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山形六日町教会

2021年5月23日

聖書:イザヤ書41章9~10節 ローマの信徒への手紙5章1~5節
「希望は欺かない」波多野保夫牧師

本日は説教壇の前に下がっているクロスの色が鮮やかな赤になっています。典礼色はローマ・カトリック教会やルーテル教会では大変重んじられており、赤は血や聖霊の炎の色であり、受難週や聖人が殉教した日、そしてペンテコステの日に用いられるそうです。12世紀ころからの慣習だそうですが、このペンテコステの日、教会に与えられた聖霊を思い起すにふさわしい色です。ご一緒に主のみ言葉を聞いて参りましょう。
主イエス・キリストは私たちの罪を負って十字架に架ってくださってから3日目、日曜日の朝に復活なさいました。それからマグダラのマリアを始めしとして、500人以上もの弟子たちに現れ、40日間に渡って、神の国について話されました。今年はイースターが4月4日でしたから、40日目の5月13日が神様の御許に帰られた記念日でしたが、その時に残された言葉です。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」(使徒言行録1:4,5) さらに「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられた。(使徒言行録1:7~9) この時から現在に至るまで、主イエスは天にあって父なる神と共におられます。さてそれから10日後の日曜日、イースターから50日目にエルサレムに留まっていた弟子たちに聖霊が降りました。使徒言行録2章をお読みしますので聞いてください。
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。
集まっていた人たちに、聖霊は炎のような舌に見えました。自分たちの故郷の言葉で「あなたを愛しているよ!」と言う福音の言葉を聞いたのです。
今、主イエスが送ってくださった同じ聖霊が私たち山形六日町教会に働いてくださっています。信仰の友と一緒にこの礼拝に集い、主の十字架と復活を思い、「あなたを愛しているよ!」とのみ言葉を、聖霊の働きを受けて書かれた聖書と、聖霊に導かれて聖書を解き明かす説教によって、しかも日本語で聞いているのです。教会の本質は2000年前も今も同じなのです。
使徒言行録2章にペトロの説教があります、彼は25節以下でダビデが読んだ詩編を引用して主イエスを証ししました。
2:25-28 ダビデは、イエスについてこう言っています。『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、 わたしは決して動揺しない。 だから、わたしの心は楽しみ、 舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。 あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、 あなたの聖なる者を 朽ち果てるままにしておかれない。 あなたは、命に至る道をわたしに示し、 御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』(詩編16:8~11)  
週報の表紙に記されています六日町教会の2021年度年間聖句は『約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。』です。 どちらも、主イエスの福音「あなたを愛しているよ!」この言葉に裏づけられた希望であり喜びなのです。
そして聖霊を受けたペトロが語る説教を聞いた人々は 2:37-42大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。 すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。 この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」 ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。 ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。 彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。
説教によって悔い改めに導かれた人々は洗礼を受け、交わりを持ち、聖餐を受け、祈ることに熱心だったのです。三千人と言うところが残念ながらチョット違いますが、これはまさに山形六日町教会の姿です。「ペンテコステの日に聖霊が降り誕生した」教会と同じ姿なのです。
しかし、聖霊はこの日に誕生したのではありません。聖霊は天地創造の時から、父なる神と、子なる神である主イエス・キリストと共におられました。
創世記の冒頭分部です。1:1 初めに、神は天地を創造された。2 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。3 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。 「神の霊」とは「聖霊」のことです。
新約聖書ヨハネによる福音書の冒頭分部です。1:1-3 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 この言は、初めに神と共にあった。 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 神と共にあった「言」、は神様のお考えを何一つ欠けることなく伝えた主イエス・キリストです。父、子、聖霊、すなわち三位一体の神は初めからおられました。さらに主イエスは父なる神のもとに帰られる際、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる。 とおっしゃいました。三位一体の神は時間を超越されている方なのです。
しかし、聖霊が人類の歴史に於いていつも働きかけてくださったのかと言えば、そうではありません。旧約聖書の時代、聖霊は単に霊とか神の霊、あるいは風、息などとも呼ばれていますが、力を持って働かれる神様を示しています。
特定の時に、特定の目的で、特定の人にだけ強く働きました。モーセやヨシュアやサムソンに働き、ダニエルにも働きました。多くの預言者や祭司、あるいは王たちにも働きました。
ここで歴史の中に、繰り返されてきたことに注目しましょう。まず神様が恵みを与えてくださいます。その恵みに感謝します。しかし、そのうち恵みに慣れてしまいそれが当たり前に思えてしまいます。アダムとエバであり、ダビデ王がそうでした。悪魔の誘惑に心を許す隙が生じ、神様から目を反らして自己中心になっていきました。現代においては、聖書に親しみ祈り礼拝に出席する時間が減ることに現れるのでしょう。神様は立ち返ることを求められます。幸せな人生を歩むために様々なことをなさいます。イスラエルが神様を離れて行った時代には、多くの預言者を遣わし悔い改めを求められました。それでも罪に留まった時に、50年に及ぶバビロン捕囚と言う苦しみをも与えられました。神様の愛に気づき立ち返らせるためです。それ以外に真の幸せはないからです。
先週の「聖書に聞き、祈る会」でヘブライ人への手紙を読みました。12:6 主は愛する者を鍛え、 子として受け入れる者を皆、 鞭打たれるからである。 とありました。確かに人生には苦しみが伴います。その時にその苦しみの奥にある、神様の愛に気づくことが出来れば、さらに信仰の友の祈りに気づくことが出来れば、苦しみの中に喜びを見出し、神様のみ許へと帰るのです。あの放蕩息子の譬えの様にです。そして「揺るがぬ希望をもって」歩むことが出来るでしょう。週報の表紙に印刷されています。「約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。」年間主題聖句です。
この約束とは、神様が十字架において肉を割いて血を流してくださっての約束です。そして、その約束を確かに私たちが受け止めることが出来るように、受け止めて幸せな人生を歩むことが出来る様にと、今日も働いてくださっている。それが聖霊です。4世紀から5世紀にかけて活躍した神学者、アウグスティヌスは、「聖霊は父なる神と御子イエス・キリストを愛で結び、同時に三位一体の神と私たちを愛で結んでくださる神だ」と言いました。聖霊と言う愛の接着剤で私たちは三位一体の神と、しっかりと結ばれているというのです。
旧約聖書の時代、神様の大いなる愛をまず与えられたのはイスラエルの人たちだけでした。神様は何度も何度も悔い改めて幸せな人生を歩むように導かれたのですが、彼らは逆らい続けました。そこでとられた最終手段。それは再度のバビロン捕囚ではなく、主イエス・キリストの十字架の出来事でした。それだけではなく、同じ恵み、福音を全世界中の者に分かち、主に従う者に永遠のいのちに与る恵みを約束されたのです。なんという出来事でしょうか。一方的な愛です。しかもその約束を、私たちが確かに覚えて幸せな人生を歩む、そのために来てくださったのが聖霊です。生きて働かれる聖霊です。そして聖霊を受けてまず誕生したのが教会なのです。この山形六日町教会は2000年前に誕生した教会と本質的に同じ営みをしていると申し上げました。信仰の先輩たちが喜んで受け取り受け渡したくれた信仰です。
最初に司式の山口長老に読んでいただいたイザヤ書41章9節です。41:9 わたしはあなたを固くとらえ 地の果て、その隅々から呼び出して言った。
地球の裏側、地の果ての日本で私たちは礼拝を守っています。山形六日町教会に連なっている私たちに、主はおっしゃるのです。 あなたはわたしの僕 わたしはあなたを選び、決して見捨てない。恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け わたしの救いの右の手であなたを支える。 
次にローマの信徒への手紙5章1節以下です。 このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、 このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。
ここで神の栄光にあずかる希望を誇りにすると言うパウロは、コリントの信徒への手紙で「誇る者は主を誇れ」と言っています。自分を誇ることの虚しさを感じさせる言葉です。来週、改めて聞きたいと思います。
続けます。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。
先ほど、ヘブライ人への手紙12章6節を読みました。12:6 主は愛する者を鍛え、 子として受け入れる者を皆、 鞭打たれるからである。 とありました。神様は私たちが気づきを与えられて罪を悔い改め、そして主に立ち返って幸せを取り戻す。そのためには、苦難をも与えられる、そこまで大きな主の愛について語りました。あまりの大きさに主の愛が見えなくなってしまうこともあるでしょう。苦しみや怒りの故に主の愛を見失ってしまうこともあるでしょう。立ち返るのに長い時間がかかることもあるでしょう。
しかし、私たちは聖霊が2000年前に降って誕生した教会へ招かれています。そして教会を通して信仰が与えられました。「いや、私は自分で聖書を読んでキリストに出会ったのです。」 結構です。でもそんなあなたの為に教会の祈りがあり、友の祈りがあったのです。 「いや、そんなこともなかったみたいです。」良いでしょう。しかし、主イエス・キリストがあなたの為に祈っていてくださっているのです。これは確かです。
聖霊が宿る教会で洗礼を授けられたあなた、聖霊が宿る教会に招かれているあなた。そのあなたが心を開くときに聖霊は心の中に入って、そこに住んでくださいます。神学用語では「聖霊の内住」と言います。
その聖霊に生かされた信仰の大先輩、パウロは言うのです。 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。
以前お話しした、アルファ・コースでの話を繰り返しましょう。一人の青年が年老いた長老さんの家を訪ねました。長老さんは暖炉の前に招きましたが、二人は黙って座っているだけでした。しばらくして青年は「最近仕事がうまくいかないし、彼女ともシックリしません。礼拝も行く気がしないんです。」この様に語り始めました。それを聞いた長老さんは黙って火箸で真っ赤に燃えている暖炉の炭を取り出し脇に置きました。数分するとその炭は輝きを失い表面を白い灰が覆ってしまったのです。長老さんは火箸でその炭をつまみ暖炉に戻しました。するとくすぶっていた炭は再び輝きをとり戻したのです。彼は教会に戻りました。そして、聖霊がくださる輝きを取り戻したのです。
マルティン・ルターは日記に書いています。「家にいる時には熱心さも気力もない。しかし教会に行って礼拝に加わる時、私の心の中に炎が燃え上がり体の隅々にまで広がっていくのだ。」厳しい迫害の中での言葉でしょう。
主イエスの一番弟子と言われ、最後には殉教したペトロを、ガリラヤ湖畔でキリストの許に連れて行ったのはアンデレです。(ヨハネ2:42)私たちはペトロにはなれないかも知れません。しかし、アンデレにはなれるのです。様々な方がこのコロナ禍の中で苦しんでいると言われています。神の国は私たちの祈りに答えて聖霊が働いてくださることで広がっていきます。これが伝道です。
このペンテコステの日に赤いクロスを見ながらみ言葉を聞きました。天から降った炎のような舌の色であり、主イエスの流された血潮の色です。聖霊が降って誕生した教会に連なる時、聖霊は私たちの心の内に宿ってくださいます。力と勇気を与えてくださるのです。本日の説教題を「希望はあざむかない」としました。主イエスが送ってくださった聖霊を宿す山形六日町教会であり、連なる私たちだからです。喜んで主に従い、喜んで主の為に働き、喜んで主に献げていきましょう。 祈ります。