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山形六日町教会

2021年9月19日

聖書:エゼキエル書18章25~28節 マタイによる福音書21章28~32節
「考え直して」波多野保夫牧師

説教シリーズ「たとえて言えば」の9回目です。主イエスが語られた譬え話をご一緒に聞いていますが、2週間前の9月5日、第8回ではマタイ福音書20章1節以下の「ぶどう園の労働者のたとえ」を聞きました。朝6時ころから働いた者と夕方5時ころから働いた者がもらった賃金は同じ1デナリオンでした。朝から働いた人は当然不満に思ったのですが、主人は言うのです。20:14 自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。15 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』16 このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。私たちは「先にいる者」なのか「後にいる者」なのかをお尋ねしました。日本の人口の1%に満たないクリスチャンです。まだ洗礼を受けていらっしゃらない方だとしても、多くの人に先立って礼拝に招かれている私たちです。「先にいる者」に違いありません。しかし、教会に全く関心を示さない人、あるいは教会を毛嫌いする人が、私たちと同じであったり私たち以上に神様の恵みを受けている姿が目に留まることがあります。そんな時には、ねたむのではなく自分に与えられている恵みに目を向けて、神様を賛美する者でありたいと思います。
マタイ福音書が伝える主のみ言葉を一つお読みしましょう。5章44節以下です。 わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。45 あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。46 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。47 自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。48 だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。大変に難しいことです。しかし、ここには私たちを愛したくてしょうがない神様の姿が語られていますが、神様と同じように完全なものになれと言われます。これは不可能です。それでは無駄な挑戦をしろと話されたのでしょうか?そうではありません。主イエス・キリストに従う時に、私たちを完全な者、罪のない者と見なしてくださるのです。これが主の十字架の意味です。
さて、本日与えられましたマタイ福音書21章28節以下には「二人の息子」のたとえ、との小見出しが付けられています。二人の息子が父親からぶどう園に行って働く様に言われました。二人の息子の行動が語られます。
21章はその冒頭で、主イエスが過越しの祭りを前にした日曜日にエルサレムへ入城された様子を語ります。金曜日が十字架の日であり、次の日曜日が復活された日ですから、この時すでに宗教指導者たちとの関係は緊張の頂点にありました。しかし、神様のお考えをどうしてもわかって欲しい、真理に目覚めて悔い改めて欲しい。その強い思いで主イエスは理解しやすい譬えを語られたのです。
21章28節以下です。「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。29 兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。30 弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。31 この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」主イエスは問われます。皆さんは、ここに登場する兄なのか、それとも弟なのでしょうか? いかがでしょうか? 私は大体は弟の様に、色よい返事をするのですが、結局神様に従わない。だけどたまには、兄の様に反省して神様に従う。こんなような答えになってしまいます。
さて、28節は「ところで」と始まっています。何が「ところで」なのかを見ることから始めましょう。21章23節。 イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」エルサレム神殿の中で教えるには、宗教指導者たちから認められた資格が必要でした。ユダヤの宗教指導者たちとは、サドカイ派に属していた祭司長と、ファリサイ派の律法学者や民の長老たちで、彼らは最高法院に議席を持っていました。ローマは最高法院に司法・律法・行政の3権を与えて自治を認めていたのですが、ただ一つ死刑判決とその執行だけは出来なかったのです。ローマに味方する者を勝手に処刑してしまうことを避けるためでした。いずれにしろローマ帝国とその属国イスラエルは緊張関係にあったのです。宗教指導者たちは何としても、主を罠にかけようと思っていました。自分たちの絶対的な権威・権力を持ち続けるためです。
24節以下です。24 イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。25 ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」バプテスマのヨハネは「悔い改めよ、天の国は近づいた」と言って罪を悔い改めて神様に立ち返ることを求めました。その印としてヨルダン川で大勢のユダヤ人に水で洗礼を授けたのです。彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。26 『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。」バプテスマのヨハネは主イエスのために道を整える役目を担って、神様から遣わされた預言者です。旧約聖書が伝えるイザヤの預言が実現したのです。(マタイ3:3)宗教指導者たちもヨハネが神様から遣わされたことは知っていました。ファリサイ派やサドカイ派の人たちも大勢ヨハネの洗礼を受けにヨルダン川へと出かけて行ったのです。(マタイ3:7)しかし、何よりも恐れたことは、神様に従わないことが明らかになってしまい権威が失われることでした。そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。のです。「雄弁は銀 沈黙は金」と言いますし、旧約聖書箴言にも「口数が多ければ罪は避けえない。唇を制すれば成功する。」(10:19)とあります。宗教指導者たちは賢かったのです。しかし、それは真の賢さ、神様のみ心を知りそれを行う賢さではなかったのです。小賢(こざか)しいと言う言葉がピッタリします。27 そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスも言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」こんなやり取りがあったうえで、主は「ところで、」と言って譬えを語り始められたのです。
31節以降をお読みしましょう。21:31 この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。32 なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」最初に「いやだ」と言ったにもかかわらず、悔い改めてぶどう園に行った兄の方が、色よい返事をして裏切った弟よりも神様がお喜びになる。そのことは、すぐに分かります。あなたたちと言われている宗教指導者たちは最高法院の議員を務める、当時の第一級の知識人であり教養人でした。大変高価だった旧約聖書を自分で読むこともできたでしょう。一方の徴税人や娼婦たちは最も卑しい者、神様から最も遠い者とされていました。
最初にお読みしたマタイ福音書5章44節以下では、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。この様におっしゃったのですが、続いて46 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。あなた方が卑しい者たちだと言ってさげすんでいる徴税人だって、仲間内では助け合うんだ。普段から自分たちが神様に一番近いと思っているあなた方が、すべての人を愛するのでなければおかしいだろう。この様におっしゃったのです。そして「二人の息子」の譬えを用いて「あなた方が蔑(さげす)んでいる徴税人や娼婦たちだって、悔い改めて神様に立ち返れば、神様は喜んで受け入れてくさる方なのだ。だったら、自分たちこそ神様の愛を受けるにふさわしいと思っているあなた方がまずなすべきことは明らかではないか。悔い改めて神様に立ち返り神様を愛しなさい。すべての隣人を愛しなさい。」
この様に宗教指導者に語られたのですが、十字架を前にして彼らをどの様に見てらっしゃったのかが23章2節以下で語られています。 「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。 これはモーセが受けた恵みを受け継いでいることでしょう。3節。 だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。4 彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。5 そのすることは、すべて人に見せるためである。現代において牧師がまず聞かなければいけないみ言葉ですが、これは間もなく直接会うことのできなくなる、オオカミの様な宗教指導者たちの前に置かれた民衆への警告の言葉です。
マタイ福音書21章32節に戻りましょう。 32 なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」宗教指導者たちへの痛烈な批判です。いかがでしょうか。
ここでチョット横道にそれて、私たちが礼拝で用いています聖書について見たいと思います。現在は「新共同訳聖書」ですが、以前は「口語訳聖書」でした。実は一つの厄介な問題があるのです。それは、この二つの翻訳聖書で兄と弟が入れ替わっているのです。週報に両方の翻訳を並べて示しました。「口語訳聖書」では、悔い改めてブドウ園に行ったのは弟になっています。平たく言えば、弟が良い者(いいもの)と言うことになります。聖書には兄弟の話が沢山出てきますが、実はこの譬えで弟が良い者(いいもの)と言う方が他の聖書箇所とシックリいくのです。いくつかの例を挙げてみましょう。
放蕩息子の物語です。弟が父の財産を分けてもらって、よその国で放蕩生活を送ります。しかし、飢饉がやって来て食物が無くなった時に、それまでの行いを悔い改めて父のもとに帰りました。すると父は優しく迎え入れてくれました。しかし、その様子を見た兄は父の寛容さに怒りだしたのです。
エデンの園を追放されたアダムとエヴァの息子たち、兄カインと弟アベルです。弟アベルに嫉妬した兄カインは弟を殺してしまいました。人類初の殺人事件です。
アブラハムの孫、兄エサウと弟ヤコブ。兄エサウは空腹を満たすために祝福を弟ヤコブに渡してしまいました。
モーセと兄のアロンです。モーセがシナイ山で十戒を与えられた時、イスラエルの人々にせがまれて金の子牛を作ったのはアロンでした。
代表的な4組の兄弟を挙げましたが、兄に比べて弟が良い者(いいもの)として描かれています。そのわけは「兄の方が神様の愛を知る機会が多くあったのに。」と言ったことなのでしょうか。今日の譬えは、「口語訳聖書」に従えば、早くから神様の愛を知っていたはずの宗教指導者たちは、早くから神様に招かれているのに悔い改めない「兄」。反対に神様から最も遠いと考えられていた徴税人や娼婦は、悔い改めた「弟」に相当してピッタリします。どちらが正しいのでしょうか。実はこの違いは翻訳のもとになったギリシャ語の写本、底本と呼ばれますが、この底本の違いに依るのです。
何代にもわたって書き写された写本が多く残されていますが原典は残っていません。膨大な資料から原典はどうだったのかを探る地道な研究が聖書学者たちによってなされており、その最新の研究成果を用いたのがこの「新共同訳聖書」なのです。ある時代に聖書を書き写した人が、宗教指導者たちは兄に違い無いし、彼らは主を十字架に送った悪い者たちだ。この様な先入観から写し間違えたのでしょう。弟や妹のいる男性の皆さん、安心してください。多くの聖書箇所と違って、イエス様は悔い改めたのは兄だとおっしゃっているのです。緊迫した日々の中で、自分を追い詰める宗教指導者たちは、早くから神様の愛を知る兄でありながら、悔い改めて「神様と隣人を愛する」ことのない者たちでした。この者たちを「口語訳聖書」の底本の様に、ダメな兄と表現なさったのではなく、その逆なのです。なぜでしょうか?
21章31節にヒントがあります。 この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。悔い改めた者たちが先になる。十字架の上で主が自分の罪を悔い改めた強盗に向かって言われた言葉が響きます。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
最初に「皆さんは、ここに登場する兄なのか、それとも弟なのでしょうか?」と尋ねました。私は「大体は弟の様に、色よい返事をするのですが、結局神様に従わない。だけどたまには、兄の様に反省して神様に従う。」この様に答えました。そんな「神様と自分と隣人を愛する」ことから隔たってしまう「罪人」の私も救われる。その望みがここにあるのです。なぜなら、神様に最も遠いと思われていた人も、悔い改めることで救われるからです。それだけではありません。主は自分を十字架に架けようとしている宗教指導者たちに向かって、「お前たちは神の国に決して入れないのだ!」とはおっしゃらないのです。裁いていないのです。たしかに、悔い改めた徴税人や娼婦たちが先でしょう。しかし、人類最大の犯罪、神の独り子を十字架に架けようとしている者たちに、「あなた方は私を十字架に架けるだろう。しかしいつかは考え直して私のもとに来なさい。早くからみ言葉が与えられているあなた方は本当は「兄」なのだから。」この様におっしゃるのです。
私たちは日本において本当に少ない礼拝に招かれている者です。その意味で私たちは「兄」です。豊かな礼拝に招かれている私たちは「兄」であり「先の者」です。しかし、この世のことに目を奪われたり自己中心になれば、これは口先ばかりで悔い改めない「弟」であり「後の者」です。残念ながらこの危険性を私たちは持っています。
先ほどあらためて「私は、大体は弟の様に、色よい返事をするのですが、結局神様に従わない。だけどたまには、兄の様に反省して神様に従う。」この様に申しました。そんな私ですが、気づきが与えられる度に、悔い改めて主にしたがう人生を歩むならば、神の国へと導いてくださるのです。そしてその気づきが与えられ、考え直すための最良の時、恵みの時が、この礼拝の時なのだと、いつも申し上げています。
ですから、いま後にいるのか、先にいるのかよりも大切なこと。それは主イエス・キリストを救い主として心の中にお迎えして、主と共に豊かな人生を歩むことです。これこそが主の福音です。みんなで一緒にぶどう園に行って、喜んで働きたいと思います。これこそが山形六日町教会の姿なのです。祈りましょう。