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山形六日町教会

2021年6月20日

聖書:詩編2編10~12節 フィリピの信徒への手紙4章4~7節
「思い煩うな」波多野保夫牧師

今週の週報に献堂107年と記されています。1911年の山形大火で焼失した旧会堂は再建され、1914年6月14日に献堂式が行われました。千歳幼稚園開園の2年前のことです。私たちは今、良く整えられたこの会堂で週ごとの礼拝を守ることが出来ていますが、これは決してたやすいことではありません。1914年の献堂は、諸先輩方と当時の宣教師たちの祈りが聞かれてのことでした。宣教師たちは本国の宣教団体によって支えられていましたから、まさに世界の祈りの結晶と言って良いでしょう。しかし、戦時中には軍事施設として用いるために解体されましたが搬送される直前に終戦を迎えたそうです。100年以上過ぎたこの会堂がきちんと整えられているために、多くの方の祈りがあったことは明らかです。諸先輩方とその祈りを聞き届けてくださった神様に感謝します。
先週はこの美しい会堂に美しい花々を飾って花の日礼拝を守りました。例年ですと子供たちと合同礼拝の日なのですが現在は大勢で一緒に礼拝をすることが出来ません。CSの礼拝も豊かな礼拝でしたが、また一緒に礼拝できることを願っています。
毎週、週報には次の週の説教題を掲げていますが、先週13日の説教題は「思い悩むな」でしたが、予告された今日の説教題が「思い煩うな」ですから「これ間違いじゃないんですか?」 この様に質問されました。実は間違いではありません。先週は花の日礼拝でもあることから、マタイ福音書6章25節から34節を通して、み言葉を聞きました。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。「信仰の薄い者たちよ!」。叱られてしまいました。健康雑誌にあった心配事やストレスへの4つの対処法を紹介しました。
① 適度な負荷と休養をとる。: しかし、働きすぎはいけないのですが、日曜日に朝寝坊をして、ごろごろするのも問題です。 
② 体を温める。:温泉も良いでしょうが、体と心が温まれば最高です。
③ 休養と睡眠をとりストレスを減らす。
イエス様の言葉。 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 それに続いて わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。心と体の健康を害さない範囲で働く、しかも人に感謝されるような奉仕が出来れば、快適な眠りが待っています。
④ 食生活を正して腸内環境を整える。 心の中を整えてくださる食事、それが主の聖餐です。
以上4つの対処法。すべてを満たすのがこの礼拝です。礼拝がいかに大きな恵みなのか。出席が叶わなければ時を覚えて祈ってください。私たちも回復を祈ります。
私が東京神学大学を卒業する際に、当時の近藤勝彦学長から「君たち駆け出しの伝道者は、箸の上げ下ろしにも神学しなさい。」この様に言われました。ここでの「神学しなさい」は難しい本を読むことではなく、「神様の働きに思いを巡らしなさい。」と言うことでしょう。
私は、確かに恵みが足りないと思えることに対しては敏感です。不満を探し出すことは天才級です。しかし、空の鳥、野の花を見なさい。思い悩むな! これは神様の与えてくださる恵みに敏感になることです。 信仰の薄い者たちよ。 主の戒めの言葉の意味は 「わたしを信頼しなさい! いつもそばにいて、あなたを愛しているのだから。」
先週、「思い煩い」をなくす方法、正確には神の国と神の義を求めるためのダメ押しの方法を紹介しました。6月の月報に記した「良心の糾明」です。一度は試していただいたでしょうか?
・自分自身を神の前に置いて,今日一日に神からいただいたことを感謝する.喜びや痛み,毎日の何気ない繰り返しの出来事すべてを. とあります。 この「良心の糾明」では、最後に主の祈りを祈ります。「途中で眠くなってしまったら寝ちゃってください。安らかな眠りは大いなる恵みです。」この様に語りました。

本日は先ほど読んでいただいたフィリピの信徒への手紙4章6節には どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。 とありましたので「思い煩うな」としました。ですから先週の週報にあった説教題は間違いではありません。
それでは「思い悩む」と「思い煩う」はどう違うのか? と言う疑問が湧くことでしょう。辞書によりますと「悩む」は 1. 決めかねたり解決の方法が見いだせなかったりして、心を痛める。 2. 対応や処理がむずかしくて苦しむ。困る。 3. からだの痛みなどに苦しむ。また、病気になる。4. とやかく言う。非難する。 とあります。私には大変身近な言葉です。
「煩う」は 1. あれこれと心をいためる。思い悩む。 2. 病気で苦しむ。3. うまくいかないで苦労する。難渋する。 とあります。
そして「思い悩む」は 「あれこれ考えて苦しむ。思い煩う。」であり、「思い煩う」は 「あれこれ考えて悩む。」とあります。 要するに「思い悩む」と「思い煩う」に差はありません。同じなんです。
それでは、主イエスが「思い悩むな」とおっしゃり、パウロが「思い煩うな」と言っているのは、どうでしょうか? 実はこれも同じなのです。両者に違いはないのです。ギリシャ語で書かれている新約聖書原典では、どちらもメリムナオ(μεριμναω)と言う同じ単語が用いられています。さらに以前礼拝で用いていました口語訳聖書では あすのことを思いわずらうな。となっていました。私たちの新共同訳聖書がわざわざ「思い悩む」「思い煩う」と両方の言葉を用いているのは、現代は複雑さが増しており、その原因やもたらす結果が多様化しているからなのでしょうか? 
しかし、大切なのは「思い悩んだり、思い煩う必要は無いのだ。」と告げる主イエスと使徒パウロの言葉です。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。このみ言葉に忠実に従って、私たちが幸せな人生を歩むことこそが主のみ心なのです。

さて、本日与えられましたフィリピの信徒への手紙はパウロがローマの獄中から書き送った手紙だと言われます。この時のフィリピ教会は、「思い煩う」のに十分な状態にありました。パウロはある日、川べりで祈るために集まっていた婦人たちに向かって主の福音を語り、そのリーダーで紫布を商うリディアが信仰を受け入れました。そして、彼女とその家族が洗礼を受けて誕生したのがヨーロッパ初のフィリピ教会でした。使徒言行録16章が伝えています。この教会はエルサレム教会への献金運動を始めパウロの伝道活動を支え続けました。その様な教会が困難に陥っていたのです。それは教会内の分裂であり争いでした。
しかし、この手紙で彼はその分裂の原因が何であるのかを明確には述べていません。確かに、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多い(3:18)と指摘し、誤った教え、キリストの十字架での死を無駄にする教えを説く者に対しては激しく非難します。あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい。彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。(3:2,3) 古いユダヤ教の慣習にこだわることは新しい命にみなぎったキリストの福音を無にすることなのです。 しかし、分裂の原因を明らかにして裁くのでは無く、分裂を乗越える、乗越えて主イエス・キリストの福音のもとで教会が一致することこそがパウロの願いであり、祈りでした。教会内が分裂して争う。大きなものではローマ・カトリック教会とプロテタント教会の間の600年に及ぶ争いがありますが、多くの教会が内部で争った歴史を持っています。
争いの始まりは主の福音の理解であり主の愛をどの様に表すのかと言う高邁(こうまい)なものであったとしても、やがては人と人との争い、グループとグループの争いになり、主の福音が見えなくなってしまう場合が多いようです。残念なことです。その対立を乗越えて正しい福音に立ち返ること。そのための最良の方法を彼は述べます。4章4節。主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。
日本基督教団、石橋秀雄総会議長の話です。ある時、教会員が分裂して争っている教会に招かれて礼拝説教をしたそうです。礼拝後の集いは分裂していた教会員同士がやっと顔を合わせたものの、沈黙が支配するまことに居心地の悪い場でした。見渡すと、両グループの間に大きなわだかまりがあることがハッキリ分かったそうです。そこで石橋議長は「皆さん大きな声で笑いましょう。わっははは、わっはっは。さあ皆さんも続いて、わっはっは・・・」これをみんなで5分以上続けたそうです。その結果はお分かりでしょう。争っていた全員が聖霊に心を明け渡したそうです。自分たちの争いが人の思いに支配されており、先立つ礼拝で語られた主の福音から遠く離れていることに気づいたのです。そして怒りや恐れが支配し思い悩んでいた心は、急に軽くなったことでしょう。
バビロン捕囚からの解放を告げる預言者イザヤは言いました。 わたしは主に、よって喜び楽しみ わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。主は救いの衣をわたしに着せ 恵みの晴れ着をまとわせてくださる。花婿のように輝きの冠をかぶらせ 花嫁のように宝石で飾ってくださる。大地が草の芽を萌えいでさせ 園が蒔かれた種を芽生えさせるように 主なる神はすべての民の前で 恵みと栄誉を芽生えさせてくださる。(イザヤ書61:10,11) 
2021年を歩む私たちですが、どんなに厳しい状況に置かれたとしても主に立ち返る、主の愛に気づいた時に、私たちは喜ぶことが出来るのです。気づきを与えてくれるきっかけは様々でしょう。分裂して争っていた教会では、主の福音を告げる説教の言葉と、大きな声で「わっはっは、わっはっは」と5分以上続けたことだったのです。
4章6節 どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。祈りの3要素は、ありがとう・感謝。ごめんなさい・罪の悔い改め。そして、お願いします。この様にいつも申し上げています。思い煩うことをやめる、やめることが出来る、そのために祈りを欠かすことは出来ません。分裂していた教会は、大きな声で「わっはっは、わっはっは」と5分以上続けたあとで、皆で祈ったそうです。
天にまします我らの父よ。願わくは御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。我らを試みにあわせず、悪より救いいだしたまえ。国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

週報に「思い煩う」あるいは「思い悩む」と翻訳されているギリシャ語を書き出しました。メリムナと言う名詞は 世の思いであり、富の誘惑によって増し加わります。放縦の生活や深酒、こんなものは体に悪い上に家庭や友人関係も破壊するでしょう。教会についての心配事も指摘されています。分裂している教会が一致を取り戻すことが出来た切っ掛けが「わっはっは」だったことは確かです。しかし、それは説教を通して語られた主の福音を受けた後の出来事だったのです。対立していた両方のグループは福音を聞く耳を持っていたのです。種まきの譬えの最後で主はおっしゃいました。耳のあるものは聞きなさい。4章6節7節 どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。 そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。
思い悩んでしまう時には、まず神様が昔与えてくださった恵みを思い出してみましょう。必ずや思い至るはずです。その次に現在与えられている恵みです。空の鳥や野の花に目を向けると、思い当たるのではないでしょうか。6月の月報にある「良心の糾明」が役立つかも知れません。そして、その後で「思い悩んでいること。」その原因がどこにあるのかを考えてみてください。そしてその思い至った原因を解決してくださるように神に打ち明けるのです。「神様、こうしてくださるようにお願いします。」と言葉にして祈るのです。
先週、「思い悩み」の原因の一つとして、物事を自分だけで解決できると考えてしまうことを挙げました。「実は、自分の人生を自分でコントロールできると考えれば考えるほど、心配事は増えるのです。」この様に申しました。最良の方法はもちろん礼拝を共にすることですが、それが叶わない時であっても信仰の友と祈りを共にするのです。電話で祈ることもできます。
以前お世話になった教会の会員の方の話です。彼の家族は、奥さんと小さな子供、それに彼の両親が一緒に住んでいました。山形でも減っている大家族です。奥さんは結婚以前からフライト・アテンダント、客室乗務員の仕事を続けて来ましたが、そこに襲ってきたコロナ禍です。思い悩み恐れたのは、大勢の旅行者と接する彼女がウィルスを家庭に持ち込むことでした。決して経験が豊かでない彼女は、一旦休暇制度を利用すれば、いつ復職できるか分かりません。家族で何度も何度も祈った結果与えられた結論は、家族の安全を第一にすることでした。彼は言いました。「確かに家計は大変です。しかし、家族が多くの時間を一緒に過ごせています。その大切さに気付かせてくださったのは神様の恵みなのです。」
やがてパウロはローマで処刑されたのですが、獄中からあなたに宛てて送られた手紙をお読みします。
主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。祈りましょう。