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山形六日町教会

2021年8月29日

聖書:レビ記19章1~2節 ペトロの手紙Ⅰ1章13~21節
「聖なる者であれ」波多野保夫牧師

先週に続いてペトロの手紙Ⅰ を読み進めて行きますが、1章13節は、「だから」と始まっています。何だからなのでしょうか?実は新約聖書原典は全て古代ギリシャ語で書かれており、これを翻訳した聖書学者たちが、内容を読み取りやすいように、内容の切れ目ごとに小見出しを付け加えてくれました。聖書原典にはない言葉ですから、司式の長老さんには読んでいただかないのですが、その聖書箇所を良く要約してくれています。
先週お読みした3節以下には「生き生きとした希望」とあり、今日の13節以下には「聖なる生活をしよう」とあります。「生き生きとした希望」が与えられている私たちは「聖なる生活をしよう」それが一番幸せなことなんだ。第一、神様が喜んでくださる。この様な流れが読み取れます。
先週、神様の豊かな憐みによって新たに生まれた私たちとは、具体的には洗礼を授けられることだと申しました。まだ洗礼を受けていらっしゃらない方は、主と共に生きる新しい人生のすばらしさに目を向けていただきたいと申しました。新しく生まれた私たちは、イエス・キリストの復活によって、「生き生きとした希望」をもって歩むことが出来るからです。
今、世界の多くの方が味わっているコロナ禍だけではありません、私たちの人生にはそれぞれに重荷苦しみがあります。願った通りにことが進まないことが多くあります。しかし、聖書はキリストと共に歩む人生には最終的な勝利が約束されていると宣言するのです。
先週、説教の最後に1章8節9節をお読みしました。もう一度お読みしましょう。 あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。9 それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。確かに、私たちはキリストを見たことがないのに愛しています。その根拠は、まずイエス・キリストが私たちを愛してくださったからです。この事実からして、「ペトロの手紙」が実は私たちに向けて書かれ、そして語り掛けていることが分かります。
神様の恵みに満ちた贈り物によってイエス様がしてくださったこと、十字架の出来事と言う光の中で、私たちは喜びの人生を送ることが出来るのだ。だから、「聖なる生活をしよう」なのです。

本日は皆さんに4つの方向を向いていただきたいと思っています。前と後ろと上と下です。
まずは、13節です。1:13 だから、いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。ペトロは私たちが前、即ち未来を見つめる様に求めます。様々なことが見えるでしょうが、楽しいこと苦しいこともあるでしょう。死の時は必ずやって来ます。その前後は神様だけがご存知なのですが、そこには終末の日に必ず来て下さる主イエス・キリストが見えるはずです。終末の日のキーワードは「待ち望む」すなわち「希望」です。先週お読みした1章3節にある、キリストの復活によって私たちに与えられた「生き生きとした希望」は、終末の時に至るまで続く「希望」なのです。
14節。無知であったころの欲望に引きずられることなく とあります。ペトロは自分の後ろ、即ち過去を見なさいと言います。キリストを知る前の自分が見えます。「波多野先生、私は子供の頃から、千歳幼稚園、教会学校で育ってきたのでズーッと、イエス様に従ってきました。」こういう本当に幸せな方は、自分の後ろ、昨日の自分、一昨日の自分を見てください。そこには、自己中心であったり、隣人を愛することから隔たっていた自分がいると思います。「罪」です。
しかし、ペトロはそこに留まることを禁じます。キーワードは「罪」の反対、「聖なる」もしくは「神聖」としましょう。
下を見てください。山形六日町教会の床が見えますね。キーワードは「教会」です。ここが私たちの立ち位置です。
そして、もう一つ見つめる場所は「上」、聖なる神様のおられるところ「天」です。私たちには神様を「父」と呼ぶことが許されています。「主イエス・キリストの父なる神様」「在天の父なる神様」この様な呼びかけの言葉で祈り始めます。イエス様が教えてくれた主の祈り「天にまします、我らの父よ」。この言葉です。
しかし、次の事実をハッキリと覚えておく必要があります。天地を創造された全能の神様は、祈りを受け止めてくださる暖かい父であると同時に、厳しい裁判官なのです。終末の時に主イエスが再び地上に来られ、裁きによって、神様のみ心を実現されるからです。
15節から17節。15 召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。16 「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」と書いてあるからです。17 また、あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、「父」と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです。
「天」を見上げた時、私たちは「畏れ(恐れ)」を感じます。感じますと言うより感じるべきなのです。「畏れ(恐れ)」と言う言葉の意味ですが。辞書によれば ・怖がる、不安に思う と ・近づきがたいものとしてかしこみ敬う。 この二つの意味がありますが、私たちは両方を感じなければなりません。
自分の罪を自覚するほどに、裁きの怖さが感じられることでしょう。そして、そこにこそ十字架の恵みが光り輝くので、私たちは謙遜になって神様を敬うのです。
旧約聖書箴言は言います。主を畏ることは知恵の初め 聖なる方を知ることは分別の初め。
詩編は言います。主を畏れる人々の望みをかなえ 叫びを聞いて救ってくださいます。(145:19) 主が望まれるのは主を畏れる人 主の慈しみを待ち望む人。(147:11)
自分の後ろ、過去を見れば、「罪」が見えます。その時「罪」と正反対の所にいらっしゃる聖なる方のことが思われます。
上を見上げれば、私の父であり裁判官である神様がいらっしゃいます。「畏れ」を抱きます。
そして前を向いたとき、そこには「希望」があります。約束された主イエスの再臨を待ち望む「希望」です。
そして今、私たちの立ち位置は「教会」です。「教会」に呼び集められているのです。13節は、「いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。」と語ります。具体的にどの様にして待ち望むのでしょうか? 
物事に対応する際、特に強い敵に当たる際に「守り」と「攻め」の双方が大切です。まず「守り」ですが、ペトロは「身を慎んで」と言います。どうすれば良いのかは明らかでしょう。
何度もお話ししていますが、聖書には悪徳表があります。「こんなことは避けろ。決してあなたを幸せにしないことは分かっているだろう!」この様に言っています。5:19 肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、21 ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。 ガラテヤの信徒への手紙5章19節以下です。週報には十戒を記しました。後でお読みになってください。
次に「攻め」ですが、13節に いつでも心を引き締め とありますが、この言葉が積極的な「攻め」を意味しています。引き締めると翻訳されているアナゾサメノイと言うギリシャ語(`αναζωσαμενοι : anazosamenoi)には「帯に裾をからげる 」と言った意味があります。中東では暑さに対応するためでしょう。ローブの様な衣服なので活動的ではありません。尻っぱしょりをしてすぐに駆け出せるように準備をしておきなさいと言うのです。イエス・キリストが来てくださる終末に向けての準備です。
それでは、希望を持って終末に備える私たちはどうするのでしょうか?悪徳表に触れないように用心することは「守り」として当然ですが、それだけではありません。尻っぱしょりをしてどうするのでしょうか。 
主イエスの言葉にヒントがあります。 「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」(マタイ6:19-21) 自分の富をどこに置くのかが語られています。
ヨブが大いなる苦しみを味わった時です。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」 このような時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった。(ヨブ記1:21,22)ヨブの様な体験をしたときに、私はこの様に語ることはできないと思います。「試みにあわせず、悪より救い出したまえ」と祈るのです。
しかし、私たちはこの主のみ言葉をどの様に読み取れば良いのでしょうか? 大切なことは、価値観の転換、優先順位の変更です。恵みの一つである富を例にとれば、ため込むものではなく、神様が喜ばれる様に使うことが大切です。
先ほど悪徳表をお読みしましたが、続く「ガラテヤの信徒への手紙5章22節」以下は、善行表と呼ばれます。お読みします。5:22 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、23 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。24 キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。25 わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。26 うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。これが、尻っぱしょりをして、すぐに取り掛かる終末への備えです。
15節16節。あなたがたは聖なる者となりなさい。この後讃美歌351番「聖なる聖なる」を賛美します。3節は「聖なる 聖なる 聖なる主よ 暗黒はこの世をおおうとも、ただ神のみは 聖なるかた 愛と栄えに 満ちあふる。」この様に賛美しますが、これは三位一体の神様のことです。この方に愛されている私たちは本当に幸せなのですが、ペトロは「私たちが聖なる者」になりなさい。この様に告げるのです。「私は聖なる者です。」こう思う方は心の中で手を挙げてみてください。半分ぐらいまで手を上げるのも結構です。
あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。(マタイ5:48) とおっしゃった主は、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのですか? と問う金持ちの青年に答えられました。 「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従がいなさい。」(マタイ19:21)主は、富に対する執着心について分かり易く語られたのですが、これは「神と自分と隣人を愛する」ことのほんの一部分です。しかし、私はこの主の言葉に対してだけでも、残念ながら「自分は聖なる者だ」と手を挙げることは出来ません。
ところで、自分の過去を見た時に見えてくる 無知であったころの欲望に引きずられるむなしい生活。 をペトロは問題にしますが、自分が頑張ったこと、あるいはチョットはいいやつだなと、自分を褒めてあげたいこともあるのではないでしょうか? 親・夫婦・子供・兄弟あるいは周囲の人のために献身的に働いた。なかなか出来ることではありません。職務を忠実に果たしたこと。その為にケガをしたり命を落とした方もいらっしゃいます。敬意を表したいと思います。一生懸命勉強をしたり、毎日の勤務を誠実に果たしている。素晴らしいことです。もちろん教会の為に祈り奉仕し献さげている。大きな喜びです。天に宝を積むことにつながります。
これらのことを考えると、決して私たちの過去の日々は、むなしい生活ではなかったと思えるのですが、ペトロは先祖伝来のむなしい生活といいます。
なぜでしょうか? それは、ペトロが私たちの存在の根源であり、命の根源にかかわる「罪」を問題にするからです。なぜ、彼はそんなに厳しいことを言うのでしょうか? それは神様が厳しいことをおっしゃるからに他なりません。「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」
上を見あげれば、そこには天地を創造された神とその右に主イエス・キリストさらに聖霊が見えます。三位一体の聖なる神です。私たちが上を見上げる時と場所ですが、もちろん聖書に親しみ祈る時に神様に近づきます。正確に言えば、いつも近くにいてくださる方に気づきます。恵みであると同時に大切なことです。しかし、最もふさわしい時と場所。それは日曜日ごとに教会で持たれる、この礼拝です。
長年連れ添った夫婦は似てくるとか、。ワンちゃんと飼い主、どちらがどちらへだかは定かでないのですが、やはり似てくると言われます。その理由は単純です。慈しみ愛し合って、共に多くの時間を過ごすからです。私たちが「聖なる者になる」と言うことは「聖なる方に似る」ことであり、もともと神様の似姿に創造されたにもかかわらず、「罪」によって聖なる本質を失っている私たちが、「聖なる方に似る」のだとすれば、その方法はただ一つです。
神様は既に十分に愛してくださっているのですから、共にいる時間を増やすこと以外にありません。私は「礼拝を休んではいけません。」と申し上げる代わりに「礼拝を休むと損ですよ。」この様に申し上げています。私たちの立ち位置は「教会」なのです。「礼拝」なのです。イエス様が共にいてくださることを一番強く感じることが出来る場所。慰めと勇気を与えられる場所、それが教会であり、その時間が礼拝の時なのです。こうして共に集い礼拝を守る私たち一人一人が主に似てくるのですから、お互いも似てくるのです。これが主にある兄弟姉妹であり、主の家族と呼ばれる所以です。私たちの立ち位置は「主の教会」なのです。

さて、耳障りの良いことではないのであまり語られないのですが、触れておかなければいけないことが一つあります。「裁き」です。先ほど「父なる神」と呼びかける方は、大きな愛を注いでくださる父であると同時に、裁きをなさる方、裁判官だと申しました。前を向いた際に見える、終末の時は希望の時なのですが、その理由は終末に於いて「裁き」がなされるからです。聖書によれば、すべての人、すでに亡くなった人も含めてこの裁きを受けなければいけません。そこで悪が裁かれ、神様のみ心が100%実現する、即ち「神の国」がやって来ることが約束されているから、この終末の時は、キリストに従う私たちにとって究極の「希望」の時なのです。
しかし、2つの質問が湧いてくるのではないでしょうか? 一つはなぜ、クリスチャンにとって終末が喜びの時、希望の時なのか? もう一つは信仰を持たないで亡くなった方はどうなのか? この2つでしょう。
2番目の方から始めましょう。二つの可能性があります。十字架に架かり墓に葬られた主イエス・キリストは、復活なさるまでの3日間、陰府に降ったと使徒信条は告白しています。この3日間、信仰を持たずに亡くなった方に伝道されたと言われています。ここで主に従うことを決断した方がいらっしゃるでしょう。もう一つは私たちの祈りです。神様が一番良い道を備えてくださることでしょう。これら二つの可能性は、共に私たちに与えられているのと同じ恵みに加えられる希望を言い表しています。
それでは私たちです。神様は聖なる聖なる方ですから、罪に対しては大変厳しい方です。先ほどお読みした悪徳表にあるようなことが人を幸せにすることは絶対にないからです。「神と自分と隣人を愛する」ことから距離がある、それが罪です。ここでもまた繰り返しましょう。「神と自分と隣人を愛する」ことから離れているのだとすれば、それは罪に支配されているのであって、人を幸せにすることは絶対にないのです。私たちを愛するが故に罪に対して厳しいのです。神様は愛に満ちた父であると同時に愛に満ちた厳しい裁判官です。先ほど「恐れる」と言う言葉の意味を紹介しました。「・怖がる不安に思う。 と ・近づきがたいものとしてかしこみ敬う。」でした。ですから私たちは神様を恐れる、罪の追及の厳しさに震えあがるのです。自分の罪を自覚するほどに、裁きの怖さが感じられるからです。
しかし、そこで終わりではありません。恐れを覚えるほどに、十字架の恵みが光り輝くので、私たちは謙遜になって神様を敬うのです。
パウロは言いました。 罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。(ローマの信徒への手紙5:20)
そしてペトロは今日私たちに告げるのです。1:18 知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、19 きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。 
これが前と後ろ、上と下を見た時に見えてくる神様の愛のご計画です。私たちはその中に生かされています。祈りましょう。