HOME » 山形六日町教会 » 説教集 » 2021年7月11日

山形六日町教会

2021年7月11日

聖書:エゼキエル書17章22~24節 マタイによる福音書13章31~35節
「天の国とは」波多野保夫牧師

説教シリーズ「たとえて言えば」の6回目です。6月6日の第3回と先週の第5回、そして本日の第6回を通して、マタイによる福音書13章を読み継いでいます。この13章には主がガリラヤ湖畔で大勢の人を前に語られた7つの譬えに加えて、そのうちの2つの譬えの解説。さらに、なぜ譬えで語られるのかを説明してくださっています。「天の国」の理解を深め、キリストに従って豊な人生を送る様にとのメッセージです。9節と43節に記されている「耳のある者は聞きなさい。」この言葉がそれを良く表しています。「聞く耳をもたない」と言う言葉がありますが、例によって辞書を調べてみました。「相手の助言や意見を聞くつもりがないさま、頑固で素直でないさまを意味する表現。」この様にあります。主イエスの言葉を素直な心で聞き、そして従う者でありたいと思います。
こんな主イエスの言葉が思い起されます。触れていただこうと子供たちを連れて来た人々を弟子たちが遠ざけようとした時のことです。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」ルカ福音書18章16節17節です。
今、お読みしたルカ福音書を聞いてアレーと思われた方、いらっしゃるのではないでしょうか? 山口長老に読んでいただいたマタイ福音書13章31節は「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば」とあり、今お読みしたルカ福音書18章16節は「神の国はこのような者たちのものである。」でした。「天の国」と「神の国」その違いはなんですか? 大変良い質問です。どう思われますか?  実は、マルコ福音書、ルカ福音書、ヨハネ福音書は「神の国」だけが用いられており、マタイ福音書には「天の国」と「神の国」の双方があります。意味に違いはありません。ではなぜマタイだけが「天の国」と言う言い方をしたのでしょうか? マタイは、特にユダヤ人がキリストを信じる者となることに心を砕いていましたから、主イエスが律法を廃止する方ではなく完成する方だとハッキリ伝えています。ですから、主イエスが要約してくださった新しい律法「神と自分と隣人を愛しなさい」を覆い隠さない範囲でモーセに与えられた律法を大切にしたのでしょう。 実はユダヤ人たちは律法が「神の名をみだりに唱えてはならない」と命じていることから「神」と言わずに「天」と言っていたのです。でもマタイは「神の国」とも言っています。4人の福音書記者の内、マタイだけは両方の言い方をしている。なぜでしょうか? 今日、家に帰ったらマタイ福音書を開いて読み直してみてください。聖書自身がその謎を解いてくれることでしょう。それはともかく、「天の国」や「神の国」よりも「天の王国」「神の王国」とギリシャ語原典を翻訳したほうが良いように思います。「神様の支配が行き渡ったところ」と言う意味がハッキリするからです。
復習の意味を込めて13章を最初から見ていきましょう。1節から13節。「種を蒔く人」のたとえを6月6日の礼拝で聞きました。 良い土地に落ちた種は、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。  み言葉を聞いて悟る人、私たちですね。心に蒔かれた福音の種は多くの実を結ぶのです。24節から30節。先週の礼拝で聞いた「毒麦」のたとえです。伝統的にこの譬えは「悪魔が教会の中に蒔いた毒麦の種」の譬えだと言われて来ました。確かに歴史上の教会には様々な異端や分裂の問題が生じましたが、この譬えは一人一人の心に蒔かれる毒麦、すなわち悪魔の誘惑についても、同様に語っています。「毒麦を抜くときに麦まで抜いてしまうといけない。刈り入れの時までそのままにしなさい。」と教えられましたが、これは「最終的な裁きはイエス様が終末の時に行う。」ことを意味しています。ですから私たちのまずなすべきことは「祈ること」です。毒麦の為にも祈ることです。なぜなら神様は毒麦をも愛しており、罪を悔い改めて立ち返ることを待っていらっしゃるからです。
ローマ帝国の迫害が激しくなる中で、初代教会の人たちは主イエスが再び来て下さり、この世の悪を滅ぼしてくださるとの約束の日、終末の訪れを待ち焦がれていました。奴隷解放前のアメリカでは、黒人奴隷たちが終末の時を待ち焦がれて歌った黒人霊歌が残されています。しかし、主の時代から2000年以上が経過した現在においても、終末はまだ私たちの所に来ていません。「終末の遅れの問題」と呼ばれています。
ペトロの手紙Ⅱ3章8節9節。 愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。主は多くの人が罪を悔いて神様に立ち返るのを忍耐して待っていてくださるのですが、多くの人を悔い改めへと導く働きは、私たち、多くの人に先立って主の福音を知らされている私たちに委ねられているのです。
そして、これが裁きを神様のみ手に委ねると言うことの意味です。裁きは神様の仕事ですが、主の福音を語り伝え悔い改めに導く務めは私たちに委ねられています。この光栄ある務めを聖霊の助けと励ましを祈ることから始めましょう。 
私たちに対して、そして教会に対して害を及ぼす毒麦が良い麦に変えられて、一緒に神様の恵みを受けて育っていく。これならば、百倍、六十倍、あるいは三十倍になってしまいます。13章31節から33節は、「からし種」と「パン種」の譬えです。後ほど読みましょう。そして44節から46節の「天の国」の譬えは、それを見つけた人が、すべての財産を売り払っても手に入れようとするだけの価値があるのだと述べます。47節では、漁でとれた魚は選別される。これは毒麦の譬えに通じます。
13章では7つの譬えを用いて様々な角度から「天国」について語られます。いま、「天国」と言ってしまいましたが、私たちの新共同訳聖書では「天の国」と翻訳されています。これは「天国」と言う言葉には「極楽浄土」的な感覚が伴うからでしょうか。「野鳥の天国」や「犯罪天国」なんて言葉もあります。 しかし、以前礼拝で用いられていた口語訳聖書では「天国」になっていました。「天国」であれ「天の国」であれ「神の国」であれ、神様の支配が行き届いた場所であり時間です。神様の愛の支配のもとで悪が滅ぼされ、みんなが「神と自分と隣人」を愛して過ごすのです。「神の王国」に於いて真の平和が実現します。
しかし、13章の7つの譬えの最初の2つ、「種まき」と「毒麦」のたとえは、福音の広がりと、悪魔が入り込む譬えで、「天の国」の話じゃないんじゃないですか? 良い質問です。「天の国」は神様の支配が行き届いた場所であり時間だと言いました。福音の種が私たちの心の中で育ち百倍、六十倍、あるいは三十倍になるのであれば、悪魔の居場所は残っていません。そして完全な「天の国」は終末の時に実現しますが、そのひな型としてこの地上に教会が立てられています。教会では主イエス・キリストだけが頭(かしら)であり指導者だからです。今私たちは教会に招かれてこうして一緒に礼拝を守っているのです。すばらしいことだとは思いませんか!終末の時に先立って私たちが人を裁くのであれば、それは悪魔を喜ばせる結果に終わります。では、どうしても苦手な人、いやな人にどうするのでしょうか? その人の為に祈るのです。毒麦を良い麦に変えてくださいと祈るのです。 

さて本日の聖句、13章31節以下です。 イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、 どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」ユダヤ人の家庭で育った主は旧約聖書エゼキエル書17章22節以下を良く理解していました。預言者エゼキエルは紀元前6世紀初頭のバビロン捕囚の際にバビロニアに連れて行かれた祭司です。当時ユダヤの人々は神様から離れ偶像礼拝と不正と暴力が蔓延(はびこ)っていました。拝金主義や自己中心は、神でないものを第一にすることですから、偶像礼拝です。残念ながら2021年の世界に蔓延しています。預言者エゼキエルは様々な方法で人々に悔い改めを求めるのですが、誰も聞こうとしません。ついにエルサレムの町も神殿も徹底的に破壊され、バビロンへ捕虜として連れていかれたのです。そんなどん底の時に、エゼキエルに与えられた希望がこの17章22節以下です。 それは枝を伸ばし実をつけ、うっそうとしたレバノン杉となり、あらゆる鳥がそのもとに宿り、翼のあるものはすべてその枝の陰に住むようになる。 救い主イエスのもとでの回復、すなわち「天の国」の到来です。「天の国」は主イエスの誕生によって既に地上に来ています。現在は教会が担っています。主イエスは言われました。 「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、 どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」
週報にからし種の写真を載せました。この小さな種が成長すると大きく茂り、鳥たちが囀(さえず)りながら巣を作り平和な生活を営む。茂った葉は天敵から姿を隠してくれるのでしょう。悪魔も近づくことが出来ないのです。最初は極めて小さく私たちの心が神様の方を向くことで始まりますが、やがて大木となり大勢の人が集うのです。これが「天の王国」なのです。
今、私たちを含めて日本の多くの教会が会員の減少と高齢化に悩まされていますが、神様のお考えはそれとは逆です。そして、必ずや実現するでしょう。では、枕を高くして寝ていればよいのでしょうか? もちろん焦ったり悲観したりする必要はありませんが、今まで以上にしっかりと祈る必要があります。「み心の天になるごとく、地にもなさせ給え。」主の祈りです。
13章33節 また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」毎日パンを焼くのですが、前の日に焼いたときにイースト菌の入ったパン生地を少しだけとっておきました。これがパン種です。イースト菌の入ったパンには、柔らかく風味豊かな味があります。このふくよかさは、ほんのわずかなイースト菌によって全体が発酵し膨らませるからです。3サトンとは40リットルだそうですから、ものすごい量のパンが焼きあがることでしょう。多くの人に豊かな恵みを準備してくださっている。これが神様の終末に至るまでのご計画です。
からし種の譬えもパン種の譬えも、神さまがすべての人を愛し、すべての人を救いに導きたいと思い、その務めを教会の働きに託していらっしゃることを示しています。私たちの心に蒔かれた信仰の種は最初は「からし種」程の、小さな小さなものでしょう。あるいはごく少量のパン種なのでしょう。しかし、聖霊が私たちを導き励ましてくださるのです。必ずや大きく大きくなって小鳥たちが宿ります。大きく大きくなって、大勢の空腹を満たし笑顔を与えることでしょう。一緒に再臨の主イエスを迎えるのです。「天の王国」の到来です。しかし、一方で残念ながら終末に至るまでの時間、今私たちがこうして生を受けている時間においても、悪魔は元気です。私たちの心の中において、この世の中に於いて、残念ながらある時には教会の中においても悪魔は元気です。
聖書には次の言葉があります。コリントの信徒への手紙Ⅰ 5章6節から8節です。5:6 あなたがたが誇っているのは、よくない。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。7 いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。8 だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。 パウロは古いパン、悪意と邪悪のパン種に注目します。イースト菌の入ったパン生地ですから、その良し悪しにかかわらず窯で焼けば膨らんできます。悪いパン種や悪意と邪悪のパン種によって私の心が占領されてしまえば、影響は私ひとりにはとどまらないでしょう。ウィルスみたいに人から人に広がります。教会にそして周囲に。
パウロは聖霊の導きに従って歩めと言います。 肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、21 ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。(ガラテヤ書5:19-21)
主イエスは「天の国」もしくは「神の国」が広がり迫って来るとおっしゃいましたが、私たちがその中にいなければ全く無意味です。主に従うことで、もっと正確には、主イエス・キリストに従うことによってのみ、私たちは「神の国」の住人となりますし、教会もまた同じです。私たちがパウロが言う「肉の業」に支配されるのであれば、幸せも平和も得られません。主イエス以外が支配する教会は存在しない方がマシです。パウロは続けます。5:22 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、23 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。
主イエスが7つの譬えをもって明らかにされた「天の国」は。すでに地上に到達しているのだ。キリストを頭(かしら)・司令塔とする教会がそれなんだ。この様に申しました。 マタイによる福音書13章51節52節は7つのたとえ話を語られた後での主の問いです。皆さんに、そして私に問われます。51 「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。 皆さんと一緒に「分かりました」とお答えしたいと思います。52 そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」 学者と言う言葉は通常律法学者を意味します。しかし、ここではみ言葉によって養われ「分かりました」と答えた弟子たちであり、私たちです。 「倉から新しいものと古いものを取り出す」とありますが、律法学者は人々を縄目に縛り付ける古い律法だけを取り出しました。私たちは旧約聖書と新約聖書が語り伝える神様の愛をたくさん取り出します。そして「神様と自分と隣人」を愛するのです。これが「天の国」の先駆け、即ち教会に集う私たちの務めであり喜びです。今日から始まる一週間を喜びの内に歩み始めましょう。 祈ります。