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山形六日町教会

2021年7月4日

聖書:ヨナ書4章10~11節 マタイによる福音書13章24~30節
「毒麦のたとえ」波多野保夫牧師

説教シリーズ「たとえて言えば」の5回目です。このシリーズでは、主イエスが譬えを用いて語られた言葉を聞いています。前々回の第3回、一月ほど前になりますが6月6日には「種を蒔く人」の譬えを聞きました。パレスチナの種まきはお相撲さんが塩を撒くように蒔きます。道端に落ちた種は鳥が来て食べてしまいました。石だらけで土の少ない所に落ちた種は芽を出したのですが、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまいました。茨の間に落ちた種は、茨が伸びてそれをふさいでしまいまた。しかし、良い土地に落ちた種は実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなりました。そして主イエスはおっしゃったのです。「耳のある者は聞きなさい。」神様が蒔いてくださった信仰の種です。あなたの心の中でどの様にそだっていますか? この様に伺いました。「種を蒔く人」の譬えは大勢の人に向かって語られたのですが、その後で弟子たちにだけ、なぜ譬えを用いて語られるのか、その理由の説明と、「種を蒔く人」の譬えの解説をして下さいました。
実は本日与えられた「毒麦」の譬えも同じパターンとなっています。先ほど寒河江長老に読んでいただいた13章24節から30節で「毒麦」の譬えを大勢の人に向かって語られ、34節、35節には、なぜ譬えを用いて語られるのかの説明があり、36節以下で弟子たちの求めに応じて譬えの説明をなさったのです。そして43節。「耳のある者は聞きなさい。」この言葉で終わっています。実はこの譬えは大変多くのことを語っています。 
本日は神様がなさる「裁き」について注目したいと思いますが、まず「毒麦の譬え」を丁寧に追って行きましょう。13章24節。主は語り始められました。「天の国は次のように譬えられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。」 37節以下は主イエスの解説です。「良い種を蒔く者は人の子、すなわち神の独り子イエス様。 畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔」だ。「良い種は御国の子ら」とおっしゃいましたが、「種を蒔く人」の譬えから解釈すれば、「良い種、すなわち神様の愛、福音の種を素直に受け止めた人たち」のことでしょう。私たちがそうですね。反対に「悪い者の子ら」とは、神様が与えてくださる愛、福音を受け止められない人たち。すなわち、悪魔の誘惑に負けた「罪人」です。
さて、毒麦ですが、週報に毒麦と小麦と大麦の絵を載せました。それぞれが実ったときの絵ですから区別は容易ですが、穂が出るまでは見分けがつかないそうです。しかし、その頃には根が絡まってしまって毒麦だけを抜くことは出来ません。さらに収穫して脱穀した実は苦みに加えて弱い毒性があるそうです。ですから収穫の前に手間暇かけて、穂の部分だけを取り除きました。そのまま脱穀してしまえば、小麦まで使い物にならなくなってしまいますし、種麦に交じってしまえば、来年もまた生えてきます。農薬の発達していない時代に、毒麦は大変厄介な嫌われものであり、みんなが良く知っていたのです。26節。 芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』 主人は、『敵の仕業だ』と言った。ここで敵とは悪魔です。人が神様の愛を忘れて自分中心の生活をすることを最上の喜びとしています。
皆さんは少し意外に思われるかも知れませんが、この譬えは昔から「教会について語られているのだ」と言われて来ました。なぜでしょうか? 2000年に及ぶ教会の歴史には、外部からの迫害や圧迫だけではなく、教会内部に於いて様々な問題が生じたことが記録されています。初代教会はローマ皇帝を神として礼拝するようにとの命令に苦しめられ、激しい迫害によって多くの人が教会から離れました。やがてその迫害が止んだ時に、その人たちをどの様に迎え入れるのかが問題になりました。
1500年代、宗教改革者たちは堕落の極みにあったローマ・カトリック教会とその指導者たちを、主イエス・キリストを頭と仰ぐ、聖なる教会に蒔かれた毒麦と断じました。それ以降も、教会に様々な異端が入り込もうとしました。三位一体の神を否定し父なる神だけを唯一の神としたり、あるいは自分は主イエスの再臨だと述べる者が何度も現れました。しかし、そんな大げさなことではなくても、教会の頭が主イエス・キリストであることがどこかに行ってしまえば、様々な人間的争いが教会に起きます。残念ながら時々耳にしてきました。そんな経験から、私は赴任以来「うわさばなし禁止」を強調してきました。残念ながら、ほんの小さなことからお互いの不信が生まれ主イエスの愛を見えなくします。悪魔をよろこばせないためなのです。教会は残念なことに、毒麦が混じる危険を常に抱えているのです。
それだけではありません。教会の誕生はペンテコステの日に聖霊が降った時でしたから、主イエスがこの譬えを語られた時には存在していません。教会が混乱したときに聖書を読み直すことで、み言葉から読み取ったのです。主イエスは直接的には私たち一人一人の信仰について語られたのです。神様は私たちの心に信仰の種を蒔いてくださったのですが、悪魔もまた種を蒔いて、つまずきを与え不法を行う者へと誘います。13章28節以下です。 主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』「刈り入れの時」とは終末の時です。イースターの日に復活された主は、再び戻って来ることを約束して、40日目に神様の御許に帰られましたがそれがいつなのかは誰も知りません。 その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。(マタイ福音書24:36,44)しかし終末の時に、主が裁きを行われ悪を滅ぼされることが約束されています。13章41節42節。人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。13章43節。そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。 主イエス・キリストの愛、すなわち福音を受け入れた人は、主と共に神様の栄光を褒め称える幸せな時を送るのです。この譬えはクリスチャン一人一人に対しても、また教会に対しても、悪魔が蒔く毒麦の種への警戒を求めるのです。
先ほど、「この譬えは大変多くのことを語っている。」と申しました。整理しましょう。
1. この世には神様が蒔いてくださっている良い種から芽生えた麦が存在します。この麦については「種まきの譬え」で語られていました。「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」しかし、この麦を滅ぼそうとする悪の力、悪魔が蒔いた毒麦も確かに存在するのです。
2. 「神の国の内にいる人、即ちみ言葉に従う、いわゆる良い人」と「悪魔に心を売り渡した人、いわゆる悪い人」がおり両者は私たちには区別がつかないのです。殺人鬼はともかくとして、「良い人に見えるが実は」とか逆に「外見(そとみ)は悪いのだが」とか。結構思い当たるのではないでしょうか?
3. 一部だけを見て良い人、悪い人の判断をして裁いてはいけません。毒麦を抜いたつもりで間違えて麦を引き抜いてしまうことが起きるからです。
4. 裁きは必ず私が行う。しかし、裁きはその場ですぐにではなく、終末の時に行うとおっしゃるのです。週報に主イエスの言葉を二つ記しました。マタイによる福音書 7章1節2節。 人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。ヨハネによる福音書 5章22節。 父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。
5. 裁きの権能を持つのは私だけだ。なぜならお前たちを愛している私の裁きは、お前たちの全てを知って裁く正しい裁きなのだ。私に任せなさい、委ねなさい。主の言葉です。
皆さんは忘れていらっしゃるかも知れませんが、2015年度の教会総会で議決し、教区の承認と教団の同意を得て成立した、山形六日町教会教会規則、その44条に戒規が定められています。「戒規は、主イエス・キリストに対する冒涜と否認を退け、悔い改めへと導き、信徒を訓練するために定められたものであり、慎重に運用されねばならない。2項 教師及び信徒に対する戒規に関しては、教規及び戒規施行細則の規定による。」この様にあります。ここで教規と呼ばれています、日本基督教団の規則によれば、教会員に対しての戒規として戒告、陪餐停止、除名が定められており、長老会の2/3以上の賛成で執行されます。教師の戒規に関しては、これは教会ではなく教団の教師委員会に委ねられており、戒告、停職、免職、除名が定められています。
ここで湧いてくるのは「戒規」は「裁き」ではないのかと言う疑問でしょう。結論としては、教会規則が述べる様に「戒規」は「裁き」では無く、おかした罪を悔い改め、主イエスへの立ち返りを促す「愛の業」なのです。同じ罪を繰り返さない様にとの訓練の業なのです。しかし、その通りに受け止めるのには困難が伴うでしょう。皆さんいかがでしょうか? 残念ながら自分が誤ったことをして、長老会が聖餐停止の決定をしたとしてらどうでしょうか? 私ならば、自分の誤りを棚に上げて長老会の決定に反発するに違いありません。そして毒麦になるに違いありません。
ずいぶん前に聞いた、ある教会の長老さんの話です。この方は誠実に長老として教会に仕えていたのですが、誘惑に負けたのでしょう。自分が経営している会社の不正経理が発覚して取り調べを受けたことが報道されました。この長老さんは自ら申し出て聖餐停止の戒規を受けたそうです。戒規を受けた者は現任長老に留まることは出来ませんので辞任しました。その後この長老さんはどの様になったと思いますか? 礼拝に出席しなくなり教会をはなれて行ったのでしょうか? 彼は、現職の長老としての働きは出来ませんが、日曜日の朝いちばん早く教会に来て、会堂の窓を開けたり椅子を整えたりマイクをセットしたり、誠実に奉仕したのです。聖餐停止の期間が明けすべてがかたずいた後、教会総会で再び長老に選ばれたのです。聖餐停止の戒規は裁きではありません。主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』 この長老さんが経済犯罪に加担したことは、教会にとって伝道の妨げになったことでしょう。毒麦です。しかし、主の福音が支配する教会であり、主の支配に委ねる長老会であり教会員であった時、その祈りが聞かれ、毒麦は良い麦に変えられたのではないでしょうか。
実は、この世の裁判制度も本来の精神は同じはずなのですが、キリストの十字架刑が公開処刑であり苦しむ姿を見せしめにしてローマ帝国に逆らうことが無いようにした、その歴史に残念ながら留まっている様に思われます。この点でも、世の中の多くの人に主の福音を届ける務めが教会に委ねられているのです。
主の裁き、終末における裁きの時には、全ての者が主イエス・キリストの前に立たなければなりません。私たちのすべてをご存知になっている方の前です。だとしたら、私たちは裁きの時を恐れて生きなければならないのでしょうか? 最初に読んでいただいた旧約聖書ヨナ書4章10節以下は、神様が私たちを愛したくて、愛したくてショウガナイ方だと告げています。ヨナ書は神様の命令に逆らうヨナが、大きな魚に飲み込まれることで救われる話から始まる4章の短い物語です。今日家に帰られたら読んでいただきたいと思います。私たちが終末に於いての裁きを恐れる必要が無いと判るはずです。ましてヨナを愛し、堕落しきったニネベの町に住む人をも愛された神様は、独り子を与えてまで私たちを一方的に愛し続けてくださる方なのです。ですから、終末の裁きはクリスチャンにとって喜びの時であり希望の時なのです。 私たちの立ち位置を再度確認しておきましょう。神様は私たちの心に良い種、信仰の種を蒔いてくださいます。しかし、悪魔は毒麦の種を準備して蒔くチャンスを狙っています。この毒麦は一人一人の心の中で芽を出すだけではありません。教会の中にはびこることもあるのです。私たちは他人が、「神様と自分と隣人」を愛することから離れてしまっている、そのことには大変敏感です。
そして、神様に代わって裁く、正義の味方になることでしょう。実はここに悪魔の仕掛けた罠があるのです。そこに争いが起き広がって行くからです。しかし、それは見て見ぬふりをすることではありません。なぜなら毒麦となってしまった人をも神様は愛してらっしゃるからです。ではどうするのでしょうか? まず祈るのです。毒麦の為に祈るのです。その先にある直接間接の働き、これは難しいものがあります。主に委ね時を待つ場合もあれば、具体的な行動が可能な場合もあります。さらに自分こそが毒麦だと知らされることもあるでしょう。祈るのです。そうです。毒麦の種は自分の心の中にも蒔かれるのです。罪の誘惑、様々な欲望が誘います。そんな私たちはたとえ罪に敗れることがあっても、主に立ち返ることが出来ます。なぜでしょうか? 主はこの後3度主を知らないと言ってしまうペトロにおっしゃいました。わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。(ルカ22:32) 主がまず私の為に祈っていてくださるのです。だとしたら、私たちも毒麦とおもえる人の為に祈ることから始めるのです。そして私たちは自分自身への裁きを恐れる必要はありません。パウロの言葉を一つお読みします。ローマの信徒への手紙10章13節 「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。 「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。最後にマタイ福音書13章43節です。 そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。祈りましょう。