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山形六日町教会

2021年8月22日

聖書:詩編27編7~9節 ペトロの手紙Ⅰ1章3~9節
「希望のみなもと」波多野保夫牧師

説教シリーズ「あなたへの手紙」の5回目です。このシリーズでは、新約聖書に納められている手紙、これはラブレターと言って良いでしょう、その宛先が、あなたであり、私になっていることに注目しています。今回から暫らく、ペトロの手紙Ⅰを読み進めて行きますが、本日は第一回目なので、この手紙の背景から見ていきましょう。
福音書はペトロについて多くのことを伝えています。ガリラヤ湖の漁師だった彼は、主の言葉「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」この言葉に従いました。本名はシモンでしたが、主は彼をケファと呼びました。アラム言で「岩」と言う意味ですが、後にギリシャ語で「岩」を意味するペトロと呼ばれる様になったのです。「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。彼に主はおっしゃったのです。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(マタイ16:16-19)
聖書によれば彼は多くの失敗をしましたが、代表的な失敗は、主が逮捕された際、大祭司の庭で鶏が鳴く前に3度「主を知らない」と言ってしまったことでしょう。しかし、この時他の弟子たちはみんな逃げてしまっていたのです。主の復活の知らせを聞いて一番に墓へ駆けつけたのは彼でした。一番弟子だったと言って良いでしょう。復活の主にお会いし、神様の御許に帰られる主を見送ったペトロは、ペンテコステの日に聖霊が降って誕生した教会の中心にいました。聖霊によって力を得た彼は、各地を巡り歩いて主の福音を大胆に伝えたのです。以前、失敗を繰り返した彼は、聖霊を受けることで「生まれ変わった」のです。
ローマの百人隊長とその家族に福音を伝えたのを始め、異邦人伝道に熱心でした。主の福音を語ることで鞭うたれ、牢屋につながれても怯(ひる)みません。そんな彼はエルサレムにおいて少しずつ形を整えていった教会でも中心的な存在でした。 しかし、使徒言行録は15章以降でペトロに触れることはありません。忽然(こつぜん)と姿を消したのです。異邦人伝道の中心はパウロに、エルサレム教会の指導者は主の兄弟ヤコブに移って行きました。これは聖書に無い言い伝えなのですが、ペトロはネロ皇帝の激しい迫害下にあったローマに行き、福音を宣べ伝えクリスチャンを励ましたのですが、やがて捕らえられ西暦67年頃に十字架刑に処せれたそうです。その際キリストと同じでは申し訳ないと言って、逆さ十字架刑を望んだと伝えられています。
さて、ここからは聖書神学者たちの主張です。諸説があるのですが、実際にこの手紙を書いたのはペトロの弟子だったのではないかと言う説が有力です。現代では著者名を騙(かた)るのはやってはいけないことですが、当時は尊敬する人の名でものを書くのは一般的でした。ペトロ以外を著者と考える理由は、手紙の内容がペトロの亡くなった西暦67年よりも少し後の教会を取り巻く状況と考えた方が自然なことと、書かれているギリシャ語が非常に洗練されていることがあげられます。
使徒言行録に次の言葉があります。4:13 議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。確かに当時の漁師さんが洗練されたギリシャ語で文章を書くのは困難だったでしょう。たとえ著者がペトロ以外であっても、聖書に編纂された手紙の価値に変わりはありません。テモテへの手紙二 3章16節です。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒しめ、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。それではなぜ聖書神学者たちは、一生をかけて著者問題などの細かなことにこだわるのでしょうか? それは2000年の時を隔てて語られた神様の言葉を正しく理解して受け止めるためなのです。
それではペトロの手紙Ⅰの受け手は誰なのでしょうか? もちろん、私たちの他にです。1章1節、イエス・キリストの使徒ペトロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ。 ほとんどが現在のトルコに位置する小アジア地方にあります。
これらの地方では、多くの異邦人クリスチャン、ユダヤ人以外の人が主の福音を受け入れていました。そんな彼らは嫌がらせや迫害を受けていたのです。彼らにペトロが伝えたかった事、それが1章8節9節です。あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。
いかがでしょうか。今、私たちは共通の困難としてコロナ禍のもとに置かれています。さらに、それぞれが自分の重荷を抱えていることでしょう。そんな私たちが喜びに満ちあふれるのだとペトロは言うのです。キリストを見たことがないのに愛し、とあります。主を見なくても信じている私たちに宛てた手紙だとお分かりいただけると思います。
1章3節以下を読んでいきましょう。 わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。ペトロは父なる神を賛美することで話し始めます。続いて3つの大切なことを述べます。「私たちが新たに生まれること。」「イエス・キリストの復活によって、私たちに生き生きとした希望が与えられること。」そして、「私たちが天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者であること。」この3つです。
最初に「新たに生まれること」から見ていきましょう。週報に記した聖句から2か所をお読みします。ヨハネによる福音書 3章1節以下。 さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。3 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」5 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。7 『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。コリントの信徒への手紙Ⅱ 5章17節 だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。神様はあなたを愛する故に、あなたの人生に介入なさいます。そして、キリストの愛を知る者となり、洗礼へと導いてくださるのです。聖霊の働きです。
水と霊とによって新しく生まれ主に従う者として、その愛の中にある人生を歩んでいく。これが私たちに与えられる洗礼です。既に洗礼を受けられた方、いかがでしょうか? その時、自分が新しく生まれたのだとの感慨を覚えられたでしょうか? 覚えられた方、何歳くらいまで成長したでしょうか? あまり感じなかった方、良いんです。聖霊は私たちの感覚を越えて働かれるので、その時にあまり感じなかったとしても、神様の大いなる愛の中にあることは確かです。まだ洗礼に至っていない方、ぜひ主の恵みの中を歩む新しい人生をスタートしていただきたいと思います。
2番目の「イエス・キリストの復活によって、私たちに生き生きとした希望が与えられること。」です。聖書は希望について多く語っています。最も有名なのはパウロの言葉でしょう。コリントの信徒への手紙13章13節。 信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。信仰と希望が愛に比べて少し小さなものに思えるとしたら、間違いです。愛が最も大きいと言われるのは、神様が愛そのものの方だからです。根本に愛の神様がいてくださると言う意味です。同じくパウロは言うのです。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。(ロマ5:5)
「波多野先生、神様が私たちの罪を独り子に負わせて十字架に架けられた。私たちを、そこまでして愛してくださる神様の愛が変わることの無いものだと、聖書を通して、説教を通して何度も聞いて来ました。だから「イエス・キリストの復活によって生き生きとした希望が与えられる」とあるのは「イエス・キリストの十字架によって」ではないんですか? キリストの復活が私たちの希望にどう関係するのですか?」「良く聖書を学んでますね。鋭い質問です。」確かに教会に十字架はたくさんありますが、「空の墓」はありません。しかし、パウロは次の様に言っています。 キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。(コリントⅠ 15:17)
「私たちの罪が赦されたのは、キリストの十字架で十分じゃないんですか? こう言いたくなるでしょう。」確かにそれで十分なんですが、パウロは キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしい と言います。ここが大切なんです。キリストが復活して今日も生きてらっしゃる、だから私たちに与えられている信仰、すなわち「主の十字架によって罪が赦され、罪からの自由が与えられ、キリストに従う時に永遠の命が与えられる。」この信仰は、虚(うつろ)な空(むな)しいものではなく生き生きした信仰なのです。
ここで「生き生きとした」と翻訳されているギリシャ語ザオー(ζαω)は新約聖書に沢山登場します。イエス様がサマリアの井戸で女性に出会い「水を下さい。」とおっしゃることで始まった会話です。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ4:13,14)ここで「永遠の命に至る水」とある「命」がザオー(ζαω)です。主はエルサレム神殿に行かれました。 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(ヨハネ7:38,39)ここで「生きた水」とある「生きた」がザオー(ζαω)です。ですからザオー(ζαω)は、生き生きとした命を与える聖霊、もしくは聖霊の働きを意味します。
v ペトロの手紙Ⅰ 1章3節に戻りましょう。わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え とありました。洗礼によってキリストに従う者となった私たちに与えられる「生き生きとした希望」、これは生きて働いてくださる聖霊が与えてくださる確かな希望です。
様々な困難や苦しみが2000年前の小アジアの特に異邦人クリスチャンにありました。残念ながら私たちにも様々な困難や苦しみがあります。思い通りに行かない事はたくさんあります。しかし、確かなことは、私たちが天に蓄えられている、朽ちず、汚(けが)れず、しぼまない財産を受け継ぐ者だと言うことです。「波多野先生、確かに私たちに永遠の命が約束されていることは聖書が語っています。だけど例えば今みんなに共通の苦しみ、このコロナ禍をサット取り去ってくださればいいじゃないですか。」「私もその思いを持っています。確かに、サット取り去ってくださればどんなに良いかと思い、祈っています。」
しかし、ペトロは言うのです。6節7節です。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、 あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。私たちが味わう試練は信仰を強めるためなのだと聖書は繰り返し語ります。2箇所お読みしましょう。あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。 コリントの信徒への手紙Ⅰ 10章13節です。12:5「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、 力を落としてはいけない。6 なぜなら、主は愛する者を鍛え、 子として受け入れる者を皆、 鞭打たれるからである。」7 あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。11 およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。 ヘブライ人への手紙12:5以下です。この世での悩み苦しみは2000年の間、いや天地創造以来ほとんどの人が味わってきました。そして信仰が与えられた者であれば必ずや神様に祈ったことでしょう。最初に読んでいただいた詩編27編はダビデが迫って来る敵を前にした死の恐怖の中での祈りです。主よ、御顔を隠すことなく、怒ることなく あなたの僕を退けないでください。あなたはわたしの助け。救いの神よ、わたしを離れないでください 見捨てないでください。
真の人であった主イエス・キリストもそうです。十字架の時を前にしたゲッセマネの園での祈りです。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」 少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」
私たちも様々な折にいのります。その祈りが言葉の通りに聞かれた方。聞かれることがなかった方。祈ったのとは別の答えが与えられた方。皆さんはどんな経験をなさったのでしょうか? 持病に苦しんでいた人の話です。彼は語ります。 思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。与えられたとげが何なのかは語らないのですが、ひどく苦しめられたことは確かです。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。 三度と言うのは何度もと言う意味です。「病気を治してください」と何度も何度も祈ったのです。すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。(Ⅱコリント12:7-10) 使徒パウロの告白です。
苦しみの中で祈った3人の祈りを聞いて来ました。ダビデ、主イエス、パウロです。私たちが味わう苦しみと、この3人の苦しみの大きさを比べることは無意味です。苦しむ私たちは、この3人の中ではパウロと共通点があります。主イエス・キリストの十字架の死と復活を知っているパウロと私たちは 弱いときにこそ強い のです。なぜなら、苦しみの時にはおごり高ぶることがないからです。聖霊によって新しく生まれた私たちは、キリストにお会いしたペトロ、そしてパウロの証言を聖書を通して知るのです。
ペトロの手紙Ⅰ 1章8節9節 あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。祈りましょう。