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山形六日町教会

2021年10月10日

聖書:士師記16章28~30節 ローマの信徒への手紙12章19~21節
「愛には偽りがあってはいけません」波多野保夫牧師

説教シリーズ「気概を示す」の29回目です。このシリーズでは、聖書に登場する女性が様々な場面において示した気概を見てきました。旧約聖書と新約聖書の背景にある世界は、家父長制度に基づく徹底的な男性社会でした。
モーセに率いられてエジプトを出発した一行は、妻子を別にして、壮年男子だけでおよそ六十万人であった。(出エジプト12:37)この様に報告されていますし、パウロは「婦人たちは教会ではだまっていなさい。」(Ⅰコリント14:34)とまで言っています。パウロのこの言葉だけを取り上げるとフェミニストから絶対怒られてしまいます。誤解を避ける為に言えば、この時、婦人たちのおしゃべりが過ぎたようです。続いて彼は「神の言葉はあなたがたから出て来たのでしょうか。あるいは、あなたがたにだけ来たのでしょうか。」(Ⅰコリント14:36)と言うのです。
聖書は当時の聞き手や読み手が理解し易い表現で真理を伝えています。そしてその真理は、時間も空間も文化的な背景も全く異なる今日の私たちにとっても真理なのですが、正しく理解するには現代における読み直しが求められます。これが説教の大切な役目の一つなのです。
もとに戻りましょう。男性優位社会の中にあってなお、聖書が語る女性たちの信仰に裏付けられた気概は、現代に生きる私たちが出会う様々な状況にあってもなお、多くのことを教えてくれます。主に従って生きる豊かさを示してくれます。
しかし、先ほど読んでいただいた士師記に女性は登場しませんでした。名前が記されているのは古代イスラエルの士師、サムソン一人です。実はこのシリーズで男性が主人公になった回が2度ありました。主イエスの母マリアの夫ヨセフと、ミリアムの弟モーセです。彼らの信仰も私たちを真理に導いてくれます。男女共同参画時代に相応しいのです。
本日、登場する女性はデリラですが、「サムソンとデリラの物語」は多くの芸術家が取り上げている劇的な物語です。しかし、まずは旧約聖書士師記についての紹介から始めたいと思います。士師記はヨシュア記の後に置かれています。モーセに導かれてエジプトでの奴隷生活から脱出したイスラエルの人々は、荒れ野を40年に渡りさ迷い歩きかみさまから信仰の訓練を受けました。しかし、約束されたカナンの地を目前にして、モーセは天に召され、新しいリーダー・ヨシュアに導かれてイスラエルの12部族はカナンの地へと入って行ったのです。紀元前1200年頃だと言われています。カナンは彼らの祖先がエジプトに移住する前に住んでいた土地でしたが、戻ってみると、そこには他の多くの民族が暮らしていたのです。ですからこの地に入っていくことも、そこでの生活も決して平穏なものではありません。
ヨシュアの一番の心配事は、イスラエルの人々が周りの国の神々に仕える様になることだったのです。しかし、ヨシュアがどの神に仕えるのかを選ぶように促すと 民は答えた。「主を捨てて、ほかの神々に仕えることなど、するはずがありません。わたしたちも主に仕えます。この方こそ、わたしたちの神です。わたしたちは主を礼拝します。」この様に誓ったのです。(ヨシュア記22:16,18)
やがてヨシュアも神様の御許へと召されました。当時のイスラエル12部族は部族ごとに割り当てられた土地に住み、士師と呼ばれるのリーダーのもとで暮らしていました。士師は、裁き司(つかさ)と呼ばれ、今の裁判官に当たりますが、部族を治める者でもありました。彼らにとって神様から与えられた律法が法律です。この様な12部族を結び付けていたのは、唯一の神、主を信じる信仰でした。士師記によれば、各部族が主なる神に忠実に暮らしている時には、神様の祝福を受けて平和と繁栄がもたらされたのですが、カナンの地の神々に心を奪われ主なる神を忘れた時に、神様は敵を送られたのです。
その結果、苦しみの中で立ち返って祈る祈りを聞かれた神様は、有能な士師を立てて敵を滅ぼされました。その後しばらくの間は、神様に忠実に過ごし平穏な恵みの日々が続いたのですが、有能な指導者が召されると再び神様の愛からはなれ、外敵に襲われ、神様に立ち返り有能な士師が登場しました。この様なことが数百年に渡って繰り返されたのです。
古代において、イスラエルはサムソンの時代だけでなくダビデ王の時代に至るまでペリシテ人に苦しめられ続けました。少年ダビデが石投げ器で倒した、あの巨人ゴリアトもペリシテ人です。士師の時代には大きな変化が起きていました。青銅器時代から鉄器時代への変化です。その上イスラエルに迫って来る外敵は、王によって訓練された常備軍を持ち戦車もあったそうです。これはサムソンの次の時代になるのですが、ただ一人の神を王として、その神に仕えることでまとまっていたイスラエルの部族連合は、自分たちにもこの世の王が欲しいと願うようになり、そして立てられたのがサウル王であり、ダビデ王へと続きました。
旧約聖書士師記に戻り、サムソンの物語を追って行きましょう。13章から16章が彼について語っています。13章では、長い間子供が与えられるようにと祈り求めて来た夫婦の許に、主のみ使いが現れ子供の誕生を告げました。そこで両親は、生まれる前のサムソンをナジル人として神様に献げられたのです。ナジル人は、本来男女を問わず自分の意志で神様に仕えた者たちで、後の修道士や修道女に似ているのですが、ナジル人として仕える期間は限られていました。その間、献身の印として律法の他に守るべき3つの戒律がありました。ブドウは生(なま)であれ、ぶどう酒であれ遠ざける。頭に剃刀(かみそり)を当ててはならない。そして死体に近づいてはならないでした。この3つです。(民数記6章)
サムソンは生まれる前から神様に献げられ、生涯ナジル人として過ごす務めを負っていたのです。14章は成人したサムソンです。彼はナジル人ですから当然律法に忠実でなければならないのですが、自由奔放に生きていたようです。 まず彼は、両親の反対を押し切ってペリシテ人を妻に迎えました。異邦人、即ち主なる神以外の神々に仕える者との結婚を律法は禁じています。その後、この妻を取り上げられたばかりか、彼女とその父はペリシテ人に殺されてしまいました。怒り狂った彼はペリシテ人1000人を打ち殺したとあります。律法には“汝、殺すなかれ”とあるのにです。そんな彼は怪力の持ち主で、襲ってきた獅子を手で裂いたとありますし、ある時はペリシテ人につかまり縛られてしまったのですが、いとも簡単に縄を断ち切ってしまったのです。
ここで注目すべきことは、彼が怪力を発揮した時には「主の霊が激しく彼に降り」と記されていることです。自由奔放に生きるサムソンですが神様は彼を用いられたのです。士師記15章20節。 彼はペリシテ人の時代に、二十年間、士師としてイスラエルを裁いた。続く16章は、またしても彼の自由奔放な放蕩生活です。16:1 サムソンはガザに行き、一人の遊女がいるのを見て、彼女のもとに入った。2 ガザの人々は、「サムソンが来た」との知らせを受けると、一晩中彼を取り囲み、町の門で待ち伏せ、「夜明けまで待って、彼を殺してしまおう」と言って、一晩中声をひそめていた。3 サムソンは夜中まで寝ていたが、夜中に起きて、町の門の扉と両脇の門柱をつかみ、かんぬきもろとも引き抜いて、肩に担い、ヘブロンを望む山の上に運び上げた。4 その後、彼はソレクの谷にいるデリラという女を愛するようになった。5 ペリシテ人の領主たちは彼女のところに上って来て言った。「サムソンをうまく言いくるめて、その怪力がどこに秘められているのか、どうすれば彼を打ち負かし、縛り上げて苦しめることができるのか、探ってくれ。そうすれば、我々は一人一人お前に銀千百枚を与えよう。」6 デリラはサムソンに言った。「あなたの怪力がどこに秘められているのか、教えてください。あなたを縛り上げて苦しめるにはどうすればいいのでしょう。」 
この説教シリーズでは主に聖書に登場する女性をとりあげていますから、このデリラをヒロインとしたいのですが、サムソンをお金でペリシテ人に売り渡した彼女はチョット無理です。本日の説教題を「愛には偽りがあってはいけません」としました。もっとも、主イエスを売り渡したイスカリオテのユダを「神様のご計画に忠実だった」と言って、褒め称える向きがあります。それならば、人類初の罪を犯したアダムとエバ。人類初の殺人犯カインなども。さらに、悪魔ですらも褒めたたえるべきでしょう。主イエスを試みることで、罪の誘惑に打ち勝つ力ある方だと明らかにしたからです。
デリラではなくてサムソンに注目して物語を読み進めましょう。怪力の秘密を教える様にしつこく求めるデリラにサムソンは根負けしてついに明かしてしまいました。16章18節19節。16:18 デリラは、彼が心の中を一切打ち明けたことを見て取り、ペリシテ人の領主たちに使いをやり、「上って来てください。今度こそ、彼は心の中を一切打ち明けました」と言わせた。ペリシテ人の領主たちは銀を携えて彼女のところに来た。19 彼女は膝を枕にサムソンを眠らせ、人を呼んで、彼の髪の毛七房をそらせた。彼女はこうして彼を抑え始め、彼の力は抜けた。 ナジル人特有の戒律、髪の毛をそらないことが、サムソンの怪力の秘密でした。彼を逮捕したペリシテ人は目をえぐり、足枷をはめて牢屋の中で粉を引かせたのです。そんなある日ペリシテ人は祝宴を開き、その場にサムソンを牢屋から連れ出して見世物にして楽しみました。27節以下です。建物の中は男女でいっぱいであり、ペリシテの領主たちも皆、これに加わっていた。屋上にも三千人もの男女がいて、見せ物にされたサムソンを見ていた。28 サムソンは主に祈って言った。「わたしの神なる主よ。わたしを思い起こしてください。神よ、今一度だけわたしに力を与え、ペリシテ人に対してわたしの二つの目の復讐を一気にさせてください。」29 それからサムソンは、建物を支えている真ん中の二本を探りあて、一方に右手を、他方に左手をつけて柱にもたれかかった。30 そこでサムソンは、「わたしの命はペリシテ人と共に絶えればよい」と言って、力を込めて押した。建物は領主たちだけでなく、そこにいたすべての民の上に崩れ落ちた。彼がその死をもって殺した者は、生きている間に殺した者より多かった。 この時、そり落とされた彼の髪の毛は再び伸びてきていました。
実はこの士師記が伝えるサムソンの物語は、1000年以上後の主イエスの時代、ローマ帝国に支配されていたユダヤの人たちに、たいへん人気があったそうです。あのダビデ王の時代の繁栄を取り戻してくれる救い主を待ち望んでいた人たちにとっては、胸のすく物語だったのでしょう。
しかし、救い主として来られた主イエス・キリストはイスラエル民族再興のための救い主ではなかったこと、すべての人を神様の愛の下に招く方だったことを知る私たちです。自制心や献身の思いに欠けた主人公・サムソンの残念な復讐物語に思えるのではないでしょうか。 主イエスはおっしゃいました。「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。(マタイ福音書5:38) これは旧約聖書レビ記の言葉ですが、復讐を促すものではありません。つづいて24:19 人に傷害を加えた者は、それと同一の傷害を受けねばならない。20 骨折には骨折を、目には目を、歯には歯をもって人に与えたと同じ傷害を受けねばならない。(24:19,20) とあります。ですからこれは仕返しの基準ではなく償いの基準なのです。さらに主イエスはおっしゃいます。39 しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。 
私たちは次の言葉を聞くのです。「なぜなら、私がそうしたのだから!」私たちの罪を負って十字架に架ってくださった方の声です。 士師記16章28節。 サムソンは主に祈って言った。「わたしの神なる主よ。わたしを思い起こしてください。神よ、今一度だけわたしに力を与え、ペリシテ人に対してわたしの二つの目の復讐を一気にさせてください。」 主イエス・キリストが誕生される1000年以上前の時代です。サムソンが十字架と復活の出来事を知る由(よし)もありません。しかし、私たちは知っているのです。先ほど読んでいただいた使徒パウロが伝える神様のみ心です。ローマの信徒への手紙 12章19節。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。 旧約聖書申命記32章35節の言葉を引用しています。「波多野先生、これってサムソンが復讐したことと矛盾しませんか?」「大変良い質問です。確かにサムソンは復讐を遂げています。しかし、聖書をよく読んで見るとサムソンは主に祈って復讐を願っていますね。その願いを神様が聞き入れられたのです。ですから、おごるペリシテ人を討たれたのは主なる神がサムソンを用いて行われたのだ。この様に読むことができます。」「でも、それって3000年以上前の出来事のそうとう無理した解釈じゃないですか?」「確かにこの出来事だけを見ればその通りです。しかし、私たちは知っているんです。2000年前のイエス・キリストの十字架と復活の出来事です。」
実は、主イエス・キリストが私の、そしてあなたの罪を引き受けてくださったのと同じ様に、私たちの敵の罪をも引き受けてくださるのです。 主はおっしゃいます。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。(マタイ5:44) 多くの方が、苦手な人、いやな人、あるいは自分の敵のために祈るのは難しいとおっしゃいます。いつもお勧めしている祈りです。いやなヤツが波多野だとしましょう。敵対しているあなたと波多野は、三角形の底辺の角にいます。憎み合っているので遠く離れています。頂点は神様です。そこで祈るのです。「神様、あのイヤナ波多野が神様に近づく様にしてください。」 祈ったあなたも、祈られた波多野も三角形の斜辺をたどって神様に近づくことでしょう。その時お互いの距離も近づきます。本当に二人が一つになる。和解できるのは三角形の頂点にいらっしゃる神様の御許においてなのです。
そんな私たちにパウロは言います。ローマの信徒への手紙12章20節。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」 後半は「敵はあなたの示す愛に恥じて悔い改めにいたる」程の意味でしょう。(箴言52:22) 21節 悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。
本日お読みしたサムソンの物語は、欠けの多いサムソンをも神様が用いられたこと。罪多い者が神様に立ち返る時、力を与えてくださることを告げています。 私にはサムソンの様な怪力はありませんし、士師として人々を治める能力もありません。似ているところと言えば、神様を忘れて神様の愛から遠ざかってしまうこと、即ち「罪」を犯すことです。似ていないこと・違うことと言えば、主イエス・キリストを知っていることです。礼拝に於いて共にみ言葉を聞き、賛美し、祈り、献げ仕える兄弟姉妹を持っていることです。礼拝に出席できない時には祈り合う兄弟姉妹を持っていることです。そして、主イエス・キリストに従う時に永遠の命に与る、この希望に生きることです。
最後にデリラにもう一度登場願いましょう。彼女は救われたのでしょうか。救われなかったのでしょうか? 
実は、それは神様だけがお決めになることなのです。やがてやって来る終末の時に、私たちと同じように主イエス・キリスのみ前において裁きを受けることになっています。彼女がこの時までに、主イエスの愛を知り、主を受け入れることを願います。なぜならば、主なる神は全ての者が主の愛の中にあることを望んでいらっしゃるからです。私たちが主と共にある幸せな人生を歩む様に望んでいらっしゃるからです。もちろん、愛には偽りがあってはいけません。主の愛に偽りがないからです。祈りましょう。