HOME » 山形六日町教会 » 説教集 » 2021年09月05日

山形六日町教会

2021年9月5日

聖書:創世記3章17~19節 マタイによる福音書20章10~16節
「最初に雇われた者」波多野保夫牧師

9月を迎えました。まだまだ暑い日が続いていますが、稲の黄金色が日々増している今日この頃です。実りの秋を迎えて、コロナ下ではありますが主の恵みを受けて、山形六日町教会も実りの季節を迎えたいと思います。

さて、マタイ福音書20章1節から16節までには「ぶどう園の労働者」のたとえ と小見出しが付けられており、最後の16節には 「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」とあります。この言葉を覚えて順に読んで行きましょう。20章1節。 天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。2 主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。
このマタイ福音書は13章以降で、イエス様は12回ほど「天の国」についてたとえを用いて語られています。30歳の時にバプテスマのヨハネから洗礼を受け、始められた宣教の第一声は「悔い改めよ。天の国は近づいた」でした。(マタイ4:17)十字架の死に至る3年半の間「神様の愛はみなさんの近くに来ている。だから罪を悔い改めて神様に立ち返って、幸せな人生を送りなさい。」 この様に言葉で教え、業(わざ)で示されたのです。
既に「種を蒔く人の譬え」「毒麦の譬え」「パン種の譬え」を聞き、前回は「仲間を赦さない家来の譬え」でした。莫大な借金を王様に帳消しにしてもらったにもかかわらず、自分が貸した50万円を厳しく取り立てた家来の譬えでした。主の祈り「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。」私たちがこの祈りをどのように祈るのかが問われます。
この様に、主は聞く者に身近な話題を用いて「天の国」の真理を語られました。パレスチナでは耕作に適した土地では麦が栽培されていましたし、草が生える荒れ地では羊が飼われていました。「わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。」(ヨハネ10:11)この主の言葉が思い起こされます。
岩の多い丘陵地の斜面では土壌は薄いのですが水はけが良いので、ブドウの栽培に適しています。「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。」(ヨハネ15:5)と言われました。最初の奇跡は水を高級なブドウ酒に変えられた奇跡でした。
この「ブドウ園の労働者」のたとえでも、身近なものを用いて真理を語られたのです。パレスチナのブドウの収穫期は9月です。10月からは雨期に入るのでそれまでにぶどう酒の仕込みを済ませなければなりません。幸いなことにこの状況は、ブドウ栽培の盛んな山形に重なります。ちなみに今日の日の出は5時11分、日の入りは6時4分だそうです。
この主人は夜が明けるとともに労働者が集まって来る「寄せ場」に出かけて行ったのです。1デナリオンは当時の平均的な一日の賃金です。山形の最低賃金が10月から793円になるそうですから7,000円位でしょう。
3節。 また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、4 『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。 9時ごろに寄せ場に行ってみると、まだ仕事が見つからないで立って話し込んでいる者たちがいました。『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と主人は言いました。人手が足りなかったのか、あるいは仕事が見つからない人とその家族のことを思ってなのか、聖書は主人が2度目に出かけて行った理由を語りません。
さらに12時ころと3時ころにも同じことが繰り返されました。6節です。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、7 彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。日暮れがまじかに迫った5時ごろです。寄せ場に一日中立ち続けてきた人々は、その日の糧に対する不安を覚えていたことでしょう。誰も雇ってくれなかったのです。主人がやって来て『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言ってくれました。しかし、3時までにやとわれた人たちと違って『ふさわしい賃金を払ってやろう』とは言ってくれません。それは当然です。今からブドウ園に行っても働けるのは1時間ほどなので、十分な賃金をもらうことなんか期待できません。家族の顔を思い浮かべながら、「一切れのパンがもらえればうれしい。」と思っていたのではないでしょうか。
20:8 夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。9 そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。 驚きの顔が嬉しさに変わっていったことでしょう。1時間ほどしか働いていないのに1日分の賃金を払ってもらえたのです。
当時、使用人や奴隷は主人の家族の一員として扱われていましたから、飢える心配はありませんでした。しかし、日雇い労働者の場合、その様な保証はありません。主人の寛大さに感謝して家路についたに違いないのです。 この様子を見ていた朝から働いた人たちも、暖かい気持ちで見ていたことでしょう。「ああ、あいつら雇ってもらえたんだ。しかもたった1時間働いただけで普通の一日分の賃金もらえたんだ。良かった、良かった。それにしてもこの主人はなんてすばらしい人なんだろう。俺たち日雇いの苦しみを分かってくれているんだ。」 この様に暖かい気持ちになって、彼らも幸せだったのです。
10節以下です。 10 最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。11 それで、受け取ると、主人に不平を言った。12 『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』
みなさん、この最初に雇われた人たちの気持ちが良く分かるのではないでしょうか? 彼らは一日中、しかも暑い真昼間も働き続けたのです。1時間働いた人が1デナリオンならば彼らは10デナリオン位、支払ってもらうのは当然です。最初に山形の最低賃金の話をしましたが、これは一時間当たりの賃金で、5時間ならその5倍。8時間ならば当然その8倍です。これは2000年前においても、現代においても変わりません。
13節以下です。 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』現代においても、双方が合意して1デナリオンで契約を結んでいたのならば、これは有効な契約です。契約書がない口約束であっても、1時間当たりの最低賃金を割り込まないのであれば有効な契約です。同一労働同一賃金が言われる昨今ですが、それをもとにこの主人が不正を働いたと訴えるのは難しいでしょう。それでも常識的には変な話であり、朝から働いた人に同情して、その不平に共感するのではないでしょうか。
20章1節に戻りましょう。主は「天の国は次の様にたとえられる。」と言ってこの譬えを語り始められました。ですからこれは「天の国」、神様の支配が完成した時であり場所での話です。そして「天の国」の先駆けとして地上に立てられている「教会」のあるべき姿なのです。古くから、主人が神様、朝早くから雇われたのが、ユダヤ人。中でも当時の宗教指導者であり政治的な権力をもったファリサイ派や律法学者そして祭司など最高法院の議員たち。夕方になって雇われたのは、嫌われ者の取税人、羊飼い、遊女たち、さらに異邦人たちを指すのだと言われて来ました。

それでは、私たちは何時に雇われたのでしょうか?キリスト教2000年の歴史にあって、プロテスタント教会は宗教改革以来500年、明治期に日本に伝えられて150年、山形六日町教会は130年程です。夕方の5時ではないでしょうが日も傾いた頃の様に思われます。
先ほど、「16節にある、このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。この言葉を覚えて順に読んで行きましょう。」と申しました。実はこれと同じ趣旨の言葉が直前の19章30節にもあります。「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」 こちらはたとえで語られたのではありません。金持ちの青年が訪ねて来て「先生、私は律法をしっかり守っています。永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」と尋ねたのに対して、「行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」この様に答えられました。金持ちの青年はこれを聞いて悲しみながら立ち去ったのです。その時ペトロは言いました。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」主の答えです。19章29節。 わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。そして30節です。 しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。
さあ、どうでしょうか?主のために犠牲を払った者は金持ちの青年と違って、主の愛の中を歩んでいく。生きる時も、さらに死んだ後も。ペトロに対して、そして私たちに向かって主は言われました。だとしたら私たちは「先の者、すなわち朝から働いた者」になります。なぜそんなことが言えるのでしょうか? 
先ほど、キリスト教2000年の歴史に於いて「後の者」だと申しましたが、2021年の日本においては「先の者」です。今クリスチャンが1%に満たない日本において、礼拝に呼び集めていただいた私たちは明らかに「先の者」です。私たちの行いをペトロと比べれば、多くの方は差があるでしょう。しかし、私たちが受けている恵みを比べればペトロと変わらないのです。ペトロが1デナリオンの恵みを受けているのであれば、私たちも1デナリオンの恵みを受けています。これは、主に従って恵みの日々を過ごすための「日ごとの糧」として十分な額です。
世間一般では、人の価値を地位、財産、名誉などではかる傾向があるのは事実ですが、神様の視点は全く違います。神様がダビデを王に選ばれた時の言葉を旧約聖書サムエル記上は伝えています。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(16:7) 外見のことが言われていますが、地位や財産や名誉も同じです。
主は私たちの心を見られます。信仰を見られるのです。そして豊かな恵みの許に置いてくださるのです。「波多野先生、でも外見を繕うことは出来るけど、心はそうはいきません。心を見られたらチョット困ります。」「そうですね、自己中心の心。「神様と自分と隣人を愛する」ことがおろそかになっている心。「罪」を見られたら困ってしまいます。」 でも、私たちが洗礼を授けていただくことは、その「罪」を主が担ってくださり、私たちを罪のない自由な者と見なしてくださることなんです。ここに最大の恵みがあるのです。
私たちの先輩たち、この山形六日町教会の先輩たちは多くをささげてきました。時間であり、労力であり、お金であり、そして何よりも祈りをささげてきました。祈りを共にする私たちも同じです。その結果130余年の山形六日町教会の歴史があり、会堂や教会墓地、千歳認稚園・千歳認定こども園の基(もとい)など多くのものが与えられています。私たちは今それらを主の御用の為に用いるのです。その諸先輩たちと私たちは、朝6時から働き1デナリオンを支払ってもらったのです。

暑い真夏の真昼間のぶどう園での長時間におよぶ仕事です。そんな時に、何であんなイイカゲンな人がチヤホヤされ、もてはやされたり出世していく、そんな姿が目に入ります。貧富の差が極端に拡大した今の世界に腹が立ちます。「神様、あなたは本当に公平な方なのですか?」 愚痴の一つも口をついて出ることは自然でしょう。残念なことですが、「願いが叶わない、自分の思い通りにいかない。」そういったことで聖書を読まなくなる、祈らなくなる、礼拝から遠ざかる。この様な方がいらっしゃるのも事実です。「先の者が後になる。」この可能性は、私たちみなが持っています。
「波多野先生、私は苦労することは厭(いとい)ません。だけど「骨折り損のくたびれもうけ」は嫌(いや)です。努力したことは正当に評価してもらいたいんです。イエス様が私たちを愛してくださっていることは信じていますから、洗礼を出来るだけ後で、死ぬ間際に受けたいと思うんです。」朝から働いた労働者は本当に「骨折り損のくたびれもうけ」だったのでしょうか? これがポイントです。
注目すべき二つの言葉があります。4節。『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』 神様は全ての労働者、神様の言葉に従ってブドウ園に行って働いたすべての労働者に「ふさわしい賃金」を払ってくださる方なのです。 
13節。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。』 不平を言う者に対して『友よ』と呼びかけて下さいます。主の言葉が思い起こされます。「もはや、わたしはあなたがたを僕(しもべ)とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」(ヨハネ15:15)
辛い真昼間のブドウ園での仕事、この時も友として見守ってくださっていました。いや、ヨナがそうだった様にブドウの葉で日陰を作ってくださっていたのではないでしょうか。
私たちの先輩たち、この山形六日町教会の先輩たちは多くを献げてきました。時間であり、労力であり、お金であり、そして何よりも祈りをささげてきました。祈りを共にする私たちも同じです。その結果130余年の山形六日町教会の歴史があり、会堂や教会墓地、千歳幼稚園・千歳認定こども園の基(もとい)など多くのものが与えられています。
この事実から読み解くとすれば、20章13節 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。14 自分の分を受け取って帰りなさい。』 これは私たちに対しての大いなる約束の言葉であり、恵みの言葉ではないでしょうか。『わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。』これが神様のみこころです。「み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。」と祈る私たちは、いただいている1デナリオンを、いまだ不安の中にある人たちに私たちが届けようではないですか。これが福音の伝道です。さらに「後にいる者が先になる。」この主の言葉は「先にいたのに後になってしまった者」に対しても真実です。『わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。』これが主イエス・キリストのみ心だからです。 祈りましょう。