HOME » 山形六日町教会 » 説教集 » 2021年8月15日

山形六日町教会

2021年8月15日

聖書:申命記15章7~11節 マタイによる福音書18章21~35節
「不届きな家来」波多野保夫牧師

説教シリーズ「たとえて言えば」の7回目です。読んでいただいたマタイ福音書18章23節でイエス様は「天の国は次の様にたとえられる。」と始められ、不届きな家来の譬えを語られました。聖書が語る「天の国」は「神の国」とも言われていますが、両者に違いはありません。神様の完全な支配が行われている場所であり時間です。神様の愛が満ち溢れています。
この地上に「天の国」がやって来るのは、十字架に架り復活され、現在は神様の右にいらっしゃる主イエスが、約束されたとおりに再び地上に来られ、そして裁きをなさる時です。その際、すでに召された者も呼びだされ、全ての者が裁きを受けます。最後の審判と呼ばれます。その結果すべての悪が滅ぼされ、地上に完全な形で「天の国」が実現します。これが、聖書が語る終末の時であり、神様の愛の支配が完成するのです。ですから終末はクリスチャンにとって希望の時なのです。 私たちが生を受けています、この2021年には、残念なことですが、悪がますます栄えているとしか思えないことが沢山あります。終末の時はまだ来ていません。それがいつなのかは神様だけがご存知なのですが、やがて地上に「天の国」が実現することは確かです。
苦しみの中にあった多くの人々がこの終末の時に希望を託して苦難に耐えた歴史があります。なぜ、希望をもって耐えることが出来たのでしょうか?2つのことが考えられます。一つは、2週間前8月1日の平和主日礼拝でご一緒に聞いた主イエスの言葉、 これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。(ヨハネ16:33)このみ言葉への信頼です。もう一つは、部分的にですが「天の国」を垣間見ているからです。そうです、神様の愛が支配する「天の国」の先駆けとしての教会の存在です。
ですから、「天の国は次の様にたとえられる」と語り始められた、この譬えは、やがてやって来る「天の国」の予告編ではありません。地上にある教会は、この様にあらなければいけない。教会に集う者がこの様でなければいけないとおっしゃっているのです。なぜなら私たちクリスチャンの存在は世に対する証しだからです。すでに神様の愛による支配が行き届いている、すなわち「天の国」を知っている私たちは、地の塩・世の光として輝くことで、神様の愛をこの世に知らせるのです。18章23節以下にあります「不届きな家来」の譬えは実は2つの主題について語っています。一つは「貧しい人、困っている人に対してどの様に接するべきか」です。二つ目は「罪の赦し」についてです。

一つ目の主題から始めましょう。「自分は富んでいるのか貧しいのか?」 これは相対的、即ち周囲の人と比べてどうなのか、と言う要素が強いそうです。世界のなかには、絶対的な貧困。命を保てる食料が得られるかどうか、「日ごとの糧」の問題も確かに存在します。安全な水はどうかと言うと世界人口76億人の内、実に10億人は衛生的な水を得られないと言う現実があります。数年前まで世界人口のたった1%の人が、残りの99%の人より多くの富を持ってると言われていましたが、このコロナ禍にあって格差はさらに拡大しているようです。
先週、インドのムンバイにある貧民街で活躍したマザー・テレサの「心の闇」をご紹介しました。彼女は自分の力をはるかに超えた貧困との戦いの中で、神様の愛に疑念が生じたのでした。私たちは今、おさまりを見せないコロナ禍にあって様々な矛盾と接しています。近代社会においては、行政が生活の底辺を支える仕組みが出来ているはずなのですが、ほころびが見える現在です。祈りによって始まる具体的な隣人愛の業に目を向けて行きたいと思います。
さて、最初に読んでいただいた旧約聖書申命記15章7節以下は、直接的にはイスラエルの同胞への愛を求めています。しかし、主イエスは隣人愛は同胞の枠を超えたものだとはっきりと指摘されました。「良きサマリア人」の譬えが代表的です。ですから私たちは、申命記を「仲間内だけではなく、すべての隣人を愛するように」とのご命令として読むのです。7節8節 あなたの神、主が与えられる土地で、どこかの町に貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、 彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい。9節に「7年目の負債免除の年が近づいた」とあるのは、7年ごとに定められた負債を帳消にする制度です。(申命記31:10)この年が近づいた時に何か貸すと返してもらうことが出来なくなってしまいます。そのことを見越して「貸し惜しみをするな!」と言うのです。
10節11節。 彼に必ず与えなさい。また与えるとき、心に未練があってはならない。このことのために、あなたの神、主はあなたの手の働きすべてを祝福してくださる。この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。それゆえ、わたしはあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい。ユダヤの世界は、この様な寛大さを求める世界だったのです。主イエスの愛を知った先週のヒロイン、タビタはこの教えに忠実だったに違いありません。そして、同じように主イエス・キリストの福音を知る私たちはこのご命令を、「世界に住む隣人のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい。」この様に読むのです。
さて新約聖書マタイ福音書18章は弟子たちがイエス様に「天の国で一番偉いのは誰なのでしょうか?」と質問をしたことから始まっています。その答えは「子供の様にならなければ天の国に入ることはできない。」でした。そして21節です。そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」実は当時の宗教指導者だったラビ達は、人々に対して3回赦しなさいと教えていたそうです。ですからペトロは自分の寛容な態度を示そうとして「七回までですか?」と質問したんでしょう。22節 イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。私たちが人を赦すことが苦手だとすれば、これはもう「無限に赦しなさい」と言われたことになります。23節. そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。
この様に譬え話を語り始められました。24 決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。25 しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。26 家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。27 その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。自分も妻も子も売って借金を返済することは、古代社会では普通のことでした。聖書の後ろにある通貨の説明によると、一タラントンは当時の労働者の6000日分の賃金に相当します。山形の最低賃金が時給822円になるそうですから1日6000円としましょう。6000日分、3600万円が1タラントンです。王様からの借金は1万タラントンですから、3600億円になります。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。それに対して、その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。のです。
ここで注目したいのは、この家来は返済を待ってくれと願っていますが、借金の減額、ましては帳消しを願ってはいないことです。そんなことはありえないことで、考えにも浮かばなかったのでしょう。28節。 ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。29 仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。30 しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。百デナリオンは50万円程になります。この話を聞いた主人は『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。 わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』
主君に3600億円の借金を帳消しにしてもらった家来は、50万円の借金を返せない男を赦さなかったのです。
天の国は次の様にたとえられる と語り始められたこの譬えの意図が35節。 あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。 「赦し合いなさい。」です。注意深く読んで見ると、不思議な点が見えてきます。23節24節では「王」と言われていますが、25節以下では主君となっています。王国の民の一人と言う漠然とした関係から、近しい主君と家来の関係を強調する意味があるのでしょう。神様と私たちの関係です。
先ほども指摘しました。この家来は返済を待ってくれと願っていますが、借金の減額、ましては帳消しを願っていません。しかし、32節です。主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。 主君は「お前が頼んだから」と指摘しています。これはこの譬えの主題「罪の赦し」に立ち返らないと意味が明らかになりません。イスラエルの人々は、昔から神殿で「罪の赦し」を願う犠牲の動物を献げていました。「贖いの献げ物」と呼ばれます。主が神殿を商売の場としていた商人を追い出した、いわゆる宮清めの出来ごとが明らかにしている事は、多くの人にとってこの「贖いの献げ物」は中身の薄い、即ち本来の悔い改めとはかけ離れた形式的な心のこもらないものとなっていたのです。
主君がこの家来の3600億円の借金を帳消しにした出来事、これは明らかに主イエス・キリストの十字架の出来事です。当然この家来は私たちです。主イエス・キリストは私たちの「罪」を負って十字架の道を歩まれ、その死をもって私たちの罪の代価、「贖いの献げもの」としてくださいました。
この結果神様は主に従う者を、罪のない者と見なして下さいました。これが主に従う私たちです。ここで家来が赦していただいた借金は3600億円でした。想像を越えた金額で実感がわかないのですが、神様が払ってくださった私たちの罪の代価はこんなものではありません。それは愛する独り子の血と肉だったのです。私たちの「罪」ってどのくらい、重いのでしょうか? 「罪」とは「神と自分と隣人」を愛することからの隔たりです。ただ一人、完全に実行された方が、主イエスです。イエス様は罪を全く犯されなかったのです。「イエス様は全人類の為に十字架に架ってくださった。それが3600億円。地球の人口は76億人だから、一人あたり50円になる。」確かに50円安い物を求めてスーパーの中を右往左往する私ですが、そんな屁理屈を言ってもダメです。「一人の家来に3600億円ですから、私一人に3600億円です。」実はこれも全く意味をなさない計算です。 愛する私の為に、しかも私の悔い改めに先立って最大の犠牲を払ってくださったのです。感謝するしかないのです。その上でおっしゃるのです。18章33節。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。

二つ目の主題は「罪の赦し」です。先週、「キリスト教概論」と言う東京のある高校での授業の際の「罪」についてのレポートを紹介しました。「罪は私たちの影のようだ」と詩によって表現していました。生徒が提出した2つのレポートを紹介しましょう。
・ 最も罪深いことは何か。それは罪を罪と思わぬことだと思います。罪を持っているのは当たり前で終わらせてしまってはいけないことです。痛みと言うものは徐々に感覚がマヒして痛いと感じなくなります。それと同じで、罪も重ね続けることによって麻痺してしまうのです。
・ 「罪」と言うのはキリスト教の特徴の一つだ。犯罪を表すわけではないこの「罪」を理解できる人になってもらいたいのかも知れない。自分に内在するこの悪いまとわりときちんと向き合える人は、謙虚で誠実な人になれると思うからだ。キリスト教は「罪」を提示してわたしたちを自己嫌悪の闇に取り残そうとしているのではない。悪と向き合い、それを克服しようと私たちのひたむきさを導くために「罪」の観念があるのだと思う。
皆さんにとって「罪」とは何でしょうか? そして、「主イエス・キリストが既にその代価を支払ってくださった。」ことは、どの様な意味を持つのでしょうか? その結果与えられた「自由」これは「罪からの自由」をどの様に用いていくのでしょうか?
18章33節 わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。 神様が与えてくださった究極の憐み、それは私たちの罪を赦してくださった事。罪のない者として接してくださることです。私たちの祈りを聞いてくださることです。そんな大きな愛を受けている私たちはどうすれば良いのでしょうか? このたとえ話の持つ二つのテーマに対して忠実であることです。罪の赦しに関しての主のみ言葉です。
わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。(マタイ5:44,45)さらに、主は「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。」(ヨハネ9:39)とおっしゃいます。罪びとを裁くのは私たちではありません。
私たちのなすべきことは、お互いが罪びとだと認め合ったうえで、赦し合うことです。主イエスが与えてくださった主の祈りです。「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。」誠実に祈り続けたいと思います。
この譬えのもう一つのテーマは「貧しい人、困っている人に対してどの様に接するべきか」でした。ヨハネの手紙Ⅰ3章17節18節をお読みします。 世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。 神様は良い行いを喜んでくださいます。救いへと招かれている私たちの喜びの表現が同情であり憐みです。神様の愛を感じるほどに、自然に出てきてしまうのです。
最後にルカ福音書6章から主のお言葉を聞きましょう。
6:37 「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。6:35 あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。6:36 あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」 祈りましょう。