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山形六日町教会

2021年10月3日

聖書:列王記上8章28~30節 マタイによる福音書6章9~13節
「だから、こう祈りなさい」波多野保夫牧師

2019年9月15日に始まったこの説教シリーズ「祈るときには」ですが、当初20回程度を予定したのですが、祈りの持つ豊かさから今回28回となりました。もちろん祈りは私たちの礼拝と、日々の生活の一部ですからこれからも折に触れ取り上げますが、説教シリーズとしては今回で区切りを付けたいと思います。調べてみますと第一回では「あなたがたが祈るときは」と言う説教題を掲げて「主の祈り」についてのみ言葉を聞きました。今回も同じマタイによる福音書6章9節以下のみ言葉から「主の祈り」についてのみ言葉を聞きたいと思います。この説教シリーズ「祈るときには」は「主の祈り」で始まり「主の祈り」で終わります。
本日はシリーズを通して聞いて来ました様々なテーマのうちから、「クリスチャンの祈り」「何を祈っても良いのか?」「祈りは聞かれるのか?」これらについて聖書から聞き直してみたいと思います。そして最後の主の祈りに帰ります。

最初に「クリスチャンの祈り」です。「神などいない」と考えている「無神論者」や、「神がいるかどうかは証明できない」と言う人たち、「不可知論者」と言うそうですが、こういう人たちは除くとしても、多くの人が自分たちの存在を越えたものに向かって思いを述べ実現を願って祈るそうです。無病息災と言うのは、もともとは仏教の言葉だそうですが、他にも家内安全、商売繁盛などがしばしば祈られます。これらはクリスチャンにとっても大切な願いでしょう。
自分たちの存在を越えたもの、あるいは超えた方に向かって思いを述べると言いました。「クリスチャン」にとって、それは天地を創造された主イエス・キリストの父なる神への祈りです。
神様との対話であり会話と言ったほうが正確です。神様と意思疎通をはかる、お互いの考えていることを話し理解する、これが私たちの祈りです。キリスト教では神様との関係を大切にします。友人、同僚、上司と部下、家族、兄弟姉妹、夫婦、この世の中には様々な関係がありますが、お互いに意思を通わせ理解を深めることで、関係の健全さを保つことが出来ます。教会もその例外ではありません。神様と私の関係、神様と私たちの関係、私と私たちの関係、これらが健全である時とところには、豊かな人生があります。そしてそれは「神と自分と隣人を愛する」人生に他なりません。
いつも申し上げているように、自分自身の身勝手さ、即ち「神と自分と隣人を愛する」ことから隔たたってしまうことが「罪」に他なりません。そして私たちが神様から離れ「罪」に陥ることを最高の喜びとする、それが悪魔でした。悪魔の誘いはいつも巧妙です。アダムとエバを蛇が誘惑した時です。神様はただ1本、「園の中央の木の実だけを食べてはいけない。食べると死ぬから。」とおっしゃったのですが、悪魔は「沢山、沢山ある木の中のたった一本、神様は本当にいけないとおっしゃったのか?」と問い、ちょっとした疑いの心を起こさせます。
そして「食べても決して死なない。食べれば神様に近づけるんだ、神様だってキット喜んでくださるに違いない。」悪魔の誘いはいつも巧妙です。私たちに「チョットだけなら大丈夫、みんなやってるじゃないか。」「一回チョット試してみるだけだから」。負けちゃいそうです。こんなのもあるかも知れません。「教会なんか行くと、あれしちゃいけない、これしちゃいけないって言われて、自由を取り上げられちゃうぞ! やめとけ、やめとけ!」悪魔の巧みな誘いに負けない方法があります。それは勝利者の子分になれば良いわけです。そして、その最良の方法は週ごとの礼拝に共に集うことです。
礼拝に於いて、さらに日々の生活において主を賛美し、聖書に親しみ祈ることです。いつも共にいてくださる方から目を離さないでいれば、自然に愛が芽生えます。三位一体の神、父なる神、御子イエス・キリスト、そして今も生きて働いてくださる聖霊。三位一体の神様との相思相愛の関係です。こんな私たちを一番嫌うのが悪魔です。つけ入る余地がほとんどなくなってしまうからです。ですから、イエス様に従って歩むことで私たちは本当の自由を得るのです。何しろ罪のない者と見なしていただいた上に、悪魔に勝った方がいつも共にいてくださるのです。クリスチャンの祈りは神様との対話です。お互いの考えていること、思っていることを知り合うことです。
「波多野先生、神様ってすべてをご存知の方だから、祈ろうが祈るまいが、私たちの考えていることをご存知じゃないんですか?」 良い質問です。その通りです。使徒言行録1章に、裏切り者のユダの代わりの使徒を選ぶ場面があります。使徒たちは次のように祈った。「すべての人の心をご存じである主よ、この二人のうちのどちらをお選びになったかを、お示しください。」(1:24)確かに神様は全てをご存知です。では、なぜ私たちの考えや思いを祈るのでしょうか? それは、私たちが自分の心をハッキリさせるためではないでしょうか。学校の先生の話ですが、「先生、ここが良く分からないのですが?」と聞いてくる生徒は良くできる生徒だそうです。「どこがわからないのかわからない。」私のような生徒には手を焼くそうです。
自分の本当の願いは何なのか? 祈ることで、私の願いを神様はどのように思われるのかと考えてみる機会が与えられるでしょう。これを繰り返すんです。「クリスチャンの祈り」は神様との対話なのです。

2番目は「何を祈っても良いのか?」です。最初に、「無病息災や家内安全・商売繁盛を自分の存在を越えた者に願い求める祈り」について申しました。この説教シリーズの中で、「何を祈ってもかまいません。こんなことを祈っちゃいけないと言った祈りの自主規制はいりません。」この様に申してきました。ですから当然「無病息災や家内安全・商売繁盛を自分の存在を越えた者に願い求めて」かまいません。主イエスはおっしゃいます。

信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。(マタイ21:22)あるいはわたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。(ヨハネ14:13,14)さらに、あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。(ヨハネ15:7)さらに詩編にはダビデ王の次の詩があります。 主よ、御名のゆえに、わたしに命を得させ 恵みの御業によって わたしの魂を災いから引き出してください。あなたの慈しみのゆえに、敵を絶やしてください。わたしの魂を苦しめる者を ことごとく滅ぼしてください。わたしはあなたの僕なのですから。(詩編143:11,12)ここの詩における敵は、ダビデ王に謀反を起こした三男のアブサロムの軍勢だと言われています。敵を滅ぼしつくしてくださいとの祈りです。こんな祈りもアリです。
先日読んだ本に、18世紀にイギリスのジョン・ワードと言う貴族の祈りが載っていました。あまりお勧めできない祈りなのですが、紹介しましょう。
【 神様、あなたは私がロンドン市内に九つの屋敷を所有していることに加えて最近エセックス州に領地を購入したことをご存知です。どうかエセックス州と私の住んでいるミドルセックス州、さらにロンドン市内を火事や地震からお守りください。ハートフォードシヤー州には担保として取っている土地がありますから、この州にもあなたの憐れみの目を向けてください。それ以外の地域については、あなたのお望みのように扱ってくださいますように。神様、銀行の手形をすべて換金できますように。私に借金している人が皆、善人でありますように。客船マーメイド号が、どうぞ無事に航海を終えて帰港できますように。なぜなら、私がこの船の保険の元受けだからです。また、神様、あなたは聖書を通して「悪人は長生きできない、幸福にはなれない」と語られますが(コヘレト8:13)、その約束通りにしてください。なぜなら、あの若い浪費家A氏の土地を、彼の死後受けとることができる契約で購入したからです。私の友人たちを乗せた客船が沈みませんように。また、私も泥棒や強盗に会うことがありませんように。私のすべての召使たちが皆正直で、忠実で、私の興味に気を配り、いついかなるときも私の所有物を横領するようなことがありませんように。アーメン 】
いかがでしょうか? このジョン・ワードさんがその後どうなったかは書かれていませんでしたが、「自己中心」満載の祈りです。しかし、何回か読んでみるうちに、私の祈りに似たところが結構あるなと思いました。
2番目は「何を祈っても良いのか?」でした。何を祈っても良いのです。ただし、公同の祈り、例えば礼拝の司式者の祈りの様に、皆で心を合わせて祈る場合には配慮が必要です。しかし、個人の祈りでは素直に心の内を申し上げれば良いのです。このジョン・ワードさん、たいへん素直な方だったのでしょう。祈りの自主規制は必要ありません。但し、一つだけルールがあります。それは、神様からいただいた返事に対して素直であることです。 「波多野先生、でもイエス様は「やもめと不正な裁判官のたとえ」(ルカ18:1-8)で、しつこく祈る様におっしゃったんじゃないですか?」「よく聖書を読んでますね。確かに不正な裁判官でもしつこく求めれば裁きを行ってくれるでしょう。しかし、裁判を求めたこのやもめは判決が自分の思い通りであろうがなかろうが、それに従わなければならないんです。「色よい判決を出してくれるまで叫び続けなさい」この様にはおっしゃっていないのです。神様からいただいた答えには素直に従うのです。
第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディーは、尊敬する日本人は?と問われて、即座に上杉鷹山(ようざん)を挙げたそうです。そして鷹山(ようざん)の影響を受けたと言われるのが、1961年1月20日の大統領就任式での演説の次の部分です。「国があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたが国のために何ができるかを問おうではないか!」 私はこの演説の「国」を「神の国」と置き換えたいと思っています。「神の国があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたが神の国のために何ができるかを問おうではないか!」 そんな生き方の中での祈り、ステキだと思いませんか、いかがでしょう?

3番目「祈りは答えられるか?」です。これは何度も申し上げてきました。私たちの祈りを通しての願いに対して、必ず答えてくださいます。ふたつの「はい」、ふたつの「いいえ」です。 “いいえ、あなたの恵みは十分だ。”“いいえ、今はその時ではない。”そして“はい、ヤット祈ったね。前から分かっていたよ、かなえてあげよう。”“はい、わかった。しかし、あなたが願ったよりももっと良いものをあげよう。”この4つの答えのいずれかです。ただし、声が小さくてとか、周りの騒音で聞き取りにくい場合があります。耳を澄ますことはもちろんですが、補聴器を用いるのも手です。祈りの補聴器、それは信仰の友であり、長老さんや牧師です。一緒に祈ってもらうのです。

さて、「主の祈り」です。マタイ福音書6章によれば、偽善者は人に褒められようとして祈り、異邦人は、言葉数が大ければ聞き入れられると思って祈る。そして8節 彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。 すでに申し上げました、すべてご存知の神様になお、私たちは祈るのです。くどくど祈る必要は全くありません。心を神様に向けて祈れば良いのです。
この説教シリーズ「祈るときには」を通して、私たちの祈りの中身は、賛美、罪の告白とその赦しを求める、感謝、そしてお願い、だと言って来ました。賛美あるいは頌栄の他に「ごめんなさい」「ありがとうございます」「お願いします」だと言って来ました。それではどの様に祈れば良いのでしょうか? 主イエスが教えてくださった祈りです。「主の祈り」と呼ばれます。
マタイ福音書6章9節 を私たちの「主の祈り」の言葉で読んでいきましょう。「天にまします我らの父よ。願わくは御名(みな)をあがめさせたまえ。」 全知全能の神様を親しく父と呼びかけることが出来る感謝の気持ちで祈り始めます。そして神様が崇められますように、すべての人があなたを聖なる方として敬い従う者でありますように祈ります。「御国(みくに)を来たらせたまえ。」神様のお考え、全ての者を愛してくださり、愛された者同士も愛し合う「天の国」、あるいは「神の国」を私たちの所に実現させてください。聖書によれば、「神の国」が完全に地上にやって来るのは終末の時、主イエス・キリストが再び地上に来て裁きを行い、悪あるいは悪魔を滅ぼされる時です。クリスチャンにとっての希望の時が終末です。しかし、すでに「神の国」のひな型がこの地球上にあります。教会です。なぜなら教会は主イエス・キリストの愛を知っているからです。神様のご計画を知っているからです。ですからこの祈りを真剣に祈ることはまた、私たちの伝道の思いを確かにさせます。
主の十字架と復活の時から今日までに終末、すなわち裁きの時がやってこなかった理由をペトロの手紙Ⅱは告げています。3章8節9節。3:8 愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。:9 ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。
御国の到来は裁きの時でもあります。多くの人が救われるようにと終末の時を先延ばししてくださっている神様に対して、「御国が来ますように」と祈る私たちです。多くの人が、主の福音を知り主の福音に生きる様にと祈り行動するのが自然です。
「我らの日用(にちよう)の糧(かて)を今日も与えたまえ。」 主イエスは『人はパンだけで生きるものではない。神の口からでる一つ一つの言葉で生きる』と言って悪魔の誘惑を退けられました。(マタイ4:4)私たちの心と体を養ってくださる様に祈るのです。
「我らに罪を犯すものを我らが赦(ゆる)すごとく、我らの罪をも赦したまえ。」この部分に来ると黙ってしまう長老さんの話をしました。大変誠実な方ですから、「自分の赦すことへの不完全さを思うととても声に出して祈れない」と言うわけです。しかし、声に出して祈る必要があります。そして、恥ずかしさを感じるのです。その時に、十字架で血を流してくださる主イエスの姿を思い出すのです。私の罪を負ってくださっての十字架だからです。ではなぜ、今さら「我らの罪をも赦したまえ。」と祈るのでしょうか? 確かにキリストに従う者は、罪が赦され永遠の命が約束されています。しかし、悪魔の誘惑にさらされていることに変わりはありません。
ですから「我らを試(こころ)みにあわせず、悪より救いいだしたまえ。」と祈ることは、主の愛から目を反らさないで歩む勇気と力を祈り求めるのです。罪を悔いると同時に、主の愛に感謝し、主に従う喜びを感じるのです。 
最後に頌栄が続いて祈りを閉じます。「国と力と栄えとは、限りなく汝(なんじ)のものなればなり。アーメン。」これは主の教えにはありません。歴史の中で教会が形を整えて行ったすばらしい頌栄の言葉なのです。

祈りの要素は、賛美と「ごめんなさい」「ありがとうございます」「お願いします」この様に申し上げました。主の祈りから学んだのです。繰り返します。祈りは神様との信頼関係を築き成長させるために不可欠です。私たちの信仰の成長に必要なだけではありません。信仰が弱った時には立ち直るために不可欠です。霊的な渇きを満たしてくれます。さらに、困っている方に愛を届ける時も祈りから出発します。福音の伝道も祈りから始まるのです。祈りを欠いた私たちの良い業は自己中心と隣り合わせで、悪魔はほくそ笑むことでしょう。主イエスはしばしば静かな場所に退いて祈られました。私たちも祈りの生活によって神様との関係をしっかりと築き、豊かな人生を歩みたいと思います。 ご一緒に祈りましょう。