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山形六日町教会

2021年6月13日

聖書:詩編10編14節 マタイによる福音書6章25~34節
「思い悩むな」波多野保夫牧師

例年この季節になると、会堂入り口の教会花壇から始まって文翔館へと美しい花々が咲き誇っています。6月の第二日曜にはCSの子供たちと一緒に花の日の礼拝をまもっていますが、今年は叶いません。子供たちと一緒の礼拝が回復されることを願っています。花の日礼拝は1856年にアメリカの教会で始まったそうです。子供たちや教会員が花を持って集い、礼拝のなかでは子供祝福式も行われました。そして礼拝後には子供たちが花を持って近隣の病院や老人施設、あるいは警察などを訪ねたそうです。
私たちの山形六日町教会は週報の表紙にあります様に1887年にポール宣教師などの祈りによって建てられ、千歳幼稚園は1916年にクリーテ宣教師夫妻を始め多くの方の祈りによって建てられました。花の日礼拝が始まって半世紀ほどの頃です。宣教師たちが故郷に咲く美しい花を思い浮かべながら、改革長老教会の信仰と共に故国の習慣を伝えてくれたのかも知れません。
先ほど司式の細矢長老に読んでいただいたマタイによる福音書6章25節以下は、「山上の説教」の中で語られたみ言葉です。厳密にいえば、たとえ話ではありませんが花の日礼拝に相応しい聖書箇所です。なぜ、思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。
確かに花たちをみながらこのみ言葉に接すると、思い悩みが小さなことに感じられます。花たちが思い悩みから無縁だからでしょう。しかし、残念なことに、わたしは日々の生活において、あるいは人生の岐路に当たって、思い悩むことに事欠きません。
言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。信仰の薄い者たちよ。 主に叱られてしまいます。
これは思い悩みではないのですが以前から疑問に思っていたことがあります。この山の上の説教ですが、4章の終わりの部分から5章の初めにかけて次の様にあります。イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。 そこで、イエスは口を開き、教えられた。 腰を下ろされたイエス様の周りに弟子たちが座り、そのまた周りに大勢の群衆が取り囲んで話を聞いたのでしょう。座ったままでしかも5章から7章に及ぶ長い説教です。大声を張り上げ続けるわけにはいかなかったでしょうから、皆が聞き取れたのか? と言う疑問です。近くに座っていた弟子たちが、説教の切れ目ごとに後ろを向いて群衆に語り伝えたと言うのは不自然です。実はガリラヤ湖の周りに高い山はありません。現在小高い丘の上に「山上の垂訓教会」と言うカトリック教会が建っていますが、ここからでは声が散ってしまいます。数年前にガリラヤ湖の畔(ほとり)を訪ねたある牧師の話を聞いて納得しました。湖に向かってすり鉢状になった丘の中腹のようなところがたくさんあるそうです。ちょうどメガホンを半分に切った口元の位置にイエス様が座り、丘の上に向かって座っている群衆に話をされたと言うのです。この様な形だと声が遠くまで届くことが知られており、ローマの円形競技場はこのような構造になっていました。週報の裏面にその様子を載せました。
「心の貧しい人々は、幸いである、 天の国はその人たちのものである。 悲しむ人々は、幸いである、 その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、 その人たちは地を受け継ぐ。 義に飢え渇く人々は、幸いである、 その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」大勢の人がこの様にして「神の国」を解き明かす説教を直接耳にしたのです。しかし、主イエスの声を聴くのは2000年前のガリラヤ湖周辺に集まった群衆と弟子たちだけではありません。私たちは今、聖書を通して主のみ言葉に接し、そしてハッキリと聞くのです。
6章25節以下の聖書箇所ですが、「最近礼拝で聞いた」と思われた方もいらっしゃることでしょう。一月ほど前に、新しいぶどう酒は新しい革袋にいれなさい。と言うみ言葉を聞きました。新しいぶどう酒とは私たちの常識を超えた主の福音です。主イエスがその言葉と業で示して下さった神様の愛です。「古い革袋」とは、柔軟性を失って主イエスが伝える福音を受け留めることのできない心です。【コロナ禍だけでなく一人一人が重荷を負っている中にあっても、思い悩んで下を向いていたらおかしいですね。主イエスに従い、週報に印刷されている年間主題にある様に「揺るがぬ希望をもって」歩む山形六日町教会であり、連なる一人ひとりでありたいと思います。】この様に語りました。
それから1か月たちました。思い悩むことがあったでしょうか? なかったでしょうか? 変化の激しい現代社会に生活する私たちです。残念ですが思い悩みがつきまとってきます。私は多くの教会が会員の減少と高齢化に苦しんでいることが心にかかっています。山形六日町教会も例外ではありません。心をよぎる様々な思い悩みですが、その深さを増していくと心の病につながります。発展途上国に比べていわゆる先進国では3倍ほどの方が心の病に苦しんでいるとのことです。
経済的な発展は人を幸せにするばかりではないようです。日本でも、現代医学のもとで様々な療法や薬が開発され用いられているものの、厚生労働省の統計では2017年度で420万人の方が通院または入院されているとのことです。なぜ、この様な数字を挙げて申し上げるのかと言えば、私たちはその原因の一つ「思い悩み」にどう対処すればよいかを知っているからです。
主のみ言葉を聞いて行きましょう。25節 だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。思い悩みの始まりが「何を食べようか、飲もうか」あるいは「何を着ようかといったこと」本当に大切な「体」や「命」の周辺のことにあるのだと言う鋭い指摘です。本当に大切なこと、「体」であり「命」すなわち波多野保夫と言う人間は神様の愛のもとにあるのだ。神様は「お前たちを愛したくて愛したくてしょうがない。」方なのだとおっしゃるのです。いかがでしょうか?主イエスは身近に目に触れるものを用いて話をされます。この時ガリラヤの空を鳥が飛び、みんなが座っているところに野の花が咲いていたのでしょう。私たちの今日の礼拝にはこれらの花がありますが、パレスチナ地方の草原にはアネモネが咲き乱れました。現在イスラエルの国花、国の花になっています。枯れてしまえば、かまどで煮炊きをする際の燃料となりました。空の鳥ですが、同じマタイ福音書10章29節以下に次の様にあります。 二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。 あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。 だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。 一アサリオンは百円ほどでしょうか。「神様は、価値の低いスズメも愛してらっしゃる。その神様はあなた方のすべてをご存知の上で深く深く愛してくださっているんだ。私をあなた方の罪の為に十字架に架けてまで、愛してくださっているのだ。私が十字架上でおおいなる苦しみを味わったのもすべてあなたがたが思い悩みに支配されるのではなく恵みの内を幸せに歩むためなのだ。だから百円で売られているスズメや、炉に投げ入れられる草花よりあなた方の価値が劣るなんてありえない。思い悩むな・恐れるな、私の言葉を信じなさい。神様の愛を信じなさい。」主イエスはこの絶対的な真理を繰り返し繰り返しおっしゃいます。なぜならそれが福音の核心だからです。
6章27節 あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。 思い悩みが寿命を延ばすことはありません。寿命を縮めます。いわゆる健康寿命も縮めます。心配やストレスが続くと、心拍数や血圧が上がり頭痛がしたり呼吸が乱れたりします。免疫力の低下もあるそうです。ある健康雑誌に次の様な対処方法が書かれていました。
① 適度な負荷と休養をとる。: しかし、働きすぎはいけないのですが、日曜日に朝寝坊をして、ごろごろするのも問題です。 
② 体を温める。:温泉も良いでしょうが、体と心が温まれば最高です。
③ 休養と睡眠をとりストレスを減らす。:イエス様の言葉が思い起こされます。疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。休養です。続けて、わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。 イエス様は、ほとんどの重荷を担いながら私たちを鍛え立ち直らせてくださいます。私はいつも保養所とリハビリだと言っています。心と体の健康を害さない範囲で働く、しかも人に感謝されるような奉仕が出来れば、快適な眠りが待っています。
④ 食生活を正して腸内環境を整える。:心の中を整えてくださる食事、それが主の聖餐です。
①から④までの対処法を紹介しました。いかがでしょうか? これって、教会の礼拝に集いみ言葉に耳を傾け賛美し祈り献げ奉仕する。教会であるいは社会で神様と隣人の為に働く。現在は出来ないのですが、楽しい食事の時を共にする。それでもなお心に残る心配事があれば信仰の友に祈ってもらう。これは私たちに与えられている礼拝を中心とした生活そのものです。さらにダメ押しです。自宅で聖書に親しみ祈りの時を持つことで、主イエスが共にいてくださることがさらに身近に感じられます。その際に古(いにしえ)のクリスチャンが行っていた一つの方法を紹介しましょう。本日発行された6月度月報の3ページに説明を付けて「良心の糾明」と呼ばれる訓練の表を載せました。後で見て実行してみてください。今はいくつかを読みますので聞いてください。
・自分自身を神の前に置いて,今日一日に神からいただいたことを感謝する.喜びや痛み,毎日の何気ない繰り返しの出来事すべてを.
・一日の出来事とそれに対する私の反応(心の動き)を振り返り、それを通して,神はどの方向へ導こうとされたのか,神は私に何を語ろうとされたのか,何を呼びかけていらっしゃるのかを見る.それに対して、私の反応は神に向かおうとしていたか,それとも逆に神から離れようとしていたか振り返る.
・神の愛や呼びかけに応えなかったことを痛悔し,赦しを願う.
・神からいただいた恵みに気づいたら,感謝をする.・いやされていない傷には,いやしを願う.
この他にもありますが、最後に主の祈りを祈ります。途中で眠くなってしまったら寝ちゃってください。安らかな眠りは大いなる恵みです。
さて、心配は心配を呼びます。思い悩めば悩むほど悩みは深くなるのです。そもそも最初に原因となった心配ってなんでしょうか?思い出せないことが多いのではないでしょうか。もしはっきりとそれがわかるのならば解決の道は必ず見つかるでしょう。最適な相談相手もいることでしょう。私たちはお互いに祈り合う仲間、主イエス・キリストにつながる兄弟姉妹なのです。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。
今ここにある花たちですが、来週の礼拝の時まで持つ花はほとんどないでしょう。私たちの命です。百年後の世界を見ることが出来る人はおそらくないでしょう。全員に、しかも確実に死の時は訪れます。この後教会墓地で墓前祈祷会が持たれますが納骨堂に彫られています「我らの国籍は天に在り」この言葉は、生きている時も死を迎えた後も神様の恵みのもとに置かれていることを表しています。墓前祈祷会では教会墓地に葬られている方だけではなく先に召された全ての方を偲びたいと思います。その生涯が神様の豊かな恵みの中にあったことを感謝したいと思います。信仰を持たずに召された方、その方の為にもぜひ祈ってください。神様は祈りに答えて良いものを下さるでしょう。
主は「思い悩むな」とおっしゃいます。思い患いに身をすり減らし、不安におののくのであれば、私たちの人生から喜びは取り去られてしまいます。「思い悩む」その原因の一つに、物事を自分だけで解決しようとすることが挙げられます。自分の人生を自分でコントロールできると考えれば考えるほど、心配事は増えるのです。これは努力を否定しているのではありません。もちろん精いっぱい努力すべきです。その努力が「神様と自分と隣人を愛する」ものでありたいと思います。しかし、自分の努力でなんでも解決できると思うのであればそれは間違いです。いわゆる人生の成功者と見なされる人、事業に成功した、高い地位を得た、有名になった。そういう人が手にしたものも神様の前では「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草」と変わりません。「我らの国籍は天に在り」。私たちは、やがて神様の御許に立つのです。
34節 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。私たちは過去を変えることは出来ません。将来の指針を得るために過去を振り返るのです。そして過去を振り返ってみれば、その時は気づかなかった神様の愛が見えてくることでしょう。だとしたら神様を信頼して明日に向かえば良いのです。しかし、これは地震や自然災害への備えをおろそかにすることではありません。むしろ、神様が与えてくださった科学的知見に基づいてしっかり備えるべきです。同じ科学的知見に基づけば、全員が必ず迎える死の時に対して備えを持つべきです。これは葬儀の手はずを整えたり身辺整理をすることではありません。神様のみ前に立つ時に向かって信仰の備えをしっかりと持つことです。
6章33節 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。「神の国と神の義を求めなさい。」とは、十字架を負ってくださった主イエス・キリストに従って生きることです。「神と自分と隣人を愛すること」です。そうすれば、思い悩みが心の中に生じる隙間なんてありません。これこそが最も大切な備えであり、同時に喜びの人生を保証してくれるのです。最後にイザヤ書40章8節をお読みします。50年に及ぶ苦しみの時、バビロン捕囚からの解放を預言します。 草は枯れ、花はしぼむが わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。祈りましょう。