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山形六日町教会

2021年5月30日

聖書:詩編46編9~12節 フィリピの信徒への手紙2章6~11節
「へりくだりなさい」波多野保夫牧師

先週は教会の誕生日と言われます、ペンテコステの礼拝を守りました。復活された主イエス・キリストは、40日間、弟子たちに現れ神の国について語り、その後父なる神の御許に帰られたのですが、その際に、あなた方に聖霊が降ると約束してくださいました。それから10日後、イースターから50日後に弟子たちに聖霊が降ったのです。過越しの祭りを前にした日曜日に、主イエスはろばに乗ってエルサレムに入城されたのですが、それからペンテコステまでのおよそ60日間、弟子たちの心は、まるでジェット・コースターに乗っているように揺れ動きました。 人々はホサナ・ホサナと言ってまるで戦に勝った王様の凱旋パレードの様にイエス様をエルサレムに迎えいれました。弟子たちはこれで3年ほど仕えてきた苦労が報われた。力ある業と力ある言葉で神様に従う様に求めてこられた方を、大勢の人がやっと王として迎え入れてくれたんだ。主イエスご自身は、これから十字架の道を歩むのだと言われていたのですが、弟子たちには全く理解できませんし、理解したくありませんでした。自分たちを右大臣や左大臣として取り立ててくださるかも知れない。こんな思いが心をよぎっていたとしても不思議ではありません。
しかし、そんな夢のような日々は数日しか続きませんでした。おそらくは目ざとく自分の思い違い、主イエスがローマ帝国から解放する王になるという思い違いに気づいたイスカリオテのユダは、裏切ってユダヤの宗教指導者たちに売り渡しました。逮捕され、あれよあれよと言う間に死刑判決を受け、十字架に架けられてしまいました。その際、ペトロは3度主を知らないと裏切り、弟子は皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。(マルコ 14:50)のです。恐怖が彼らを支配していたのです。
3日目のことです。自分たちの夢が破れた二人の弟子が重い足取りでエマオに向かって歩いていました。一緒に歩いている方が復活の主イエスに気づいた時です。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合い、そして時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、 本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。(ルカ24:32-34) 大いなる喜びに包まれた様子が伝わってきます。
それからの40日間、復活の主にお会いして神の国についての話を聞いた(使徒1:3)五百人以上の人々(Ⅰコリント15:6)も同じ思いを抱きました。そして、天に帰られる主を見送った使徒たちは、エルサレムに留まり、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていました。(使徒1:14) しかし「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20)とおっしゃって昇天された主イエスにもうお会いすることは出来ません。興奮が冷め落ち着きを取り戻すにつれ、自分たちのリーダー主イエスを十字架に架けてしまった宗教指導者たちと群衆が、今度は自分たちを狙ってくるのではないか、こんな恐怖が襲ってきたとしても不思議ではありません。彼らは、心を合わせて熱心に祈っていた。のです。そして10日目に聖霊が降りました。五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。彼らが歓喜と失望、希望と恐れの交差するジェット・コースターから降りる時がやって来ました。教会の誕生です。先週のペンテコステ礼拝では赤い典礼色が掲げられていました。私は例年「聖霊様、熱烈歓迎!」と言う旗印の様に思っています。
しかし、もはや必要ありません。聖霊がいつも共にいて、導いてくださるからです。それだけではありません。私達が心を開くとき、聖霊が宿ってくださり力と知恵と勇気を与えてくださいます。「聖霊の内住」と呼ばれます。私たちの教会が、そして集う一人一人が主イエスを見失わないで歩む限りにおいて、もはや恐れに支配されることとは無縁なのです。これこそがクリスチャンに与えられた特権です。
「クリスチャンて、あれしちゃだめだ、こうしなきゃだめだって言われて不自由でしょうがないんだろう。まっぴらごめんだね。」確かに聖書には禁止命令があります。十戒だけでなく主イエスの言葉にもあります。マルコ福音書7章20節以下です。「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」こんなものが人を幸せにすることは絶対にありません。ですから主は遠ざかる様に命令なさるのです。先ほど心の内に聖霊が宿ってくださると申しました。聖霊が宿って下されば同じところに「悪い思い」が留まっているスペースはありません。
パウロは言います。ガラテヤの信徒への手紙5章19節以下です。 肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。この類のものを聖霊が心の中から追い出してくださるのですからクリスチャンこそ真の自由を知り、喜びの内に人生を歩むことが出来るのです。主イエスの言葉によれば、「神と、自分と隣人を愛して」歩む人生です。聖霊が心の内に住んでくださっている限りにおいて、それは可能です。主イエス・キリストを見失うことなく従って行く限りにおいて可能です。
 
では、どの様な時に私たちは主を見失い、聖霊を心に宿すことがやんでしまうのでしょうか? 本日与えられましたはフィリピの信徒への手紙ですが、実はパウロが囚人として送られたローマの獄中から書き送った手紙だと言われています。なぜこの手紙を書いたのでしょうか?それはフィリピの教会に集う信徒の間に福音理解の違いが生じていたからです。この教会の歴史をたどることから始めましょう。
フィリピは現在のギリシャにありますマケドニヤ州の第一の都市で、ローマの植民地として栄えていました。パウロは第二回伝道旅行でアジア州、これは今のトルコにあります町々を訪ねてキリストの福音を伝えようと計画していたのですが、聖霊によって妨げられ、このマケドニヤ州へと導かれました。キリスト教が初めてヨーロッパに伝えられた瞬間です。
使徒言行録16章11節以下がその様子を伝えています。 わたしたちはローマの植民都市であるフィリピに行った。そして、この町に数日間滞在した。安息日に町の門を出て、祈りの場所があると思われる川岸に行った。そして、わたしたちもそこに座って、集まっていた婦人たちに話をした。 ティアティラ市出身の紫布を商う人で、神をあがめるリディアという婦人も話を聞いていたが、主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた。そして、彼女も家族の者も洗礼を受けたが、そのとき、「私が主を信じる者だとお思いでしたら、どうぞ、私の家に来てお泊まりください」と言ってわたしたちを招待し、無理に承知させた。 このようにしてヨーロッパに最初の教会が誕生しました。家の教会と呼ばれます。神をあがめるリディアという婦人 とありますが、彼女はユダヤ教徒でした。しかし、律法厳守を求める指導者の言葉に「愛」を見出しえなかったのでしょう。パウロの話を注意深く聞いた彼女は、そこに主の福音を聞き取ることが出来たのです。主の福音がきちんと語られ、それをきちんと受け取る。私はそんな伝道者でありたいと思いますし、皆さんはそんなリディアであっていただきたいと思います。「そんな大変なこと波多野にも私にもできないでしょう。」「いえ、出来るのです。今この瞬間がそうではないでしょうか。」主イエス・キリストのことを思い聖霊に導かれて共に集い、み言葉に耳を傾け心を開く。そして賛美し、祈り、ささげる。フィリピの川岸に働いた聖霊が私たちを導いてくださっています。 
それではいつでも福音を正しく受け止められるのかと言うと、聖霊が働きかけてくださり「心を開いて主なる神に立ち返りなさい。主イエスに似た者となりなさい。お前を愛しているよ!」この呼びかけは変わりません。問題は私の側にあります。それはフィリピの教会が、そして集う一人一人が抱えていた問題と同じなのです。 ローマの獄中からパウロはキリストの愛を豊かに受けなさいと書き送ったのですが、これはフィリピ教会と集う者たちがその逆の状態、キリストの愛から離れた状態だったからなのです。2章1節から5節をお読みします。2:1 そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。 自己中心的な考えがはびこっていたのです。これは最初にお読みしたマルコ福音書で、主イエスの指摘された状況に違いありません。「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」 
もう一つ、教会が抱えていた問題があり、パウロの大変激しい言葉が3章2節にあります。 あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい。 異邦人キリスト者が多くいたフィリピ教会の中で、律法を厳格に守る様に求める完璧主義者たちが、キリストの福音、即ち「悔い改めと罪の赦し」を無にする教えを説くようになっていたのです。
もちろん伝道者は自分が出来る出来ないを越えて、神様のご命令でありお考えをキチンと宣べ伝えなければなりません。しかし、そこに愛が無ければ「騒がしいどら、やかましいシンバル」であり、無にひとしく何の益もないものなのです。(Ⅰコリント13:1-3)この様な「完璧主義」と「自己中心」と言う、主の愛から最も離れた両極端の考えに襲われていたフィリピ教会に対して、パウロはどの様にして、主に立ち返り、正しい福音の道を歩むのかを書き送ったのです。 そして、その結論は明白です。「主イエス・キリストに倣いなさい。」この一言です。
「説教シリーズ:あなたへの手紙」の第2回です。新約聖書に納められている多くの手紙は、それぞれの教会とそこに集う一人一人が抱える問題をどの様に乗り越えて、主の福音の中を歩むのかを人間が書き送った手紙です。しかし伝道者は聖霊の助けを祈って書きました。残された手紙を教会会議が聖霊の働きを祈って編纂し、聖書に加えました。だから私たちは人間の書いた手紙を神様の言葉として受け取るのです。ある状況下で書かれた、勧めであり、戒めであり、励ましであり、感謝の言葉が並びます。しかし、それは聖霊の火で精錬された言葉なので、置かれた状況が全く違う2000年後の私たちに語り掛けてくれます。「主イエス・キリストに倣いなさい。」です。

本日与えられました2章6節から8節までを要約すれば「キリストは、へりくだって、従順でした。」です。渡される前の晩、最後の晩餐の席から立って、弟子たちの足を洗ってくださった方は、今私たちの足を洗ってくださっているに違いありません。これが十字架に架かってまで愛し抜いてくださった、そして愛してくださっている主イエス・キリストです。今、聖霊が私たちに指し示してくださっています。辞書によれば「へりくだる」の反対は「おごる」「高ぶる」です。
旧約聖書に次の祈りの言葉があります。 驕り高ぶるな、高ぶって語るな。思い上がった言葉を口にしてはならない。主は何事も知っておられる神 人の行いが正されずに済むであろうか。(サムエル記上2:3)人の驕り高ぶりは全てをご存知の神様の前ではむなしいものです。私たちが持つべき「誇り」についてたくさん語っています。週報の裏面に記しました。この世での成功、出世や財産や高貴な人間関係を得たこと、最近では上級市民、上級国民などと言う言葉が言われますが、こんなものを誇ったところでむなしいものです。「キリストを誇る」ことは、私たちを「主イエス・キリストに倣う者」へと導いてくれます。
エフェソの信徒への手紙2章6節はイエス・キリストがどなたかをハッキリと述べます。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者でした。世界の始まりからおられた三位一体の神、父なる神、イエス・キリスト、聖霊は本質を一つとする神です。キリストは真の神です。7節はイエス・キリストがどなたかをハッキリと述べます。自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。完全な人間としてクリスマスに誕生された方は、苦しみも悲しみも喜びも味わわれ、私たちを深く理解してくださる方です。ただ一点を除いて真の人でした。その一点とは「罪」を犯されなかったことです。8節。へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。罪を犯さないとは、自己中心、すなわち自分の利益や栄光を追い求めるのではなく、愛し続けて下さる神様に従順であることです。 パウロは、フィリピ教会の人々に、そして私たちに言います。「主イエス・キリストに倣いなさい。」そんなことが私に、そしてあなたに出来るのでしょうか? 出来るんです。10節、11節。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。 皆さんはひざまずいたこと、おありでしょうか? 私が高校2年の秋に洗礼を授けていただいた時です。事前にその時の所作を教えてくれた牧師は、小さな座布団を出してきて「この上にひざまずきなさい。」と言いました。当時は特に意識しなかったのですが、この聖句に出会うと、形から入ることは大切だと思わされます。まず、ひざまずいて、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえる。これが洗礼を授けていただくことです。そして、心の中に聖霊をお迎えして「主イエス・キリストに倣う者、似た者」へとなっていく。「聖化」聖なるものへと変わっていくのです。幸せな人生がここにあるのです。
最後に週報に記しましたコリントの信徒への手紙Ⅱ 12章5節以下をお読みします。パウロからあなたへの手紙です。聞いてください。自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。仮にわたしが誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。だが、誇るまい。わたしのことを見たり、わたしから話を聞いたりする以上に、わたしを過大評価する人がいるかもしれないし、 また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。祈りましょう。