HOME » 山形六日町教会 » 説教集 » 2021年10月17日

山形六日町教会

2021年10月17日

聖書:エゼキエル書18章21~23節 マタイによる福音書21章33~41節
「ぶどう園の農夫たち」波多野保夫牧師

先ほど、マタイによる福音書21章33節以下をお読みしましたが、この21章は日曜日にイエス様がエルサレムに入城された場面から始まっています。6節以下です。21:6 弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、7 ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。8 大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。9 そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」10 イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。11 そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。
この日に至るまでの主イエスの力ある言葉と力ある業を伝え聞いていた多くの人が、ローマ帝国の縄目から解放して、あのダビデ王時代の輝きを取り戻してくれる救い主が来てくださったんだと思い「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」この様に叫んでエルサレムへと招き入れたのです。しかし、その週の金曜日に主は十字架の上でこの世での生涯を閉じられることになります。私たちはあまりの違いに驚くのですが、十字架の時が近いことをご存知だった主は、残された時間の中でやらなければいけないと思われたことが沢山あったのです。
翌月曜日になさったことが二つ記されています。まずは絶対に許せないことへの激しい怒りです。21章12節下です。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。13 そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』 ところが、あなたたちは それを強盗の巣にしている。」当時聖なる神が宿られる場所と考えられていたエルサレム神殿です。境内では贖いの献げ物とするための牛や羊や鳩が売られていましたし、献金(神殿税)を献げるために銀貨に変える両替商たちがいました。(ヨハネ2:14)神殿を訪れる人が自分で鳩や羊を連れてくることは大変ですし、各地からやって来る人々は自分の国のお金をドラクメ銀貨に両替してもらう必要があります。ですから商人たちが神殿近くにいてくれると助かります。しかし、彼らは祭司から権利を買って神殿の境内に入り込み大声で巡礼者を呼び込んでいたのでしょう。それは聖なる神を冒涜するものです。「『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』 ところが、あなたたちは それを強盗の巣にしている。」 この様に怒りを新たにされた主イエスの言葉が思い出されます。私の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない。(ルカ12:10) 聖なる方を冒涜することは、すべての時代すべての者において赦されないのです。 神殿を金儲けの場にしている者に対して怒りに燃えた主は、一転して重荷を抱えた人たちに対して慈愛を示されました。境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。この時代、肉体的なハンディーは罪を犯した結果と考えられていましたから、心にまで重荷を負わされていたのです。十字架の時が迫って来ていても、疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。(マタイ11:28)いやしてあげよう。(マタイ8:7)この言葉は真実だったのです。
そしてこの週の木曜日には、弟子たちと最後の晩餐を共にされ、その席で聖餐を制定なさいました。十字架の出来事によって、主に従う者の罪の代価が既に支払われていることを忘れないためです。主の聖餐は残された弟子たちだけに留まりません。全く変わることなく2000年後の私たちにも十字架によって示された大いなる愛を思い起させてくれるのです。主はさらに弟子達の足を洗って下さってから、祈るために彼らとオリーブ山へ出かけ、そこでイスカリオテのユダの裏切りによって官憲に逮捕されたのです。
マタイによる福音書によれば、この緊迫した残り少ない日々の中で、21章21節以降、六つのたとえ話をなさいました。前回と今回はぶどう園に関係する譬えです。さらにこれは次回以降お読みしたいと思いますが、「天の国」に関しての3つの譬えと、終末に関しての「山羊と羊を分ける」譬えです。弟子たちや民衆や、さらに自分を罠にかけて殺そうとするサドカイ派やファリサイ派の人々に対してさえも、限られた時間の中で懸命に、福音の真理を語られたのです。それにもかかわらず、全てを見聞きしてきた弟子たちは「自分たちの中で一番偉いのは誰か」と言い争っている始末でした。(ルカ22:24) ゲッセマネの園で「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」(マタイ26:36-46) この様に祈られた祈りは、神様に「もう少し時間をください。このふがいない弟子たちにもっとあなたのお考え、あなたの愛を理解してもらいたいのです。」こんな思いが込められていたに違いありません。しかし、主は離れたところで祈って弟子たちの所に戻ってこられることを3度繰り返されたのですが、その度に 戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。 こんな不甲斐ない弟子たちの為に、十字架を負わねばならない主はどの様な思いだったのでしょうか。使徒パウロの言葉が思い起されます。 実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。(ロマ5:6-8)
キリストの愛を知る私たちです。この礼拝と言う与えられた恵みの時に、み言葉をしっかりと聞き、そして主の愛の中を歩み、主のために奉仕する喜びの生活へと戻って行きたいと思います。「宮清め」をなさった翌日に、再び神殿の境内で教えられると、人々は喜んで福音の言葉に耳を傾けました。それを苦々しく思った 祭司長や民の長老たちが近寄って来て言いました。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」(マタイ21:23) その彼らにまず語られたのが「二人の息子」の譬えでした。ブドウの収穫期になってブドウ園に行って働きなさいと言う父に、最初は「いやだ」と言ったものの兄は考え直しました。一方、弟は色よい返事をしたのですが、ブドウ園で働くことはありませんでした。私たちは主の招きを受けて集う数少ない者です。キリストの愛を知ることにおいて「兄」にあたります。「罪」を悔い改めて主に従う者でありたいと思います。
 
大変長い準備となりましたが、本日与えられましたマタイ福音書21章33節以下です。「もう一つのたとえを聞きなさい。」と語り始められました。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。土地を開墾してぶどうの苗木を植え、さらに農園を整備して収穫を得るには5年以上かかるのではないでしょうか。長い年月をかけて育(はぐく)み育てたぶどう園です。そんなぶどう園ですが、当時の農園主たちは、所有する農園の整備が終わると、農作業を雇い人の農夫たちに任せて、都市にある自分の家に戻ったそうです。待ちに待った収穫期が来たので主人は収穫を受け取るために僕を何回か送ったのですが、農夫たちはその度に僕を袋だたきにし殺してしまいました。最後に主人は『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、息子を送ったのですが、農夫たちは、『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』と言って袋だたきにした上で殺してしまいました。 実際当時の法律では、農園主の跡取りがいない場合には、農夫たちのものになったそうです。現実を反映した譬えですが登場人物を特定することは難しくないでしょう。主人は神様、農夫たちはイスラエルの人たち、目の前にいる宗教指導者たちはその代表です。ぶどう園の管理を彼らに任せたとあるのは、国の統治を王や宗教指導者に任せられたことです。神様は人間を命令通りに動くロボットにするのではなく、何を決め何を選び取るかの自由を与えられたのです。
主人が送った僕たちは、預言者です。王や宗教指導者や民衆に神様のお考えを伝え、罪を悔い改めて神様に立ち返る様にと宣べ伝えたイザヤやエレミヤ、エゼキエルなどです。しかし彼らの言葉は無視され、迫害を受けて殺された者もいました。最後の預言者、バプテスマのヨハネはヘロデの娘サロメの求めによって首をはねられてしまいました。(マタイ14:1-12) ぶどう園の主人が最後に送った息子は主イエス・キリストです。十字架の出来事が暗示されています。
この譬えをさらに追って行きましょう。34節に収穫の時が近づいたとあります。最終的な「収穫の時」は「終末の時」ですが、実ったぶどうはイスラエルの人が、そして私たちが日々いただいている恵みです。神様の愛のご計画にお答えしているのかが問われるのです。 収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。 主イエス・キリストが地上に来られる以前には、神様は多くの民の中からイスラエル民族を選び、他の人達に増して大きな愛を注がれました。しかし、彼らはしばしば神様の愛から離れたのです。そんな時に預言者たちが遣わされたのですが、語る神様のことばは無視されました。そして最後の神様から遣わされたのが主イエスです。37節以下です。 37 そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。38 農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』39 そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。数日後の十字架の出来事がここで指摘されています。それほど緊迫した状況にあったのです。
ところで、私たちが直接主を十字架に架けることはありません。これは既に2000年前に済んでしまっています。それでは私たちとは全く関係ない譬え話なのでしょうか? 『彼の相続財産を我々のものにしよう。』とあります。神様の財産を自分のものとしようとすること。これもあまり関係なさそうに思えますが、実はここがポイントです。典型的な祈りの言葉があります。「日用の糧を今日も与えたまえ」です。私たちが日々口にする食べ物の多くは自分や家族が用意したものでしょうし、施設や園では給食担当の方が準備してくれます。それなのに、神様に与えてくださいとお願いします。なぜならすべての物が、神様の物だからです。ですから、わたしたちが神様のみ心に反して、自己中心的に何かを得ようとすれば、それは神様の財産を自分の勝手にしようとしていることになります。神様のみ心に反してとは「神と自分と隣人を愛する」ことから外れてと言う意味です。何かを得ようとする何かとは、お金や食べ物や品物だけではありません。名誉や地位などもその危険があります。最近ノーベル賞の受賞者が発表されました。ノーベル賞を目指して一生懸命努力した結果が受賞に結び付いたのであれば、それは素晴らしいことです。しかし、どうでしょう。人の役に立つために研究を続けた結果であり、神様の創造の御業のすばらしさを理解するために研究を続けた結果がノーベル賞に結び付いたのだったとしたら、こちらの方がステキではないでしょうか。
残念なことに、学問や芸術の世界でも盗作の問題が伝えられますし、もっと身近なところでも自己中心であったり、謙遜さを失ったりする醜さが鼻につくことはあるでしょう。「神と自分と隣人を愛する」ことから離れること、即ち「罪」への誘惑、悪魔の誘惑は巧妙ですから「われらを試みに合わせず悪より救いだし給え。」この主の祈りは本当に大切です。一つだけみ言葉をお読みしましょう。 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。(マタイ7:3) 自分が自己中心であったり、謙虚さを失っていることは見えにくいし、見たくないものですが、最良の方法があります。それは聖書に親しみ、祈り、礼拝に集うことです。
さて 40節41節。 さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」 彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」 主人、すなわち神様が地上に戻っていらっしゃる日、これは終末の時です。すべての者、既に亡くなっている者も、生きている者も、すべての者が裁きを受けなければなりません。最後の審判と呼ばれます。しかし、キリストに従う者には永遠の命が約束されています。それでは信仰に至らずに亡くなったかたはどうなるのでしょうか? ペトロの手紙Ⅰ4章5節から10節です。彼らはと語り始めますが、神様が嫌われることを行った者たちです。ぶどう園の農夫たちもそうですし、私たちもその性質を持っています。 4:5 彼らは、生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりません。6 死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。死んだ者にも福音が告げ知らされ、生前に犯した罪を悔い改め主イエス・キリストに従う者になる、そのチャンスが与えられているのです。ですから私たちが、信仰に至らずに亡くなった方の為に祈ることは大切です。もちろん生前に信仰が与えられ主と共に歩む喜びの人生は素晴らしいものです。
7節 万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。8 何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。9 不平を言わずにもてなし合いなさい。10 あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。
 私たちは神のさまざまな恵みの善い管理者、すなわちぶどう園の農夫なのです。賜物を頂いた者はその賜物を生かして互いに仕えるのです。自分の栄光を追い求めたり、うぬぼれたりするのでなく、神様からいただいたものを感謝するのです。そしてへりくだって「神と自分と隣人を愛する」のです。先ほど主人が遣わした僕が預言者たちだと指摘して、イザヤ・エレミヤ・エゼキエル・バプテスマのヨハネの名を挙げました。お読みしたエゼキエル書18章21節です。 悪人であっても、もし犯したすべての過ちから離れて、わたしの掟をことごとく守り、正義と恵みの業を行うなら、必ず生きる。死ぬことはない。これが主イエスが誕生するはるか前に預言者を通して告げられた神様のみ心です。現在に至るまで、神様は私たちを愛したくてしょうがない方なのです。
だとしたら、マタイ福音書21章40節。「さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」このイエス様の問いに対する彼らの答え「41その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」この答えは正しいのでしょうか? 誤っているのでしょうか? 農夫たちがこうなっても文句は言えないとの思いは正しいでしょう。しかし、十字架の出来事のあと、彼らがどうなったのか、聖書は語っていません。語る必要もないのでしょう。なぜなら主の十字架と復活の出来事、主の福音ははるかに大きいからです。
それを知る私たちは、罪を悔い、主イエスのご命令に従い、「神と自分と隣人を愛する」者でありたいと思います。そして、主の福音をこの山形の地に証しする山形六日町教会であり、集う一人一人でありたいと思います。祈りましょう。