません。むしろここが始まりなのです。破壊れたエルサレムは堕落しきった町となっていましたし、聖なる神殿は、邪教の巣窟となっていました。人々は預言者エゼキエルの伝える神様のことばを無視し続け、その心は腐りきっていたのです。そんな時、エルサレムの破壊と捕囚の出来事は、世界を創造された唯一の神様に人々の心を向けさせる為の唯一の手段でした。私の経験から俗な言い方をすれば「痛い目に合わなければ分からなかった」のです。そのとき、お前たちは わたしが主であることを知るようになる。(エゼキエル35:9)これが神様のお言葉でした。
いつも、申し上げています。神様は私たちを愛したくてしょうがない方なのです。幸せになって欲しいといつも願ってらっしゃる方なのです。ですから神様を知ることが知恵の初めであり、幸せの初めなのです。「波多野先生、それなら神様はそんな手荒なことをしないで、私たちの願った通りにしてくれればいいじゃないですか? この世界はもっと良い世界になるはずです。」「確かにその思いが湧いてくるのは自然ですね。しかし、その為には自分の思ったことが、いつも確実に自分たちを幸せにしないといけません。「触るものが全て金になる」話しがイソップ物語にありますね。あなたの願ったことがいつも自分を幸せにするんでしょうか?幸せは神様に与えていただいた方が良いのではないですか?」
エゼキエルの物語に戻りましょう。神様のお考えを全てを尽くして伝えたにもかかわらず、人々の頑(かたく)なな心を神様に向けさせることは出来ませんでした。彼の悲しみと憤りと落胆が思われます。しかし、神様のご計画はいつも私たちの思いをこえるのです。エゼキエルに命じられたのは、主によるイスラエル民族の回復を告げることだったのです。
先ほど読んでいただいたエゼキエル書37章1節以下で、神様はエゼキエルを乾燥しきった骨がいっぱい散らばっている谷へと導き、幻を見せることで救いのご計画を告げられたのです。エゼキエルは神様のお考えを語ります。 枯れた骨よ、主の言葉を聞け。主なる神はこう言われる。「見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。」(37:4,5)すると8節です。それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った。しかし、その中に霊はなかった。血の通わない魂のはいらない肉体の復活です。エゼキエルはさらに神様のみ心を宣言します。10節。わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった。 神様のご計画は、捕囚から50年後の紀元前538年、バビロニア帝国を打ち破ったペルシャ王キュロスによってエルサレムへの帰還が許される出来事で実現しました。そして捕囚が自分たちの犯した「罪」ゆえだと悟った人たちは、20年後の紀元前515年にエルサレム神殿を再建したのです。
それでは、このエゼキエルの見た幻は古代イスラエルの人々にとって、そして今日の私たちにとってどんな意味を持つのでしょうか? ここで忘れてはならない事実があります。それは紀元前580年代と2021年の今日との間にある2600年の隔たりの中に、主イエス・キリストの誕生と十字架と復活の出来事があったことです。 バビロン捕囚から解放された古代イスラエルの人々は、「国破れて山河あり」と言う悲しく厳しい現実を前にして自分たちの罪を確かに悔い改めました。しかし、歴史はバビロン帝国の支配から、ペルシャ帝国へ、さらにローマ帝国の支配へと移り、人々の心は再び神様の愛から離れて罪の奴隷となって行ったのです。そんな中でローマの支配からイスラエル民族を救い出し、ダビデ王の時代の栄華を取り戻してくれるメシア、即ち救い主を祈り求める様になっていました。その祈りを神様が聞き届けてくださり、主イエス・キリストが来てくださったのです。これが歴史の語る所です。しかし、その救い主はイスラエル民族だけ救うのではなく、全世界の民の救い主であり全世界の王だったのです。なぜならすべての人が犯す「罪」からの救い主だからです。
ここでキリスト教の言う「罪」について申し上げましょう。これは日本の法律が定める「罪」と同じではありません。もちろん殺人は罪ですし、交通違反も避けるべきですが、先ほど「神と自分と隣人を愛すること」から離れることが「罪」だと言いました。もう少し丁寧に言えば「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい。」(ルカ10:27)これがイエス様のご命令でありキリスト教が愛の宗教と呼ばれる所以です。神様の前に謙虚さを保ち、自己中心になることなく周囲の人に愛を注ぐ。このことが一番自分を大切にすること、すなわち自分を愛することなのです。そして、そこから外れてしまう。これが「罪」です。そして、神様は聖なる聖なる方ですから「罪」を放っておくことはなさいません。
先ほど、私は「痛い目に合わなければ分からない」人間だと申しました。最も痛いこと。それは罰としての死です。そして死のもたらす愛の神様との断絶です。 私が本来受けるべき「痛い目」を身代わりとして負ってくださった方が、主イエス・キリストであり、十字架の出来事なのです。
預言者エゼキエルは主イエス・キリストの出来事を知りませんでした。しかし、神様の御許にある諸先輩方は知っていました。私たちも知っています。すべての人を愛して止まない神様は、私たちが罪の中を歩む人生、「神と自分と隣人を愛す」ことから離れた人生を望まれません。そんな人生は、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴 このようなものと隣り合わせの人生です。決して人を幸せにしません。それに対して神様の愛の中を歩む人生は 喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。(ガラテヤ5:16-26) でもクリスチャンって「あれしちゃいけない、これしちゃいけない」って言われて窮屈で仕方がないのでしょう。そうじゃありません。喜びと真の自由がある刺激的な人生です。あなたがお金持ちだとしましょう。気前よくすることで沢山の友人が出来るでしょう。酒とバラの日々を過ごせます。しかし、「金の切れ目が・・・」ですね。これに対して主イエス・キリストを仲立ちとした近しい関係には素晴らしいものがあります。「しかし、波多野先生。確かにそうだと思うのですが、クリスチャンどうしがいがみ合ったり、家族の中がシックリ行かないこともあるんじゃないですか?」 残念ながら、そうですね。お互いがみ言葉を振り回して切り合ったら、み言葉は鋭い剣ですから相手を傷つけてしまいます。主のみ言葉は人を裁いて殺すために用いるのではなく、生かすために用いるものです。家族はある面残酷で、口で言う言葉と行いの違いが目についてしまいます。ですから確かに関係が壊れることがあります。
しかし、クリスチャンはその修復の方法と場所を知っているのです。その方法はお互いに祈ることから始まります。主は敵のために祈りなさいとおっしゃいます。難しことですがいつも申し上げていますね。「あのひどい、波多野が神様に近づきます様にしてください。」です。
次に和解の場所です。それは主イエスの十字架の許です。もちろん教会は相応しい場所ですが、十字架の許とは、お互いが主イエス・キリストの前でへりくだることです。主の愛が隔たりを埋め尽くしてくださるでしょう。
さらに、もう一つの場所があります。神様の御許、天の国です。今日お配りした召天者名簿にある方全員が仲睦まじかったのかは分かりません。しかし、今は平和なのです。大体神様の御許でいがみ合っているなんて、無駄なことはやっていられないでしょう。私たちはやがて神様の国に招かれ、その麗しい関係に入れていただけるのです。礼拝の後で教会墓地に行きますが、納骨堂には「我らの国籍は天に在る」この様に刻まれています。これがクリスチャンに与えられている大いなる希望なのです。クリスチャンも残念なことに「罪」と無縁ではありません。しかし、立ち返る場所を知っています。主の十字架の許に立ち返るのです。なぜなら本籍地が「天の国」だからです。
エゼキエルは渇ききった骨の幻を見ました。肉体的な渇き、水分が不足すれば生命を維持することが出来ませんが、もう一つ危険な渇きがあります。心の渇きです。コロナ禍にあって世界中で、人と人との触れあいが制限されました。施設では今でも面会が厳しく制限されていますし、県外に住む親族と会うことも困難でした。礼拝を中心とした教会での交わりも例外ではありませんが祈り合うことは欠かすことなく続けられています。
主イエスの出来事が思い起こされます。旅に疲れ渇きを覚えられたサマリアの井戸端での出来事です。真昼間に水を汲みに来た婦人に「水を飲ませてください」と願われたのに続いて「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ福音書4:4-) 命の水とは生きて働かれる聖霊です。私たちの心に潤いを与え、生かし用いてくださるのです。
枯れた骨とありました。私たちの骨は血液によって養分が運ばれなくなると骨の組織が壊死してしまいます。阻血性骨壊死(そけつせいこつえし)と呼ばれるそうですが、新鮮な血がいつも供給されることが必要です。
マタイによる福音書26章27節28節。主イエスは 杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。十字架が翌日に迫っていることを知った主が、最後の晩餐の席で聖餐を定められた際の言葉です。
後ほど聖餐式を行いますが主イエス・キリストが十字架で流された血によって、私たちは「罪」のない者として見なしてくださり、喜びの人生だけでなく、やがて全員に訪れる「死」。その「死」の先にある希望の時が約束されています。これがキリストに従う者、クリスチャンに約束された恵みなのです。まだ洗礼を受けていらっしゃらない方は是非この喜びの人生を共に歩んでいただきたいと思います。洗礼に至らずに亡くなられた方、神様は全ての者を愛したくて仕方のない神様だと申しました。二つのことを申し上げましょう。
主イエスは十字架から復活に至る3日間、陰府に降り信仰に至らなかった死者に伝道をなさったと伝えられます。(Ⅰペトロ3:19)さらにペトロは 死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。(ペトロの手紙4:6)この様に述べます。信仰に至らずに亡くなられた方の為に是非主の恵みと導きを祈りたいと思います。
最初に読んでいただいた新約聖書ローマの信徒への手紙10章9節以下は、古(いにしえ)の教会に於いて洗礼式の際に用いられた言葉だと言われています。お読みします。9 口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。10 実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。11 聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。
本日私たちは既に神様の御許にある兄弟姉妹のことを覚えて礼拝を守っています。私たちは地上にある時も、そして死の向こう側にあっても。主の大いなる愛のもとに置かれていることを覚えたいと思います。祈りましょう。