HOME » 山形六日町教会 » 説教集 » 2021年6月6日

山形六日町教会

2021年6月6日

聖書:詩編97編10~12節 マタイによる福音書13章1~9節
「種を蒔く人」波多野保夫牧師

説教シリーズ「たとえて言えば」の第3回です。主イエスがしばしば譬えを用いて「神の国」の真理を語られたことが福音書に沢山記されています。 第1回は  「それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。」 このみ言葉を聞きましたが、その際に「山上の説教」が記されているマタイ福音書5章から7章23節を改めて読み直してください。この様にお勧めしました。み言葉の豊かさを感じられたことと思います。
シリーズ第2回は「新しいぶどう酒は新しい革袋に入れるものだ。」このみ言葉を聞きました。もちろん「古いものは何でもダメだ」この様におっしゃったのではありません。新しいものとは、主の福音です。私たちの想像を超えた新しいもの。それは真(まこと)の神が真(まこと)の人として地上に来られたこと。私たちの罪を負って十字架で死なれた、この方に従うことで、神様は「罪のない者」と見なしてくださり、永遠の命を与えてくださること。神様は独り子を与えてくださる程にまで、私たちを愛してくださっていること。この常識をはるかに超えた福音を新しいぶどう酒にたとえられました。福音は古く凝り固まった考えや思いを打ち破る力があるからです。
主の福音は愚にもつかない、どうでも良いものではありません。罪に汚れた私たちの心を破壊する力があります。そして、心を柔らかくしなやかにして受け入れることで、大きな恵みが与えられるのです。人の心に巣くう悪魔にとって、福音ほど不愉快なものはないのです。

本日は第3回です。司式の寒河江長老にはマタイ福音書13章1節から9節を読んでいただきましたが、この13章には数え方にもよるのですが8つの譬えが語られ、理解が難しい聖書箇所と言われています。そのいくつかは別の機会にお読みしたいと思いますが、本日は23節までを読み進めます。3節から9節は、主イエスが舟の上から大勢の群衆に話された「種まきの譬え」です。10節から17節では、弟子たちになぜ群衆には譬えで語るのかを明かされ、18節から23節でこの譬えの意味を解説されました。 10節以下に述べられた譬えを用いる理由から見ていきましょう。この説教シリーズ「たとえて言えば」の全体にかかわります。
11節~13節をお読みします。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。」 理解が難しい聖書箇所です。しかし、私たちは「見ても見ず、聞いても聞かず、理解できない」のではなく「見て、聞いて、理解できるのです」
なぜなら私たちは「天の国の秘密」を知っていますし感じることが出来るからです。この「秘密」と言う言葉は、他の聖書は秘儀・神秘・奥義などと翻訳していますが、聖書原典のギリシャ語ではミステリオン、英語のミステリーです。多くの人が知らないこと、理解できないことを意味しますが、名探偵は必要ありません。なぜなら「天の国の秘密」は主イエスが地上での生涯を通じて教え行われた福音そのものだからです。「あなたを愛しているよ!」と言う神様の叫び声そのものだからです。 しかし、主の福音は「分かった、分かった。そんなことは分かっている」では済まないんです。主の福音の中を生きて「神と自分と隣人を愛する」者に変わる必要があるんです。
主イエスは、そんな私たちに譬えを用いて語り掛け、より深く神様の愛を理解して幸せな人生を歩むようにと導いてくださいます。直接的に語られた相手はユダヤ人でした。彼らは子供の頃から知っていました。天地を創造なさった全知全能の神様は、奴隷だった先祖を力ある業を持ってエジプトから救い出してくださった愛の方だとよく知っていました。 
もう一つ彼らの有利な点は、イエス様が用いられた譬えの背景を知っていたことです。例えば種の蒔き方ですが、今山形市の郊外に出ますと苗床で育てられた稲がきれいに植えられていますが、パレスチナの種まきは袋から種を手に取ってばら撒くやり方でした。週報の裏面にあるのはミレーの絵です。
しかし、私たちは彼らが知らなかった主イエスの十字架と復活の出来事を知っています。ですから聖書の分かりづらい聖書箇所に出会ったときには「神様は私を愛してくださっているのだ。」このことを前提として読むのです。例えば、13章12節に、持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。とあります。金持ちがますます金持ちになるというのではありません。これは信仰の言葉です。私たちは持っている人でしょうか、それとも持っていない人でしょうか?確かに「わたしは信仰を持っています。」と言いにくい面があります。「えっ、そうなの?」と言われそうだからです。しかし、私は主の愛を知っています。皆さんもそうでしょう。主の愛を知る者はますます豊かに主の愛を知るようになります。
なぜならば生きて聖霊が働いてくださっているからです。これが「持っている人は更に与えられて豊かになる」の意味であり、そうでない人が最高の宝物を持てなかったり失うのであれば、私たちの出番です。主の愛をまだ知らない人に届けることが「隣人を愛する」最高の表現なのだといつも申し上げています。これが伝道です。
主が注いでくださる愛や恵みへの感謝の思いが薄くなって来る。残念ながらそんなことが起こり得ますが、そんなことに陥らない方法があります。それが週ごとの礼拝の大切な役目の一つなのです。信仰の先輩や友と一緒に集って主の愛を新たに感じるのです。集うのが叶わない時に礼拝の時を覚えて祈りを合わせるのです。
チョット分かりにくい13章12節。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」主が共にいて私たちを愛してくださっている。このことを前提にして理解するのです。イエス様は次にイザヤ書を引用し、そしておっしゃいます。17節。 はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。私たちは今、聖書と聖霊の働きを通して主の福音を見聞き出来るのです。
13章7節以下で群衆に語られた「種まきの譬え」を、18節以下で弟子たちにだけ解説されました。私たちは主イエスのみ言葉に聞く群衆であり、同時に選ばれて呼び集められている弟子ですから、両方から聞きましょう。主はおっしゃいます。9節です。耳のある者は聞きなさい。ばら撒かれた種は4種類の土壌に落ちました。皆さんの心に蒔かれている信仰の種はどうでしょうか? 4節。道端に落ちた種は、鳥が来て食べてしまった。19節 だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。仕事や家事や勉強などをまじめにコツコツと積み重ねてきた人の中に、変わることは必要ないとか、変わるのは怖いと思う人が多いそうです。自信であり自負心がそうさせるのでしょう。クリスチャンであれば、せっかく聖書を読み、礼拝に出席し、信仰の先輩や仲間と交わりを続けたとしても、心を柔らかくしなやかにして、罪を認め、恵みに感謝し、信仰の養いを願うのでなければ鳥が来て食べてしまいます。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。 石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。教会は楽しいところでなければなりません。そばにいてくださる主イエス・キリストを強く感じることが出来る場所だからです。しかし、一人一人の信仰が養われ成長していく必要があります。教会はこの世と接する最前線だけに、主の教会であることから離れて人の思いが支配する危険が常にあります。そんな時に躓かない方法は、主イエスを見つめ続けること以外にありません。その上で、教会にそして隣人に仕えるのであれば、私たちの信仰はしっかりと根付くのです。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。世の中の変化するスピードがますます速くなっており、残念ながら、いろいろと思い煩うことの多い日々があります。仕事、勉学、家族、友人、恋人、隣近所、健康やお金。先日発表されたサラリーマン川柳の最優秀賞は 「会社へは 来るなと上司 行けと妻」だったそうですが、台風の際に「明日は無理して出社しなくて良いよ。」と言われると、「私は会社にとって必要ない人間ではないか?」と不安になるのだそうです。ズーット思い煩いに心が支配され続けて来ると、思い煩うことが無いことが次の不安になるのだそうです。現在のコロナ禍にあって多くの方が不安を抱いており「いのちの電話」の働きの大切さが増しています。そんな時には閉じこもるのではなく人に接することです。私たちが主イエス・キリストの香りを届けられたら良いと思います。
私たちキリストの愛を知る者にとっても、残念ながら不安は付きまとうのではないでしょうか? しかし、私たちには特効薬があります。祈りです。なかでも秘密を打ち明けられる信仰の友と一緒に祈ることが一番良いのです。週報にも書いてあります様に必要ならば私に連絡してください。電話を通して祈ることもできます。
ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。それでは良い土地、すなわち蒔かれた信仰の種が育って多くの実を結ぶ、そんな心とはどのようなものなのでしょうか? 
1.心がひらいていること、しなやかなこと 
2.喜んでみ言葉を聞くこと。忙しさに流されないこと。コマーシャルじゃないですけど忙しいという漢字は「心を亡くす」と書きます。
3.主が自分に向かって何をおっしゃり、何を求められているのかを自分で考えチャント理解すること。
4.その上で神様の御心を実行することです。ここでも信仰の友と祈ることが出来れば最高です。

さて、あなた自身は、あるいはあなたの心は、道端の硬い踏み固められた土なのでしょうか。蒔かれた信仰の種は根を張る前に悪魔に食べられてしまいます。それでは、石だらけで土の浅い土地なのでしょうか。強い日差し、すなわちチョットした艱難に会ったり、気に食わないことがあればすぐに信仰が枯れてしまいます。茨の間に蒔かれた信仰は、心に根付くことがありません。出世欲、金銭欲、権勢欲など自己中心な思いが心を満たしていれば聖霊が住んでくださる余地は全くありません。最後が良い地にまかれた種です。わたしは最初の3つ。道端であり、石だらけで土の少ない所であり、茨の間、この3つにみんな当てはまってしまう様な気がしてしまいます。
司式の寒河江長老に最初に読んでいただいた詩編97篇10節です。主を愛する人は悪を憎む。主の慈しみに生きる人の魂を主は守り 神に逆らう者の手から助け出してくださる。この「種を蒔くひと」の譬えは、神様が蒔いてくださる信仰の種を受け取る私たちの心の有りようを述べています。「1.心がひらいていること、しなやかなこと 2.喜んでみ言葉を聞くこと。忙しさに流されないこと。コマーシャルじゃないですけど忙しいという漢字は「心を亡くす」と書きます。3.主が自分に向かって何をおっしゃり、何を求められているのかを自分で考えチャント理解すること。4.その上で神様の御心を実行することです。」でした。
この様にして信仰の種が私たちの心に根を下ろし枝をはるのであれば、悪魔が入り込む隙間は残されていません。主イエスから目を離さずに豊かな神様の愛の中を歩む事が出来ます。そしてたくさんの実を結ぶことでしょう。人が神様の愛を知らないこと、あるいは神様の愛から離れることを無上の喜びとする悪魔は残念ながら元気です。彼が狙っているのは私たち一人一人、すでに洗礼を授けて頂いた者であり、あるいは信仰へと招かれている者だけではありません。主の福音を知ることの無い多くの人たちもそうなのです。現代の日本ではクリスマスを知らない人はいないでしょうし、クリスマスが主イエスの誕生日だということも多くの人は知っているでしょう。決して悪いことではありませんが、イースターの意味を知る人は少ないでしょう。福音の核心、主イエスの十字架と復活の出来事を知る人はどのくらいなのでしょうか? 大変残念なことです。
豊かな恵みをいただいている山形六日町教会と集う私たち一人一人の責任は重いのです。教会はいろいろな機会にいろいろな試みをして山形の地に主の福音を伝えようとして来ました。祈って来ました。しかし、その実りは決して多くない厳しい現実があります。良い地に落ちる信仰の種は多くないのです。これが現実ではないでしょうか。しかし、この譬えの中で道端であり、石地にまかれた種は少なくとも発芽するのです。茨の中、すなわちこの世への思いにからめとられている人やこの世での成功に酔っている人への伝道は、祈りに覚えつつも一旦は聖霊にお任せする他ないかも知れません。茨もやがては枯れて光が差し込むようになるはずです。私たちが信仰を伝えたいと思う人の為に祈りを篤くするのであれば、必ずや発芽するでしょう。苗床を整えるために私たちが出来ることはあるはずです。どの様な土壌が適しているのかは人によって差があります。初めて礼拝に出席した際に、声をかけられたことがうれしかったと言う方もあれば、重荷だったと言う方もいらっしゃいます。愛を持って迎えれば良いのです。その時は冷たいとか逆におせっかいだと思えても、主の愛が伝わる日は必ずや来るからです。
現在、多くの教会が高齢化と会員の減少に苦しんでいます。私たちも例外ではありませんが、必ずや良い地に落ちる種は有るのです。そして実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなるのです。そのことを祈り求める私たちは、まず自分自身が礼拝を覚え、聖書を開き、み言葉に聞く者でありたいと思います。
最後に詩編97篇11節12節を読みします。神に従う人のためには光を 心のまっすぐな人のためには喜びを 種蒔いてくださる。神に従う人よ、主にあって喜び祝え。聖なる御名に感謝をささげよ。祈りましょう。