HOME » 山形六日町教会 » 説教集 » 2021年8月1日

山形六日町教会

2021年8月1日

聖書:詩編91編1~16節 ヨハネによる福音書16章33節
「主は私のさけどころ」波多野保夫牧師

毎年8月の第一主日礼拝を「平和主日」礼拝として守っております。1945年のこの8月に広島・長崎への原爆投下とそれに続く終戦と言う歴史の大転換の時を迎えました。私たちにとって、平和への思いを新たにするのにふさわしい時です。「日本基督教団戦争責任告白」を週報に記載しました。本日はご一緒に読み上げて告白することは致しませんが、後程その意味を噛みしめていただきたいと思います。私たちの属します日本基督教団は戦時下にあって、主イエス・キリストのみ旨に対して忠実でなかったことが歴史的に語られています。その罪を悔い主に立ち返り平和への思いを新たにする告白です。
当時の苦しい環境下にあって教会を懸命に支えた方々で、積極的に戦争を支持なさったクリスチャンは少なかったことでしょう。多くは否応なしに戦時体制に組み込まれていったことでしょう。少数ではあったものの戦争に反対して迫害を受けた方もいらっしゃいました。私自身は戦争を知らずに生まれ育った世代です。
それでは多くの方はこの戦争に加担してないので、責任がないのでしょうか? もし、そうであるならば主イエス・キリストを十字架に架けたのは2000年前のしかもユダヤとローマの人達であって私たちは関係ありません。主イエスが十字架で私たちの罪を負ってくださった事実があります。神様は聖なる方ですから、罪をいい加減になさいません。罪を犯す全ての人、もちろん私もです。全ての人が裁きを受け、その結果十字架に架けられるのは当然なのですが、神様は主イエスの十字架での死に満足され、主イエス・キリストに従う者の罪を赦されたのです。なぜでしょうか? もちろん私たちを愛される故、忍び難きを忍んでくださる。それほどまでに私たちを愛してくださっている表れなのですが、もう一つ、大切な要因があります。
それは主イエスが全く「罪」を犯されなかった方、罪と無縁の方だったことです。「自分は先の戦争に対して全く無縁だ、全く責任がない。」と思われる方。そうです。そういう方こそ日本基督教団が犯した罪を負うに最もふさわしい方なのです。そして平和の実現のために祈りを篤くするのに最もふさわしい方なのです。これが「平和主日」を覚えて礼拝を守り続ける理由であり、意義なのです。

さて司式の寒河江長老に詩編91編を読んでいただきました。私たちの人生には喜びだけではなく、残念なことに様々な苦難や困難、苦しみが起こります。戦前、戦中、戦後を生きた方々がそうでした。現在進行形のコロナ禍にあっては、ウィルス感染だけでなく、そこから生じる社会の分断であり、医療従事者だけではなく社会を支える大勢の方々の過重労働であり、また雇用不安なども報じられています。世界的な貧富格差の拡大も言われます。現代社会が抱える様々な矛盾が、コロナ禍を機に一気に表面化しました。
この詩編91編は私たちに襲って来る様々な困難を指摘しています。3節 仕掛けられた罠、陥れる言葉。誠実さを失わせようとの試みであり、言葉尻をとらえようとする策略でしょうか。5節 夜、脅かすもの、昼、飛んで来る矢 これは密かに、あるいは突然襲ってくる敵意を持った攻撃です。6節 暗黒の中を行く疫病も 真昼に襲う病魔も 肉体に、精神にとさまざまな病が人を苦しめます。疫病は昔からたびたび人類を襲って来ました。7節 あなたの傍らに一千の人 あなたの右に一万の人が倒れるとき。戦争でありテロは悲惨な結果をもたらします。10節はさまざまな 災難であり、疫病 の存在を再度を指摘します。 14節から16節では全能の神の陰に宿る人 に対してどの様に応じてくださるのかが語られます。 災いから逃れさせよう。高く上げよう。答えよう。共にいて助け、名誉を与えよう。生涯満ち足らせよう、救いを見せよう。 素晴らしい言葉が並びます。もう一度お読みします。 災いから逃れさせよう。高く上げよう。答えよう。共にいて助け、名誉を与えよう。生涯満ち足らせよう、救いを見せよう。です。

本日は説教シリーズ「祈るときには」の第15回になりますが、私たちの祈りの構成要素についてお話して来ました。基本は主の祈りにあります。賛美と頌栄の他に3つです。「ごめんなさい。」罪の悔い改めです。「ありがとうございます。」感謝です。「お願いします。」求めです。私の場合「お願いします。」の割合が非常に高いようです。さて、そのお願いへの神様の回答が 災いから逃れさせよう。高く上げよう。答えよう。共にいて助け、名誉を与えよう。生涯満ち足らせよう、救いを見せよう。 です。本当に素晴らしいですね。「私の願いごとをかなえてくださった。」と素直に思えるでしょう。ただし、私の欲望は限りがないので、すぐに次のお願いが始まるのかも知れません。しかし、冷静に14節以下を見ると、そこには条件が示されています。 わたし、即ち神様を慕う者だから、神様の名を知る者だから、とあります。
ユダヤでは名前は人格そのものですから神様を正しく知っていなければなりませんし、神様を呼び求める 者でなければなりません。これは正に私たちクリスチャンですね。主はおっしゃいました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。 あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」(ヨハネ14:6,7)私たちは新約聖書が告げる主イエス・キリストを通して神様の愛を深く知り、理解できます。しかし、詩編91編を詠んだ詩人は主イエスを知ることなく、アブラハムに始まる民族の伝統の中で、生きて働かれる真の神を理解したのです。
詩編91編1節2節 いと高き神のもとに身を寄せて隠れ 全能の神の陰に宿る人よ 主に申し上げよ 「わたしの避けどころ、砦 わたしの神、依り頼む方」と。 様々な苦難や困難、悲しみの時に有って 3節 神はあなたを救い出してくださる。4節 神は羽をもってあなたを覆い 翼の下にかばってくださる。11節 主はあなたのために、御使いに命じて あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。
私たちは新約聖書が告げる主イエス・キリストを通して神様の愛を深く知り、理解しますが、旧約聖書時代の詩人はアブラハムに始まる民族の歴史の中で、生きて働かれる真の神を理解したのです。どちらが優れているというのではありません。神様の愛は変わらないからです。
ある牧師がこんな話をしてくれました。教会から離れた場所にある牧師館に住んでいたのですが、近くで火事があり風向きが悪くて築50年、木造の牧師館に火が迫ってきたそうです。煙とともに火の粉が飛んできます。とっさに何か持ち出さなければと考えました。皆さんなら何を持ち出すのでしょうか? 実は、なにか持ち出すよりも身の安全を確保することが第一なのですが、この牧師が持ち出した物の一つは教会や家族の思い出が詰まったアルバムだったそうです。今ならばスマホやパソコンかも知れません。聖書は物として焼けてしまったとしても、そこに詰まっている神様の言葉が焼け尽きることはありません。もう一つ、ちょうど幼稚園に行っていた子供さんの宝物、くまさんのぬいぐるみをもって逃げたそうです。消防隊の活躍を見守るしかなかったのですが、幸いにも風向きが変わったことで、牧師館は延焼を免(まぬか)れました。 その時、心に浮かんだのはこの詩編91編15節 呼び求めるときに答え 苦難の襲うとき共にいて助け てくださる。この聖句だったそうです。「波多野先生、チョット待ってください。確かにその牧師さん、良かったと思います。しかし、何度も自然災害にあった教会や、大切なお子さんを亡くされた方もいらっしゃるんですよ!」 大変重い質問です。確かにクリスチャンにも様々な困難や悲しい出来事が起こります。しかし、主が「わたしの避けどころ、砦 わたしの神、依り頼む方」と言うことは、いわゆる「無病息災」。困難や悲しい出来事がまったく起こらないと言うことではありません。「主を信頼する」ことで、「悲しみや苦しみに耐えることが出来る。悲しみや苦しみが私たちを支配することがない。」と言うことです。主が私たちを強めてそれに耐える力を与えて下さるのです。 信仰を持ち続けることによって私たちは悲しみや苦しみに負けることがありません。
詩編23編は苦しみの中にあったダビデの詩です。1 【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。2 主はわたしを青草の原に休ませ 憩いの水のほとりに伴い 3 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる。 4 死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖 それがわたしを力づける。 5 わたしを苦しめる者を前にしても あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ わたしの杯を溢れさせてくださる。 6 命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまるであろう。葬儀の際にもお読みする慰めに満ちた詩編です。しかしこの問題、クリスチャンにも起きる困難や悲しい出来事が原因で、教会を去る方がいらっしゃるのも事実です。残念なことです。そういった方は「主イエスに従うことで、主イエスが守って下さり、悲しみや苦しみに会うことがない、あるいは苦しみが少なくて済む。」この様に思っていらっしゃったのでしょう。困難や悲しい出来事に出会うと、「神様は私を愛していない。イエスはたいしたことない。聖霊なんて感じられない。」残念なことに、こんな思いから教会を去るのでしょう。この様な方にとって神様は痛みを和らげたり取り去ってくれる一種の鎮痛剤だったのです。
では主イエスはなんとおっしゃっているのでしょうか。寒河江長老に読んでいただいた、ヨハネ福音書16章33節です。 これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。 これらのこととは、まじかに迫っている十字架の出来事です。その上で3つのことをおっしゃっています。私たちには苦難があること。私たちは主イエス・キリストによって平和を得ること。そして主は既に世に勝利された方だと言うことです。この主イエスこそが「わたしの避けどころ、砦 わたしの神、依り頼む方」なのです。主はおっしゃいます。あなたがたがわたしによって平和を得る。 この平和は真の平和です。平和主日の礼拝に於いて、あらためて確認したいと思います。繰り返しになりますが詩編91編は、痛みや苦しみのない人生を約束しているのではありません。例え痛みや苦しみにあっても神様がそれを乗り越える力を与えてくださる。そのことが約束されているのです。 重く悲しい出来事によって、神様の愛が感じられなくなって、逃げ出した辛い経験を持っている方もいらっしゃることでしょう。
確かに私たちの人生には望まない様々なことが起こります。残念ながら教会もその例外ではありません。「なぜあの人にあんなことが?」こんな疑問を感じることが確かにあります。「神様、本当に私を愛してくださっているんですか? 「羽をもって私を覆い 翼の下にかばってくださる。」あの約束は私の聞き違いだったのですか?」 思わず、この言葉を漏らした男の物語が聖書にあります。旧約聖書ヨブ記はこの問題に正面から取り組んでいる書です。主人公のヨブです。1章1節。 ウツの地にヨブという人がいた。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。このようなヨブに次々と不幸が襲います。家族も財産も失ったばかりか全身が重い皮膚病にかかってもなお、「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」この様に神様を非難する罪を犯さなかったのです。私たちは、こんなスゴイ信仰を持ったヨブが苦難に会うという事実をどう受け止めればよいのでしょうか?やがてヨブを心配して3人の友人が訪ねて来るのですが、彼らはヨブの信仰が足りないのでこんな目に会うのだと非難し始めます。それに対してヨブは「神様にお会いして思う存分わたしの言い分を述べたい。そうすれば神様は必ず顧みて下さるに違いない。」(ヨブ23:4-6)この様に述べるのですが、いつまでも続く友人たちの非難に対して、ヨブの申し開きは神様を非難するようになっていきます。
神様を怒らせる者たちが安泰なのに、褒めていただいた私がもの笑いの種になる。(12:4-6)この私をこそ神は救ってくださるべきだ。(13:16) 神が私に非道なふるまいをなさり、私の周囲に砦を巡らしていることを。神は私の道をふさいで通らせず行く手に暗黒を置かれた。神は私に向かって怒りを燃やし私を敵とされる。神は兄弟を私から遠ざけ知人を引き離した。(19:6,8,11,13) 神に逆らう者への罰が生ぬるい。(21:19) 神よ わたしはあなたに向かって叫んでいるのに あなたはお答えにならない。御前に立っているのに あなたは御覧にならない。あなたは冷酷になり 御手の力をもって私に怒りを表される。(30:20,21)ついに神様はヨブに現れ、その思い上がりを指摘されます。ヨブはその神様の前で、自分の無力さと同時に神様の偉大さに思い至り、へりくだったのです。 その時神様の怒りは、ヨブを執拗に非難し続けた友人たちに向かいました。ヨブ記42章です。 主はこのようにヨブに語ってから、テマン人エリファズに仰せになった。「わたしはお前とお前の二人の友人に対して怒っている。お前たちは、わたしについてわたしの僕ヨブのように正しく語らなかったからだ。 そして神様は友人たちに、雄牛と雄羊7頭を献げヨブに祈ってもらう様に命じられました。彼らは、主が言われたことを実行した。そして、主はヨブの祈りを受け入れられた。ヨブが友人たちのために祈ったとき、主はヨブを元の境遇に戻し、更に財産を二倍にされた。主はその後のヨブを以前にも増して祝福された。 これがヨブ記の全体です。
神様はヨブの友人を非難されたのに対して、文句を並べたてたヨブを何故褒められたのでしょうか? もちろん第一の理由は彼が自分の無力さに気づいて、神様の前で謙遜さを取り戻したことです。しかし、それだけではありません。神様はヨブの嘆き、さらには疑いや文句までも、祈りの言葉として聞いてくださっていたからなのではないでしょうか。彼は、それがたとえ文句の言葉であっても神様に向かって語ること、即ち祈り続けたのです。
「平和主日」にあって私たちはあらためて主の与えてくださる真の平和を願い求めたいと思います。それがどんなに遠回りに思えても私たちは、まず主のみ名によって祈り求めることから始めなければなりません。そして主の福音を多くの人に伝え続けなければなりません。そこにこそ真の平和があるからです。主はおっしゃるのです。私が歩んでいく十字架への道は、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。 これが私たちの主・イエスキリストです。 祈りましょう。