HOME » 山形六日町教会 » 説教集 » 2021年6月27日

山形六日町教会

2021年6月27日

聖書:アモス書5章21~24節 フィリピの信徒への手紙2章1~8節
「キリストを模範に」波多野保夫牧師

本日は、先週に続いてパウロがローマの獄中からフィリピ教会に書き送った「フィリピの信徒への手紙」からみ言葉を聞いてまいります。この手紙は直接的には2000年前のフィリピ教会に集う人たちに宛てて書かれたのですが、聖書として編纂され私たちを含めてすべての人に宛てられた手紙となりました。そこに聖霊が働かれるからです。
先週の復習です。4章4節 主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜
びなさい。やがてパウロはローマの獄中で処刑されたと言われています。手紙を書き送った時点においても、常識的にはとても喜んでいられる状況ではありませんでした。 あなた方の状況は私に比べれば、はるかにマシなのだから「喜びなさい」と言うのではありません。彼はさらに「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。」とも言うのです。
6月13日の花の日礼拝では主のみ言葉を聞きました。野に咲く花を指して、イスラエルが最も栄えたソロモン王の時代だってこの花一つ程に着飾ってはいなかったではないか。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさちのことではないか、信仰の薄い者たちよ。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。 そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。
2週間ほどが経ちましたが、皆さんはいかがだったでしょうか?「思い悩む」
ことが全くなかった方は神様に大いに感謝してください。確かに悩み事と言っても、その広さや深刻さは様々でしょう。夕飯の献立から始まって、仕事や友人や家族のこと、さらに教会のこと。そして健康のことや金銭にかかわること。現在や将来のことだけではありません。「あんなことしなければ良かったのに。」と思い悩むこともあります。 個人差もあるでしょうが、私の場合、深刻なものはその深刻さに反比例して数は少いのですが、迷うこと、あるいは思い煩うことはそれこそ毎日あります。主イエスに「信仰の薄い者よ!」。こう言われてしまいます。困難に行き当たったときには、感じる余裕などないのですが、その困難を乗り越えることが出来た後で振り返って見ると、「思い悩む」ことに多くの時間とエネルギーを使っていたのではないでしょうか。自分が進むべき方向、あるいは本当に解決しなければならないことが分かった後の方が、楽だったのではないでしょうか。 主イエスは明確に、「自分が進むべき方向、あるいは本当に解決しなければならないこと」を示してくださっています。 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。です。これが正解であることは揺るぎません。しかし、私たちがこの大正解を自分のものとしてしっかりと捉える、もちろんそれは祈りを通して与えられますが、その為には2つの問題があります。
一つは、今思い悩んでいることに対して、「神の国と神の義を求める」とは、まずは、具体的に何をどの様にすることなのかを見出すことでしょう。もう少し噛み砕いて言えば、「神様は私に何を望んでいらっしゃるのか。」を知ることです。どうでしようか? 実はこれってそれほど難しくないのではないでしょうか?  「薄々わかってはいるんだけど、ハッキリさせたくない。」なぜなら、今やっていることを変えなければならないから、でしょうか。
二つ目は、神様の望んでいらっしゃることと、自分の思いにどのように折り合いをつけるのかと言うごとです。いろいろな決断を迫られるごとがある中で、「悪いと判っていることから離れる」そんな場合を考えてみましょう。1961年と言いますから60年程前に青島幸男さんが作詞して、無責任男を売りにしていた植木等さんが歌った「スーダラ節」という歌が大ヒットしました。 私が中学生の頃です。歌詞を調べてみました。歌うのもなんですから読みます。「チョイト一杯の つもりで飲んで いつの間にやら ハシゴ酒 気がつきゃホームのベンチでゴロ寝 これじゃ身体(からだ)に いいわきゃないよ 分かっちゃいるけど やめられねぇ ア ホレ スイスイ スーダララック スラスラ スイスイスイ」これを繰り返します。「波多野先生、説教の中で大丈夫ですか?」こんな心配をかけてはいけないのでパウロの言葉です。
わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。 わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。  もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。 それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。 「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。 わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えている
のです。 ローマの信徒への手紙7章18節以下です。植木等さんが歌う無責任男も、使徒パウロも、そして私も。皆さんもでしょうか?やっちやいけないこと、改めなければいけないことは分かっているのです。
神様が与えられた十戒に代表される律法は、愛する私たちが幸せな人生をおくるためのものです。全部で613に及ぶそうですが、イエス様は「神様と自分と隣人を愛しなさい。」とその核心を教えてくださいました。ですから、私たちが「神様と自分と隣人を愛しなさい。」と言う戒めに悖(もと)る、あるいは逆らうのであれば、それは「罪」です。私たちの「罪」、「やらなければいけないこと、やってはいけないこと」は明らかなのにも関わらず、繰り返してしまう。パウロは「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。」と言い、植木等さんは「分かっちゃいるけど やめられねえ」。この様に歌ったのです。どぅでしょうか? わたしたちも同じなのではないでしょうか?
では「神の国と神の義を求める」にはどうすれば良いのでしょうか?本日与えられたフィリピの信徒への手紙2章1節以下には「キリストを模範とせよ」と言う小見出しが付けられています。そうです「キリストを模範」とするのです。
最初に6節から9節です。この箇所は「キリスト賛歌」と呼ばれており、おそらくは誕生したばかりの教会での祈りであり、賛美の歌をパウロが引用したのだろうと言われています。 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。 三位一体の神、真の神である主イエスは、愛の故に肉体をとって真の人としてクリスマスの晩に地上に来てくださいました。そして へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。この主がもし、真の神だけであって真の人でなかったのなら、そもそも私たちが「キリストを模範」にと考えること自体がばかげたことになります。なぜなら、それは神になろうとする試みだからです。
主イエスが、本当に人間だったことを聖書の証言から見ていきましょう。主イエスは私たちと同じように悲しみや苦しみ憤りと言う、誰もが持つ感情を持った方だったのです 
1. 主イエスは涙を流される方でした。 ラザロの死に際して、マリアの深い悲しみをご覧になった主は、死が愛する彼女を支配していることで、心に憤りを覚え、涙を流されました。(ヨハネ11:28-)そして父なる神に祈り「ラザロ、出て来なさい。」と大声で叫ばれたのです。 エルサレムに入城される際、やがてローマ軍に蹂躙(じゅうりん)されることも知らずに、神様に立ち返ろうとしない都を見て涙を流されました。(ルカ19:41)
2. 理不尽なことに苦しまれました。十字架の時が明日に迫った晩、オリーブ山での祈りです。苦しみ悶えいよいよ切に祈られ、汗が血の滴る様に地面に落ちたのです。
3. 間違ったことに対して激しく怒られました。「祈りの家」であるはずの神殿を金儲けの場にしてしまっていた人々には激しく怒りをぶつけられました。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。(マタイ21:12)「主イエスの宮清め」と呼ばれますが、この部分はまず、「祈りの家」を大切にした上で「キリストを模範に」した方が良いと思います。そうでないと単なる怒りの爆発に終わってしまいます。 この様に主イエスは、神であると同時に人だからこそ、私たちは「キリストを模範」として「神の国と神の義を求める」幸せな人生を歩むことが可能なのです。
しかし、1点だけ無理なことがあります。それは罪を犯されなかったことです。この点だけは私たちにはマネできません。罰としての十字架を負ってくださった主イエス・キリストに従って歩むだけです。自分の罪に気づいて主のもとに立ち返るだけです。 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。 
本日は主イエスが「へりくだる」方だったことに注目したいと思います。2章
3節から5節です。 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。パウロは主イエスご自身がそうなさったのだから、あなた方も「へりくだりなさい」と言います。神様の前で、そして自分と隣人に対して「へりくだる」必要があります。 例によって「へりくだる」の意味を辞書で調べてみました。【相手を敬って自分を控えめにする。謙虚になる。キリスト教で、おそれをいだいて、神のあわれみを請うこと。】 さらに「謙虚」は【ひかえめでつつましく、へりくだって素直な態度で人と接し、出しゃばったり驕ったりしない】この様にありました。
私たちがまず模範とすべきこと、それは主が何よりも「祈りの人」、神様との会話を絶やさなかったことですが、今日は立ち入りません。主がいかに「謙虚」な方であったかに注目します。主は生涯にわたって私たちの支配者ではなく、私たちに仕えてくださる方でした。週報に洗足の絵画を載せました。過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。食事の席から立ち上がりで上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。」(ヨハネ13:1-) 十字架を前にした晩、弟子たちの足を洗い、食事を共にし、聖餐を制定し、十字架への道を歩まれました。全てが神様への従順さと私たちへの爰に基づいた「謙虚さ」の故です。
パウロは言うのです。 2章3節から5節です。 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。
謙虚さを保つには自己評価、すなわち自分自身を正しく見つめることが不可欠です。過大評価は自己中心や自己顕示欲の強い人、うぬぼれている人を生み出し、鼻につきます。自分の弱さ、すなわちし「自分の抱える罪」に気づく必要があります。しかし、神様がこのような方も愛してらっしゃることを忘れてはいけません。では過小評価、「自分なんて、とてもとても」とか「自分には何もできない。」と言うわけですが、これもまた謙虚さの敵です。モーセは神様からエジプト脱出のリーダーに選ばれた時に、様々な理由を付けて、その役目から逃れようとしました。「私はいつも一緒にいる。力を与える。告げる言葉は私が授ける。」 この様におっしゃる神様に、4:13モーセは、なおも言った。「ああ主よ。どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください。」主はついに、モーセに向かって怒りを発して言われた。あなたの兄アロンは雄弁だ、彼の力もかりなさい。(出エジプト4: 13-)
「わたしはもう年を取った、体が弱い、人と話すのが苦手だ。自分には何も出来ない。」こうおっこしやる方にいつも申し上げています。「祈ることが出来るじゃないですか!」モーセと共にいてくださった神様は私たちと共にいてくださいます。モーセに力を与えられた神様は私たちに祈りの言葉を与えてくださいます。モーセにアロンを与えてくださった神様は、私たちに共に祈る仲間を与えてくださいます。さらにモーセの知ることの無かった主イエス・キリストを通して私たちは神様の愛を知っています。聖霊の働きを感じるのです。過大評価も過小評価も、愛を持って働かれる神様に対して、へりくだってはいないのです。私たちは、ただただ「神と自分と隣人を愛す」のです。
もう一つ大切なことがあります。生涯にわたって学び続ける姿勢です。自分の限界を知ることが出来るのに加えて、自然に学べば、野の花を美しく装う神様のみ業を見るでしょう。空を見れば壮大な宇宙を創造された方を、人体の仕組みを学べばその巧みな造りを、文学は人の心の動きの様を、歴史は人の行動パターンを、そして聖書の学びは神様の愛を知ります。
学ぶことをやめた権威筋と言う者は謙虚さを失いがちです。私たちも「昔、聖書を学んだから」というのでは同じになってしまいます。生きて働かれる神とめ出会いの時と場、それが信仰の友と共に守る礼拝です。主に出会い謙虚さを取り戻すのです。学び続けることで自分の小ささと神様の偉大さを知り、人を謙虚にするのです。謙虚な心で祈り続けることは神様の愛に心を向けさせます。「キリストを模範に」して歩む人生はステキナ人生です。 祈りましょう。