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山形六日町教会

2021年10月24日

聖書:ダニエル書3章16~18節 ペトロの手紙Ⅰ2章11~17節
「従いなさい」波多野保夫牧師

説教シリーズ「あなたへの手紙」の8回です。新約聖書に多く含まれています手紙は、私たち宛ての神様からの手紙です。現在ペトロの手紙Ⅰ を読み進めています。10月31日が衆議院選挙の投票日と言うことで、選挙運動真っ盛りの今日この頃ですが、民主主義の根幹が選挙であり民意を反映する場だと言われています。良い政治が行われるように願って投票したいと思っていますが、私はもろ手を挙げての民主主義支持者ではありません。こう言いますと危険思想の持主かと思われるかも知れませんが、そうではありません。民主主義は民(たみ)すなわち人が主だと言います。わたしはこの様な表現をするのであれば神主(かみしゅ)主義でありたいと思います。
第2次世界大戦当時、イギリスの首相を務めたウィンストン・チャーチルは1947年11月11日英国議会で次の演説をしました。「これまでも多くの政治体制が試みられてきたし、またこれからも過ちと悲哀にみちたこの世界中で試みられていくだろう。民主主義が完全で賢明であると見せかけることは誰にも出来ない。実際のところ、民主主義は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば、だが。」 民主主義の抱える問題を理解した上で、民主主義以上の政治形態は見つかっていないから大切にすると言うのです。いずれにしろ政治は大きな力を持っており、人々の生活だけでなく人生そのものや生命にも影響を及ぼす力を持っています。私は、神主(かみしゅ)主義支持者だと申しましたが、教会が権力を持った政治。例えば主イエスを十字架につけた者たちが属していたユダヤの最高法院であり、中世においてローマ・カトリック教会が広大な領地を治めたこと、あるいは宗教改革者ジョン・カルバンがジュネーブの町で行った神権政治なども、それぞれに弱点を持っていました。一方、決定を多数決原理に委ねる民主主義では、過半数の人が神様のお考えに敏感でない場合、衆愚政治や大衆迎合政治に陥る危険が増します。これは歴史が語るところです。
さて、本日読んでいただいた聖書箇所ですが、現代に生きる私たちにとってどの様に理解すればよいのか戸惑う聖書箇所の一つではないでしょうか。ペトロの手紙Ⅰ2章11節12節。 愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。また、異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。ペトロは私たちがこの世の旅人であり、仮住まいの身だと言います。六日町教会の教会墓地に「私らの国籍は天に在り」(フィリピ3:20)と刻まれている通りです。キリストに従う者は、全員がやがては経験する死の時を越えて永遠の命が約束されています。だったら肉の欲に支配される人生を歩むのでなく、もっと喜びに満ちた豊かな人生を送った方が良いでしょう。この日本と言う異教の地にあって、私たちが主に従う喜びの日々を過ごすのならば、そこからあふれ出る隣人を愛する祈りと行いを見て、主に導かれる人が起こされるでしょう。訪れの日とは、主イエス・キリストによってこの世のすべての悪が滅ぼされる希望の日ですが、神様はその日までに、多くの人が悔い改めて従うようにと望まれています。ここまでは理解できる方が多いでしょう。しかし、ペトロがそのために私たちがどうすれば良いのかを述べる、次から理解が難しくなります。2章13節14節。主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが、統治者としての皇帝であろうと、あるいは、悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるために、皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい。いかがでしょうか? ペトロの言葉は私たちの慣れ親しんだ民主主義にはなじまない様です。「彼の言葉は現代では必要ないものです。無視すれば良いでしょう。」果たしてそうなのでしょか? 3つの視点から見て行きましょう。
最初に聖書の他の箇所ではどの様に言われているのかです。週報に記しておきました。まず旧約聖書出エジプト記です。紀元前1200年頃でしょうか、モーセが誕生しました。 エジプト王は二人のヘブライ人の助産婦に命じた。一人はシフラといい、もう一人はプアといった。「お前たちがヘブライ人の女の出産を助けるときには、子供の性別を確かめ、男の子ならば殺し、女の子ならば生かしておけ。」 助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた。紀元前600年ころバビロン捕囚の際にネブカデネザル王に仕えた3人のユダヤ人です。 三人は王の前に引き出された。王は彼らに言った。「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴ、お前たちがわたしの神に仕えず、わたしの建てた金の像を拝まないというのは本当か。」「御承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」新約聖書、使徒言行録は主イエス・キリストの十字架と復活の後に誕生した教会が発展していく様子を伝えています。そして、二人を呼び戻し、決してイエスの名によって話したり、教えたりしないようにと命令した。しかし、ペトロとヨハネは答えた。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」
さらにヘブライ人への手紙は出エジプト記の出来事を引用して次の様に述べています。 信仰によって、モーセは生まれてから三か月間、両親によって隠されました。その子の美しさを見、王の命令を恐れなかったからです。ペトロの言葉とは裏腹に統治者に逆らった出来事が沢山述べられています。反対にペトロと同じことを言っている聖書箇所です。テトスへの手紙 3:1 人々に、次のことを思い起こさせなさい。支配者や権威者に服し、これに従い、すべての善い業を行う用意がなければならないこと、2 また、だれをもそしらず、争いを好まず、寛容で、すべての人に心から優しく接しなければならないことを。そして極めつけは使徒パウロが書き送ったローマの信徒への手紙13章です。小見出しに「支配者への従順」とあります。13章1節以下を週報に引用しましました。お読みします。 13:1 人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。2 従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。3 実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。あなたは権威者を恐れないことを願っている。それなら、善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう。4 権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです。5 だから、怒りを逃れるためだけでなく、良心のためにも、これに従うべきです。6 あなたがたが貢を納めているのもそのためです。権威者は神に仕える者であり、そのことに励んでいるのです。7 すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。
先ほどお読みした旧約聖書が語る出エジプト記ではエジプト王ファラオの支配下にあり、ダニエルの仲間たちはバビロニア帝国のネブカドネザル王の支配の下にありました。彼ら、彼女らは神に従うことを第一として、勇気を持って王の命令に背いたのです。新約聖書の時代、使徒言行録ではペトロとヨハネが時の権力者たちの命令に逆らって、主の福音を宣べ伝えることを止めようとはしません。しかし、パウロは権威に逆らうなと言い、ペトロは手紙の中では、パウロと同じく権威に従えと述べていました。この様に聖書は様々に述べていることを見てきました。
次に、聖書のみ言葉が語られた時代背景を見ておきましょう。これはいつも申し上げていますが、聖書は永遠の真理を語っているのですが、まずはその時代の人に対して神様のみ心を伝えています。ですから、その時代の人々がわかる様に、分かり易い表現がとられています。
新約聖書の時代、主イエス・キリストによって神様の愛がハッキリと伝えられ、その弟子たちの活躍によって各地に教会が立てられ、福音が広がって行った時代は、ローマ帝国が地中海沿岸地方一体を治めていた時代です。治安を乱すことがなく重い税金を納める限りにおいて、自分たちの国を治めることが許されていました。主イエスが誕生なさった当時のヘロデ大王は、ローマ帝国に取り入ってその地位を得たのですが、そのころあのダビデ王の時代の栄光を武力闘争によって取り戻そうとした、「熱心党」と言う過激派武装集団が生まれました。彼らは紀元66年、ユダヤ戦争と呼ばれるローマ帝国からの独立戦争を起こしたのですが破れてしまい、エルサレム神殿は破壊され、多くの人が殺されたのです。戦争の結果はいつも悲惨です。
3番目に、キリスト教がたどった2000年の歴史の中での出来事を見ておきましょう。1517年マルチン・ルターによってはじめられた宗教改革です。1524年になるとドイツ各地で農民の一揆が起きました。農奴と呼ばれて領主によって荘園に縛り付けられていた農民が宗教改革に刺激されて立ち上がったのです。彼らは「12か条の要求」を掲げたのですが、次の様な項目がありました。「キリストは自らの血を流して身分の高いもの、低いものの例外なく解放し給うた。われわれが自由であるべきこと、自由であろうと望むことは聖書に合致している。キリスト教徒としてわれわれを農奴の地位から救い出してくれることはとうぜんである。」 ルターは当初農民たちを支持したのですが、やがて農民の一部が急進化して、略奪に走る様になり、彼は一揆の鎮圧を主張する様になったのです。もちろん歴史の一コマですから単純ではないのですが、ルターは無秩序がもたらす悲劇を良く知っており避けたかったのだと言われています。今日で言う民主主義は1640年にイギリスで始まったピューリタン革命や、1776年のアメリカ独立宣言、1789年のフランス革命などによって、一般市民が政治を決めていく近代的な制度が整えられていったと言われています。400年に満たない歴史です。さらに日本ではこれは見方に依りますが、戦後の70年程なのでしょうか。 これもドイツの話ですが第2次世界大戦に向かってナチスの総統ヒットラーが権力を得ていく時代、多くのクリスチャンは「ドイツ的キリスト者の信仰運動」と呼ばれる運動に加わりナチスを支持し、さらにドイツ民族の純潔を守るためとしてユダヤ人迫害を支持しました。その様な時代にあって、聖書の語るみ言葉に立つ「告白教会」は、1934年にカール・バルトが草稿を書いたバルメン神学宣言を採択し、ナチスの政策を明確に否定したのです。 このバルメン宣言の第5項は 本日与えられた聖書箇所 ペトロの手紙Ⅰ 2章17節から「神を畏れ、皇帝を敬いなさい。」を引用して語っています。難しい言葉をすこしかみ砕いて説明しましょう。
【聖書によれば、国家は、教会も含めて混沌の中にあるこの世界にあって、神様から「法と平和」のために権力を用いる務めが与えられています。教会は国家に与えられたこの務めを神様に感謝しつつ認めます。】先ほど紹介しました、熱心党の武力革命の試みが大きな悲劇を招いたこと、マルチン・ルターが農民一揆を否定したのは、無秩序のもたらす悲劇をさけるためだった紹介としました。バルメン宣言は国家に対して神様のみ心に従った働きを求めます。
【そして教会は国を治める者と治められるものとが、神様のみ心を思いつつ責任を果たすことを求めます。教会は神様がこの方法において支えてくださることを信頼して従います。】 国家も国民も共に神様のみ心に従うこと、「神様と自分と隣人」を愛して行動する、日々を過ごす中に真の平和と幸せがあるのです。
続けましょう。【そして国家がこの神様に与えられた使命を越えて人々を支配することを退けます。逆に教会が神様に与えられた使命を越えて国家的な権力を持つことも認めません。】 主イエスがローマ帝国の支配に対して語られたのは「ローマに税金を納めて良いのか?」との問いに答えられ時です。 「税金として納める貨幣を見せなさい。ここにあるのは、だれの肖像と銘か?」と問われ「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」(マタイ22:15-22)この様に答えられました。教会が、あるいは宗教団体が政治と一体になる危険を指摘されました。教会は権力を持つことも、権力に利用されることもないのです。なぜならばいつも変わらずに私たちを愛してくださっている神様に従うからです。
以前お話ししたことがありますが、私の経験を繰り返しましょう。会社に勤務していた2003年3月23日にアメリカのシアトルにある教会での礼拝に出席しました。この日は3月20日に始まったイラク戦争後、最初の日曜日でした。その日の聖書箇所は、先ほどお読みしたローマの信徒への手紙13章。そして説教は、「アメリカ軍が大量破壊兵器を開発している悪いフセインを倒し大勝利を得ます様に」と言うのではありませんでした。当時のブッシュ大統領が上に立つ権威として、それに相応しく、神のみ心を問い正しくそれを行うことが出来ます様に。さらに早期の終戦と兵士たちが無事に家族の許に帰ることが出来る様にと願うものでした。もちろん戦争を肯定するものではなく、平和の回復が早くなされるようにと双方の指導者たちの正しい判断を祈り求めたのです。
最初に申しました様に10月31日に衆議院選挙が行われます。ペトロが 主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。と言い、パウロが「神に由来しない権威はなく」と言う時、「地上における権威は神に従わなければならない。神のみ心を問いそれを実現するものでなければならない。」この様に権威の在り様がその言葉に含まれています。そして、民主主義と言う制度のもとでは、確かに欠陥はあるものの、地上の権威は国民の選択、即ち選挙によって立てられるのです。俗に「選挙は良い人を選ぶのではなく、悪くない人を選ぶのだ。」と言われます。神様のみ心を表す人が見つからないのであればそんな選択もあるのでしょう。良い人が選ばれます様に、そして選ばれた人が良い導き手となります様に祈って行きたいと思います。最後にテモテへの手紙Ⅰ2章1節2節をお読みします。2:1 そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。2 王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。祈りましょう。
それを知る私たちは、罪を悔い、主イエスのご命令に従い、「神と自分と隣人を愛する」者でありたいと思います。そして、主の福音をこの山形の地に証しする山形六日町教会であり、集う一人一人でありたいと思います。祈りましょう。