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山形六日町教会

2021年7月18日

聖書:列王記上19章1~4節 ヨハネの黙示録2章19~21節
「イゼベルの悪事」波多野保夫牧師

久しぶりの説教シリーズ「気概を示す」です。このシリーズでは聖書に登場する女性が示した気概を通して、私たちの信仰を見つめ直してきました。なぜ、女性かと言うと旧約聖書と新約聖書、双方が描く時代を通してパレスチナ地方は男性社会だったことに依ります。数少ない例外を除いて歴代の王も預言者も男性でした。主イエスの時代には最高法院の議員は全員男性でしたし、そもそも女性が裁判で証言することは認められませんでした。
しかし、聖書は素晴らしい信仰を示した女性を多く描いています。シリーズ第一回はエステルでした。何人かのマリアも登場しましたし、聖書をとおして一番の人気があると言われていますルツの信仰も見ました。それだけではありません、名もない女性たち、レプタ2枚をささげたやもめや、サマリアの井戸で主イエスに「水を飲ませてください」と声をかけられた女性。イエス様と彼女の対話です。13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」15 女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」(ヨハネ福音書4:13-15) 様々な女性が様々な場面で見せた信仰を見てきました。

本日のヒロインはイゼベルです。最初に注意したいのは彼女の信仰を見習ってはいけません。全聖書を通して有数の悪女と言えるでしょう。
実は先生とか教師には2種類あります。この様にありたいと願う先生と、こうあってはいけないと思わせる先生です。反面教師と呼ばれます。どちらも大切なことを教えてくれる先生ですが、「波多野先生」と呼ばれるとビクっとしてしまうところがあります。主イエスの言葉に あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。(マタイ23:8) このようにあります。日本はなんでも「先生」と呼ぶ社会ですから、「牧師」を先生と呼ばないとすればストレスが大きいでしょうから、呼んでいただいて構わないのですが、ビクッとするところがあるのです。
本日のヒロインはイゼベルでした。彼女を反面教師にしていただきたいと思います。彼女は旧約聖書列王記上と列王記下に登場します。説教で旧約聖書を正面から取り上げる機会は限られていますので、その背景を見ることから始めましょう。
列王記はダビデ王の最晩年に起きた王位継承の争いから始まります。紀元前960年頃のことです。
最終的にソロモンが王位につくのですが、彼は「ソロモンの知恵」と言われるように、その英知でもって民の為に公平な裁判を行いました。二人の女性が子供を争った時、引き裂いて半分にしろと命じ、引き下がって「相手に渡してください。」と言った女性を本当の母親と認めた裁判は有名です。しかし、彼が神様に忠実だったのはエルサレム神殿を献げた時まででした。
 彼はその才覚を生かした諸国との交易を盛んにして、莫大な富を得たのですが、そのために周辺国と同盟関係を結び、その証(あかし)として盛んに政略結婚したのです。この結果、国は安定し莫大な富を得ることが出来ました。だからこそ壮大なエルサレム神殿を献げることが出来たのですが、「好事魔多し」と言われるように、周辺国からやってきた王妃たちは、それぞれの国の神々と共にやってきたので、やがてエルサレム神殿には偶像が立ち並んだのです。神様から与えられた才能を誤って用いた結果です。皆さんが頂いた賜物であり才能は「神様と自分と隣人を愛する」為に用いていただきたいと思います。そんなソロモン王が亡くなると王国は北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂してしまいました。紀元前922年頃の出来事です。
分裂後の歴史を追えば、北のイスラエル王国は200年後の紀元前722年頃アッシリアによって、南のユダ王国は350年後の紀元前586年頃にバビロニアによって、滅ぼされてしまいました。この間それぞれの王国に20人ほどの王が立てられました。聖書はその勤務評価をしています。基準は三点。創造主であるイスラエルの神だけを礼拝したのか。偶像礼拝を排除したのか。神様との契約・律法に忠実だったか。この三点です。その結果は、北イスラエル王国の王たちは全て不合格。「神と自分と隣人」を愛する者ではなかったと聖書は告げています。南ユダ王国では8名ほどの王が合格するだけでした。もちろん国の指導者がこの有様ですから、国民も堕落して、偶像を礼拝し自分の利益を追い求めたのです。
そんな両国に神様は大勢の預言者を送り、お考えを伝えさせたのです。預言者たちは罪を悔い改めて神様の愛のもとに立ち返り、平和で幸せな生活を取り戻すように求めたのですが、結果は両王国とも滅んでしまったのです。

さて今日のヒロイン、イゼベルです。彼女は紀元前871年から852年、北イスラエル王国の王位にあったアハブ王の妃となりました。このアハブ王の父親オムリ王は外国の宗教に寛容で、首都のサマリアにカナン地方の神々を祭る聖所と唯一の神を祭る聖所の双方を建てた上に、主の神殿に牛の像を祭りました。この時点で神様の勤務評定は不合格です。さらにオムリ王は地中海諸国との交易を盛んにするために、息子のアハブと今日のヒロイン、イゼベルを政略結婚させたのです。
イゼベルの父、エトバアル王はバアルの祭司だったので、娘イゼベルは夫アハブ王の宮殿にバアル信仰を持ち込みました。バアルの神々は、カナン地方の農耕の神々で、豊作をもたらす豊穣神です。神様が遣わした預言者たちとの激しい戦いが繰り広げられました。その代表が預言者エリヤです。エリヤは800年近く後の新約聖書にも登場します。イエス様がペトロとヨハネとヤコブを連れて祈るために山に登られた時です。ペトロは幻想的な雰囲気の中で、イエス様とモーセとエリヤが語り合っているのを見て、言いました。 「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」(ルカ9:33) これから十字架への道を歩まれる主が、その後に受けられる栄光の姿をペトロたちが垣間見たのだと言われています。神様の御許での姿なのでしょう。
そしてその対局、地上での偶像礼拝とおぞましさの中心に今日のヒロイン、イゼベルはいたのです。 週報に列王記の記事を何か所か記しました。列王記上16:31 彼はネバトの子ヤロブアムの罪を繰り返すだけでは満足せず、シドン人の王エトバアルの娘イゼベルを妻に迎え、進んでバアルに仕え、これにひれ伏した。 これが、アハブ王です。列王記上 18:13 イゼベルが主の預言者を殺したときにわたしがしたことを、あなたは知らされてはいないのですか。わたしは主の預言者百人を五十人ずつ洞穴にかくまい、パンと水をもって養いました。  アハブ王に仕えながらも主を畏れる宮廷長オバドヤが、イゼベルに追われているエリヤに出会った際の言葉です。列王記上 18:19 今イスラエルのすべての人々を、イゼベルの食卓に着く四百五十人のバアルの預言者、四百人のアシェラの預言者と共に、カルメル山に集め、わたしの前に出そろうように使いを送っていただきたい。 預言者エリヤがアハブ王に言った言葉です。この時、主なる神に仕える預言者はたった一人残ったエリヤだけです。彼は偶像に仕えるエセ預言者どもに戦いを挑みます。列王記上 19:1 アハブは、エリヤの行ったすべての事、預言者を剣で皆殺しにした次第をすべてイゼベルに告げた。列王記上 19:2 イゼベルは、エリヤに使者を送ってこう言わせた。「わたしが明日のこの時刻までに、あなたの命をあの預言者たちの一人の命のようにしていなければ、神々が幾重にもわたしを罰してくださるように。」バアルに仕える預言者とエリヤの戦い。それはどちらの神が真(まこと)の神であるかを人々の前で明らかにしました。イスラエルの人々はひれ伏して「主こそ神です。主こそ神です」と言い、それを聞いたイゼベルは怒り狂ったのです。列王記上 21:8 イゼベルはアハブの名で手紙を書き、アハブの印を押して封をし、その手紙をナボトのいる町に住む長老と貴族に送った。9 その手紙にはこう書かれていた。「断食を布告し、ナボトを民の最前列に座らせよ。10 ならず者を二人彼に向かって座らせ、ナボトが神と王とを呪った、と証言させよ。こうしてナボトを引き出し、石で打ち殺せ。」11 その町の人々、その町に住む長老と貴族たちはイゼベルが命じたとおり、すなわち彼女が手紙で彼らに書き送ったとおりに行った。14 彼らはイゼベルに使いを送って、ナボトが石で打ち殺されたと伝えた。預言者エリアによって、真の主なる神の力を見せつけられたイゼベルですが、なおも豊穣神、即ちご利益信仰に浸る彼女です。「神と自分と隣人」を愛する気持ちなど微塵(みじん)もありません。ナボトという人の持つブドウ畑を首尾よく手に入れたのです。
さて、司式の細矢長老に新約聖書ヨハネの黙示録2章19節以下を読んでいただきました。ヨハネの黙示録は復活され、今神の御許にいらっしゃる主イエス・キリストがこの世の王として再び来てくださる、その日の幻をヨハネに与えられました。そしてそのヨハネがローマの支配下にあったアジア州の7つの教会に宛てて書き送った手紙です。2章19節以下はティアティラにある教会に宛てられた手紙で、このティアティラは今のトルコにありますが、エーゲ海から内陸に60キロほど入ったところになります。さほど大きくな町ではなかったんですが、交通の要衝に当たり、交易で栄えました。さらに染物でも有名でした。
パウロがヨーロッパに初めて主の福音を伝えたフィリピでの様子が使徒言行録16章にあります。安息日に町の門を出て、祈りの場所があると思われる川岸に行った。そして、わたしたちもそこに座って、集まっていた婦人たちに話をした。ティアティラ市出身の紫布を商う人で、神をあがめるリディアという婦人も話を聞いていたが、主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた。そして、彼女も家族の者も洗礼を受けたが、そのとき、「私が主を信じる者だとお思いでしたら、どうぞ、私の家に来てお泊まりください」と言ってわたしたちを招待し、無理に承知させた。(16:13-15) この様にしてフィリピ教会が誕生したのですが、リディアの出身地がこのティアティラでした。しかし、今日のヒロイン、イゼベルとはほとんど関係がありません。紫布と言う高級染物を扱っていたリディアの出身地がティアティラと言う町であり、ヨハネが手紙を書き送った7つの教会の一つがティアティラの教会だったと言うだけです。 しかし、パウロが語る主の福音に心を開いたリディアと、偶像に心を支配され続けたイゼベルとが対比されます。リディアは真剣にパウロの語る福音を聞き、そして教会に仕えた人です。皆さんですね。それでは、一方のイゼベルは私たちと全く関係ないのでしょうか? そうありたいと思います。ヨハネの黙示録を見ていきましょう。
2章19節 わたしは、あなたのわざと、あなたの愛と信仰と奉仕と忍耐とを知っている。また、あなたの後のわざが、初めのよりもまさっていることを知っている。 六日町教会もこうありたいと思いますし、私たち一人一人もこうでありたいと思います。あなたのわざと、あなたの愛と信仰と奉仕と忍耐とを知っている。神様にこう言っていただくことは本当に幸せなことだからです。しかし、あなたに対して責むべきことがある。 これはただ事ではありません。なんでしょう?あなたは、あのイゼベルという女を、そのなすがままにさせている。この女は女預言者と自称し、わたしの僕たちを教え、惑わして、不品行をさせ、偶像にささげたものを食べさせている。 わたしは、この女に悔い改めるおりを与えたが、悔い改めてその不品行をやめようとはしない。 イゼベルを好き放題にさせて放っておいた。そのことが私は赦せないのだ。神様のお考えをヨハネはこの様に伝えます。
このヨハネの黙示録は神様の御許にいらっしゃる主イエス・キリストが再び来てくださって、裁きを行い悪をほろぼしてくださる時、私たちの所に「神の国」が完全に実現する希望の時を語っています。私たちにその栄光の時に向かっての準備をするように求めています。ですから、あなたに対して責むべきことがある。この様に言われてしまうのは問題です。
さて、ここで登場するイゼベルは一体誰なのかと言う疑問があります。列王記が告げるアハブ王の妃(きさき)イゼベル。この女は女預言者と自称し、わたしの僕たちを教え、惑わして、不品行をさせ、偶像にささげたものを食べさせている。 イゼベルが自分をバアルの女預言者としていたかは分かりませんが、神様に逆らい続けたこと。エリアを始め預言者たちを激しく迫害したことは事実です。しかし、彼女は主に北イスラエルの都、サマリアで多くの悪事を行いましたし、時代も800年程違います。そんな人を好き放題にさせていると、ティアティラの教会が神様から非難されるのではかわいそうです。 2番目の可能性は、同じ名前の人がこの教会にいて、神様に逆らい続けたということ。これならばつじつまが合います。しかし、ローマ皇帝の妃でもない教会の中の特定の人がいくら悪い奴だとしても、その名を聖書に書き記して2000年後の私たちにまで知らせる必要があるのでしょうか? 私の「罪」が西暦4000年にまで語り伝えられたらたまりません。それでは、誰なのでしょうか? 2章21節の前半にそのヒントがあります。わたしは、この女に悔い改めるおりを与えた。 とあります。だとしたら聖書の語るイゼベル。実は私たちの心の中に住むイゼベルではないでしょうか?神様はこの波多野保夫に悔い改める機会を与えてくださっています。 私に与えられている悔い改めのチャンス。私たちに与えられている悔い改めのチャンス。それは明快です。主イエスキリストに従って歩むことです。主は私たちが幸せで楽しく希望に満ちた生涯を歩んでいくことを望んでいらっしゃいます。神様はどんな時でも私たちを愛してくださっています。
週報に記した列王記21章23節以下の3か所をお読みしていないのでここでお読みしましょう。列王記上 21:23 主はイゼベルにもこう告げられる。『イゼベルはイズレエルの塁壁の中で犬の群れの餌食になる。列王記上 21:25 アハブのように、主の目に悪とされることに身をゆだねた者はいなかった。彼は、その妻イゼベルに唆(そそのか)されたのである。列王記下 9:37 イゼベルの遺体はイズレエルの所有地で畑の面にまかれた肥やしのようになり、これがイゼベルだとはだれも言えなくなる。 アハブ王とその妃(きさき)イゼベルは、神によって裁きが与えられました。せっかく預言者たちによって悔い改めが語られたにもかかわらずその行いを改めることが無かったからです。私たちの心の中に住むイゼベル。愛の神様はまた聖なる方だからいい加減になさいません。イゼベルはイズレエルの塁壁の中で犬の群れの餌食になる。心に住むイゼベルが頭を持ち上げるのであれば、これこそが私たちの行きつく姿です。神様は聖なる方だからです。
しかし、私たちは違います。神様の一方的な愛によって主イエス・キリストに従う時に「罪のない者」と見なしてくださるのです。これが、これこそが教会がそのシンボルとする十字架の意味であり恵みです。 イゼベルの悪事を伝える聖書は、同時に主イエス・キリストの愛を伝えます。同じティアティラの出身であれば、私たちはキリストの福音に生かされ教会を支えたリディアでありたいと思います。主の恵みの中を歩みたいと思います。祈りましょう。