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山形六日町教会

2021年9月26日

聖書:詩編118編22~25節 ペトロの手紙Ⅰ2章3~10節
「慈しみはとこしえに」波多野保夫牧師

この説教シリーズ「あなたへの手紙」では、新約聖書にあります多くの手紙を読んでいます。シリーズ7回目になりますが、前々回、8月22日からペトロの手紙Ⅰを読み進めています。 手紙ですから当然書き手と読み手がいます。1章1節によれば、イエス・キリストの使徒ペトロから、現在のトルコに位置する小アジア地方に住むクリスチャンに宛てた手紙となりますが、手紙を書いたのがペトロ自身なのか、それともペトロの伝えた主の福音に生きる伝道者なのか、聖書神学者たちの間で議論がありますが、聖霊の働きによって新約聖書に編纂された時点で、様々な苦しみの中にあった人たちを励まし勇気を持って主イエス・キリストへの信仰に生きることを促す神のことばなのです。
1章8節。 あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。これってまさに私たちです。現在、コロナと言う重荷だけではなく、会員の減少と高齢化の重荷を負う、日本の教会であり山形六日町教会です。また私たち一人一人にもそれぞれの課題があることでしょう。しかし、私たちはキリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じています。そして、どんな時にあっても主が共にいて下さり、愛し続けてくださる。この事実に気が付くことで 言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれるのです。ですから、この手紙は2000年前の小アジア地方に住むクリスチャン宛に送られたのと同時に、2021年の私たちに宛てて書かれ送られているのです。聖書は時と空間を越えて神様の愛と真理を伝えてくれるのです。

さて本日与えられました2章3節以下で、ペトロは あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。この様に語り始めますが、小アジア地方の人々が具体的にどの様な出来事を通して 主が恵み深い方だということを味わったのかは語っていません。ローマ帝国の支配下にあった地域に住むクリスチャンが、ユダヤ教徒との軋轢を含めて、しばしば困難な状況に置かれたことは想像に難くありません。この手紙を受け取る私たちです。現在のコロナ禍に限らず、様々な困難や苦しみを経験なさったことでしょう。しかし、その困難や苦しみに勝って主が恵み深い方だということを味わったことでしょう。その恵みを思い起してください。そして、今も重荷を負っていらっしゃるのであればペトロの言葉を聞いてください。
2章4節。この主のもとに来なさい。ペトロは、この様にすべての者を主の礼拝へと招いています。出席が叶わない時には、礼拝の時を覚えて祈る私たちに勧めるのです。2章10節。 あなたがたは、「かつては神の民ではなかったが、 今は神の民であり、 憐れみを受けなかったが、 今は憐れみを受けている」のです。これが本日の結論です。ペトロは、主イエス・キリストがどの様な方なのか。その方のもとへと呼び集めていただいた私たちは、どの様にして主に従って行くのか。4節から9節にかけて述べています。ここで注目したい言葉があります。
4節「尊い、生きた石」6節「選ばれた尊いかなめ石」7節「隅の親石」です。そしてこれと対照的に7節に「捨てた石」8節「つまずきの石、妨げの岩」この様にあります。ここで言われている石や岩ですが、石と言えば変わらないもののたとえでしょう。何がたとえられているのか察しが付きます。聖書は イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。(ヘブル人への手紙13:8)と語っています。しかし、旧約聖書にも石にたとえる表現があります。イザヤ書28章16節 主なる神はこう言われる。「わたしは一つの石をシオンに据える。これは試みを経た石 堅く据えられた礎(いしずえ)の、貴い隅の石だ。信ずる者は慌(あわ)てることはない。」ペトロは2章6節で引用しています。イザヤの預言が主イエスに於いて実現したのです。ペトロは7節で「家を建てる者の捨てた石、 これが隅の親石となった」と言って、詩編118編を引用しています。
本日は詩編118編を丁寧に見ていきたいと思いますが、まずは詩編と詩編歌についてです。詩編はもともと神殿での礼拝において歌われたと言われています。旧約聖書には イスラエルの人々はこぞって喜びの叫びをあげ、角笛とラッパを吹き、シンバルを鳴らし、琴と竪琴を奏でて、主の契約の箱を運び上げた。(歴代誌上15:28)とか 彼らは大声で叫び、ラッパと角笛を吹いて主に誓った。(歴代誌下15:14) とあり、礼拝と音楽が密接だったことが分かります。賛美の歌は長いキリスト教の歴史にあって、喜びの時、苦しみの時、悲しみの時にあって私たちの思いを主に届けてくれるのです。もう少しキリスト教の歴史をたどってみます。
中世には和声用いず単旋律、無伴奏のグレゴリオ聖歌が確立されました。ミサにおいて訓練された聖歌隊がラテン語で歌ったのです。1517年に始まった宗教改革では、聖書のみ言葉を民衆に取り戻すことが大切な課題でした。ルターは民衆が自分たちの言葉で歌える多くの讃美歌を作詞作曲しました。讃美歌21にあります「神はわが砦」(377)が最も有名です。
改革長老教会神学の基を築いた宗教改革者カルヴァンは「詩編歌は私たちを励まして、心を神に向け、賛美をもって神の御名をあがめるようにと祈る熱意を駆り立てる」と述べています。
印刷術は既に発明されていましたが、聖書を手にして読める人が限られていた時代です。詩編歌は、福音説教と共に神様の言葉を伝えることが出来たのです。カルヴァンが編纂したジュネーブ詩編歌が有名ですが、この後ご一緒に賛美します讃美歌152番はまさに、この詩編118編を歌ったジュネーブ詩編歌です。心を込めて賛美したいと思います。
詩編118篇に戻りましょう。週報に記しましたのでご覧になってください。詩人は神様の御業を賛美することでこの詩を始めます。118:1 恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。2 イスラエルは言え。慈しみはとこしえに。3 アロンの家は言え。慈しみはとこしえに。4 主を畏れる人は言え。慈しみはとこしえに。そして、29節で 恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに と歌って詩を閉じています。1節と29節、最初と最後が共に 恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに となっていることに注目したいと思います。詩編118編は「変わることの無い主のいつくしみの賛美と感謝の詩」なのです。この詩人はイスラエルの王であり、この詩は神殿の祭儀で用いられたのだろうと言われています。古代において記録した文章が残るのは王や祭司、あるいは預言者に限られ庶民ではありません。
それでは私たちと関係ないではないか! そうではないのです。主の慈しみを受けることにおいては全く差がありません。ですからこの詩は、私たちの礼拝での賛美と同じです。慈しみはとこしえに と繰り返し神様を賛美することから始まりました。
5節から9節 118:5 苦難のはざまから主を呼び求めると 主は答えてわたしを解き放たれた。6 主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう。人間がわたしに何をなしえよう。7 主はわたしの味方、助けとなって わたしを憎む者らを支配させてくださる。8 人間に頼らず、主を避けどころとしよう。9 君侯に頼らず、主を避けどころとしよう。 この詩人はどうしようもない苦難を経験しました。その時、彼は救いを神に祈り求めたのです。その結果、苦難から解き放たれた、と歌います。本当に大きな恵みの体験をした彼は、主を避けどころとしよう。主を避けどころとしよう。と繰り返すのです。経験に裏付けられた賛美であり、感謝です。
皆さんはいかがでしょうか? 本当に深い苦難を経験されたことがおありでしょうか? その感じ方は人によって違います。この現代社会に生きていくこと自体大変なことですが、「耐えられないような苦しみは経験したことありません。」と言う方。大いに主に感謝してください。そして慈しみはとこしえに と賛美の言葉を語ってください。悲しみと辛さが極限に達した時の祈りです。十字架を前にした最後の晩餐の後、主イエスは使徒たちと共に 賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけました。そして 「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」 44 イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。(ルカ22:42,44) しかし、この祈りは聞かれませんでした。十字架での死と言う杯は取り去られませんでした。苦しみの大きさを比べることは意味ないのですが、多くの皆さんはここまでの体験はなさっていないことでしょう。もちろんこの詩人は十字架と復活の出来事を知りませんが、私たちは知っているのです。
続く10節から12節では、 主の御名によってわたしは必ず彼らを滅ぼす。この様に3回繰り返しますが、王に王国とその民のために強大な敵を滅ぼす力はありません。「彼らを退ける」「攻撃をしのぐ」この様に翻訳した聖書もありますが「主のみ名によって滅ぼす」とは、「主よ、攻め立てて来る彼らを打ち破る力を与えてください。」詩人はこの様に祈ったのです。 神は祈りを聞いてくださり、襲ってきた敵は去りました。詩人は賛美を歌います。118:13 激しく攻められて倒れそうになったわたしを 主は助けてくださった。14 主はわたしの砦、わたしの歌。主はわたしの救いとなってくださった。15 御救いを喜び歌う声が主に従う人の天幕に響く。主の右の手は御力を示す。16 主の右の手は高く上がり 主の右の手は御力を示す。 18節から21節も死を考えなければならないような状況から救い出してくださった主への賛美が続きます。
先ほど皆さんに苦難や悲しみの経験を尋ねました。祈りが聞かれて苦難が去った、問題が解決した。あるいは心の整理がついた。光が見えて来た。そんな経験をきっとお持ちのことでしょう。 是非、この詩人の様に主の御業を賛美し、感謝を献げてください。そしてなすべきことがあります。17節です。死ぬことなく、生き長らえて 主の御業を語り伝えよう。 「死ぬことなく」は主に生かし用いていただいてと読み込むのが適切です。そして、主の御業を語り伝えるのです。
自分がいただいた恵みを感謝するだけではないのです。私にしてくださった御業、与えてくださった恵みを語り伝えるのです。なぜかと言えば、主の福音を伝える伝道にとって、あなたの証言程力強い言葉はないのからです。古くから「証し」と呼ばれますが、そもそも聖書は「証し」の書です。生きて働かれる聖霊をマタイやマルコやルカが、パウロやヨハネやペトロと彼らが属した教会が「証し」しているのです。牧師は様々な機会に聖書のみ言葉を解き明かして語ります。2000年の時を隔てた聖書の証言です。聖霊の助けを祈り求めて、説教を準備し語りますし、集会の時や様々な時に語ります。伝道のために用いていただけば、これは大きな喜びです。
ある牧師からアルコール中毒で苦しんだ方の話を聞きました。酒を断たなければいけない。このままでは自分はダメになってしまうと思うのですが気が付くとまた酔いつぶれている。こんな生活に陥っていました。彼は偶然出会った女性の祈りによって救われ、その後結婚に至ったのですが、ことの次第は話の中心ではないので省略します。二人で結婚式の打ち合わせに教会を尋ねた時の牧師の言葉です。「結婚式が終わって落ち着いたら礼拝の中で証しをしてください。」彼は「私なんかが」と断ったのですが、牧師は言いました。「あなたは確かに深い穴に落ちて長い間もがき苦しみましたね。実は同じ苦しみを味わっている人がいますし、若い人に警告もしたいんです。穴から這い上がったあなただからこそ、その暗さや辛さ、そしてどうすれば抜け出すことが出来るのか、そもそも穴がどこにあって落ちないに様にするにはどうすれば良いのか。それが語れるんです。」ある日の礼拝で彼は力強く主の御業を語り伝えました。それだけではありません、やがて彼は神学校に行って伝道者になったそうです。私に話してくれた牧師は言いました。「神様のご計画ってすごいですね!」皆さんが自分に働いてくださった聖霊の御業を語るのであれば、それは力ある証言です。主の福音をまだ知らない人にとって最高の証しになるだけではありません。すでに信仰を持ったものにとっても豊かな聖霊の働きを知るのは喜びです。様々な機会に、あなたの喜びと主の御業を語り伝えていただきたいと思います。
詩人は22節23節で その御業をなさった方、主がどの様な方なのかを語ります。家を建てる者の退けた石が 隅の親石となった。これは主の御業 わたしたちの目には驚くべきこと。  価値の無い者として退けられたのは、敵によって幾重にも包囲され激しく攻められて倒されそうになった王です。その無力な様に国民にも見捨てられました。まさにその時、この王は自分の犯した罪に気付いたのです。自分の弱さに気付いたのです。そして真心から神に祈りました。18節 主はわたしを厳しく懲らしめられたが 死に渡すことはなさらなかった。王の祈りは聞かれました。敵は退けられ、王は力を取り戻し、民衆の信頼を取り戻すことが出来たのです。 そして、王は民衆と共に主を賛美します。主がなさってくださったこと語り伝えるのです。118:24 今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。25 どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを。26 祝福あれ、主の御名によって来る人に。わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する。そして詩人は次のようにこの詩を閉じるのです。29 恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。
新約聖書ペトロの手紙Ⅰ に戻ります。2章6節以下です。2:6 聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、 シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。」7 従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、 「家を建てる者の捨てた石、 これが隅の親石となった」のであり、8 また、 「つまずきの石、 妨げの岩」なのです。 ペトロはイザヤの伝えた預言のことば、シオンに置かれた一つの石が主イエス・キリストだと自分の経験を通して正確に理解し証言しています。詩編118編が語る、家を建てる者、すなわちローマ帝国であり、イスラエルの指導者たちによって捨てられた石が、主イエス・キリストだと自分の経験を通して正確に理解しペトロは証言しています。

本日は様々なことを語りましたので、ペトロの手紙Ⅰ 2章9節10節によって全体のまとめをしましょう。  2:9 しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。 今、礼拝に招かれている私たちは、残念ながら日本においてほんのわずかな民です。しかし、主に愛されていることを知っている選ばれた民です。様々な恵み、生きて働かれる聖霊のなさったことを経験したことでしょう。様々な機会にその経験を語っていただきたいと思います。2:10 あなたがたは、 「かつては神の民ではなかったが、 今は神の民であり、 憐れみを受けなかったが、 今は憐れみを受けている」のです。
そしてペトロは言います。この主のもとに来なさい。なぜなら、主の慈しみ、主の愛はとこしえに変わることが無いからです。本日の説教題としました。祈りましょう。そして祈りに続いて、ジュネーブ詩編歌152番を賛美しましょう。