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山形六日町教会

2021年5月16日

聖書:詩編40編1~5節 マタイによる福音書9章16~17節
「新しいぶどう酒」波多野保夫牧師

説教シリーズ「たとえて言えば」の2回目です。先週の第1回では マタイによる福音書5章から7章にかけて記されています「山上の説教」の最後の部分7章24節以下からみ言葉を聞きました。それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。 ここで「これらの言葉」とは「山上の説教」全体だとして「私たちの生き方であったり、決断しなければならない時の導き手となるみ言葉がいっぱい詰まっている、マタイによる福音書5章から7章までです。今日、家に帰ったら、ぜひもう一度読み直してください。」この様に申しました。読んでいただいたでしょうか? 
私も改めて読み直して見ました。特に一か所ではガツンとパンチを食らい、もう一か所では慰めを受けました。「敵を愛しなさい」5章44節46節。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。当時の徴税人はローマ帝国の為に税金を徴収するだけでなく、その権威を笠に着て私腹を肥やしていましたから、一番の嫌われ者でした。そんな徴税人でも仲間うちでは助け合うじゃないか。「敵を愛しなさい。なぜなら私がそうしたのだから。」この様におっしゃいます。実はパンチを食らったのは次です。48節です。 だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。私が神様やイエス様と同じ様に完全な者となるなんて! 「しょせん無理だけれども、まあやってみなさい。チャレンジするのは悪くないから。」イエス様はこの様に考えて あなたがたも完全な者となりなさい。とおっしゃったのなら、「山上の説教」全体は「まあやってみなさい。」と言うことなのでしょう。しかし、違うんです。そうじゃないんです。ここで「完全な者」とは、すべてを創造された神様の持ってらっしゃる「完全性」のことではありません。「罪のない者」と言う意味です。私たちの罪に対する神様の罰、すなわち死を主イエス様は身代わりとなって負ってくださいました。すでに私たちの負うべき負債は支払われているのです。
さらに、主イエス・キリストに従うことで、「罪のない者」すなわち「完全な者」と見なしてくださるというのです。繰り返しましょう。主イエスを見失わないで従う私たちは「完全な者」なのです。これが、十字架の出来ごとが物語る神様の大いなるご計画であり、大いなる愛なのです。
もう一つは大いなる慰めの言葉です。6章25節以下にあります「思い悩むな」です。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」素晴らしい慰めの言葉ですが、野に咲く花をも装ってくださる神様の愛が語られています。6月第2週の「花の日礼拝」で改めてこのみ言葉を聞きたいと思います。
実は、先週の木曜日、13日は復活されて40日間、多くの弟子たちに会われた主が、神様の御許へと帰られた昇天日でした。弟子たちはペンテコステまでの10日間、迫害を受ける恐れを感じながらも、聖霊を与えていただく希望を持って待ったのです。
来週はそのペンテコステの日を覚えて礼拝を守ります。主イエスに心を向けて従うことで、「完全な者」と見なしていただいている私たちです。コロナ禍だけでなく一人一人が重荷を負っている中にあっても、思い悩んで下を向いていたらおかしいですね。 主イエスに従い「揺るがぬ希望をもって」歩む山形六日町教会であり、連なる一人ひとりでありたいと思います。

さて、今日与えられた主が語られたたとえ話です。まだ洗濯をしたことのない新しい布は水にぬれると収縮力が強いので、古い布のパッチに使うと、それを引き裂いてしまう。パレスチナ地方では、旅をする際に水を持ち運ぶと腐ってしまうので、ヤギ皮の表裏をひっくり返して作った皮袋にワインを詰めて持ち歩きました。新しいワインはまだ酵母による発酵が続いていますから、古い革袋では発生する二酸化炭素の圧力で破れてしまいます。柔軟性がある新しい革袋でないと持たないのです。
主イエスは、みんなが知っている常識を用いて、真理を語られました。 なぜこの様な譬えを語られたのかと言えば、先立ちます9章14節、15節です。そのころ、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と言った。 やって来たのは、主イエスにヨルダン川で洗礼を授けたバプテスマのヨハネの弟子たちでした。
まずバプテスマのヨハネについて復習しておきましょう。彼の母エリザベトと主イエスの母マリアとは親戚でした。(ルカ1:36)天使からの受胎告知を受けたマリアがエリザベトを尋ねた時、エリザベトのお腹の中でヨハネがおどったとあります。しかし、二人は30歳になるまで再会することはなかったようです。ルカ福音書3章に、バプテスマのヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。とあります。彼は、洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆に「蝮(まむし)の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。」「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ。」 この様に激しく神様の愛のもとに立ち返ることを求め、自分自身はらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。(マルコ1:6)とある様に、禁欲的な生活をして神様に仕えていたのです。
このように激しく福音を告げ悔い改めを迫る彼を見た人々は、心の中で「待ち望んでいたメシア・救い主ではないか」この様に考えたのですが、彼は皆に向かって言いました。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」
バプテスマのヨハネは救い主、イエス・キリストをハッキリと指し示したのです。 ところで、領主ヘロデは、自分の兄弟の妻ヘロディアとのことについて、また、自分の行ったあらゆる悪事について、ヨハネに責められたので、 ヨハネを牢に閉じ込めた。こうしてヘロデは、それまでの悪事にもう一つの悪事を加えた。(マタイ3:19,20) 神様を畏れ、人を恐れないヨハネはやがてガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスによって捕らえられ、獄中で首をはねられてしまったのです。(マルコ6:16-29)
マタイによる福音書9章9節に戻ります。 イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。 イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。 ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」 主イエスが来てくださったのは罪びとを招くためだとあります。ここを読むたびにホッとします。私も主に招かれているんです。
ユダヤ教の指導的立場にあったファリサイ派の人たちは「なぜあんな者たちと食事を共にするのか」と非難しました。そして9章14節。今度はユダヤ教の指導者たちの堕落を鋭く指摘していた、バプテスマのヨハネの弟子たちがやって来て言いました。「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」 私たちの先生、バプテスマのヨハネと一緒に私たちは、しばしば断食をして心を神様に向けている。なのに、あなた方は断食をしないだけでなしに、あんな罪びとたちと一緒になって食事をしている。いったいどういうことなのですか! 神様を冒涜しているのではないですか! 主イエスと弟子たちは、人々を律法に縛り付けるだけで自分たちは一向に悔い改めようとしないファリサイ派の人たちだけでなく、反対に律法を厳密にまもることで神様に立ち返ろうとするバプテスマのヨハネの弟子たち、そんな両者から責め立てられていたのです。 
主イエスの言葉です。15節。 イエスは言われた。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる。」断食は確かに「何か美味しいものが食べたい」と言って美食に心を奪われたり、あるいは3度の食事は当然で特に感謝を覚えない。そんな危険性から私たちを呼び戻してくれます。レント・受難節の期間に毎年ダニエルの断食を勧めています。
今、私たちは「花婿が奪い取られる時が来る。」この意味を正しく知ることが出来ます。十字架の出来事を知っているからです。しかし、彼らには分からなかったことでしょう。 それだけではありません。本日与えられた「たとえ」の真意を理解できなかったことでしょう。私たちも聖書のみ言葉が理解できない、あるいは神様のなさることが理解できないで「神様は私を愛してくださっていない」この様に思えてしまう、そんなことが確かにあります。
実は秘訣があるのです。聖書は聖書全体が語る「あなたを愛しているよ!」この神様の呼びかけを前提として読むのです。その時み言葉が輝くのです。語り掛けてくれるのです。同じように私たちの祈りに対する神様のお答えは、主イエスの十字架と復活の出来事を前提として聞くときに理解できるのです。神様の似姿に作られている私たちには、神様のなさることを理解する力が与えられているのです。
新しい布と新しいぶどう酒の話しは当時の人々の生活の中での常識でした。17節を読んでいきましょう。ここで言う「新しいぶどう酒」とは主イエスの語られた言葉と行われた業です。「古い革袋」とは、心の柔軟性を失って主イエスが伝える神様の大いなるお考え、愛の業を受け留めることのできない人です。ファリサイ派の人たちであり、バプテスマのヨハネの弟子たちがそうでした。私たちは「新しい革袋」でありたいと思います。
当時、主イエスの伝える福音は、全く新しい教えとして受け止められました。ファリサイ派の様に律法を振り回して人を裁くけれども、自分自身をその外に置く教条主義者たち。現代の表現を使えば、「上級市民ならぬ、上級信者」でしょうか。
その一方で、熱心に悔い改めようとしつつも、人間の努力に頼るヨハネの弟子たちは原理主義者と呼べるでしょうし、そんな彼らは自分が罪びとであることを認めなかったことでしょう。何しろ、リーダーのヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べて 質素な生活をしていた人です。律法が定める断食もしっかり守っていました。しかもそれはファリサイ派の人たちが人に見せるために行っていた断食とは違いました。
チョット横道にそれますがマタイ福音書6章16節以下をお読みします。聞いてください。 「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。 あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。 それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」ほとんどの方に断食の習慣はないと思います。私もダニエルの断食だけです。最後の部分です。 隠れたことを見ておられるあなたの父 とあります。主イエスの父、全能の父が私たちの父と言うことは、主イエスと共にいる、正確には共にいてくださることで、一緒に神様の愛の衣の中に入れてくださるということです。さらに、全能の神様は、私たちのすべてを見ておられるのです。恥ずかしいことを隠しても無駄ですし、逆にどんな時にあっても私たちの祈りに最もふさわし答えを返してくださるのです。 さて、皆さんは「新しい革袋」でしょうか? 自分をどの様に思われるのでしょうか。歴史上、残念ながら教会が「古い革袋」だったことが多くあります。
地動説を唱えたコペルニクス、宗教改革におけるマルティン・ルター。彼らを迫害しました。新任の教師が前任の牧師との違いを指摘されて辞任に追い込まれた。そんな重い話でなくても、チョットした変化に教会は敏感です。ある牧師からオルガンの位置を変えるのに苦労した話を聞きました。抵抗した理由は「何かが変わると説教を聞く時心が乱れる」からだったそうです。この程度で乱れないで欲しいとも思いますが切実な問題だったのでしょう。
それでは、教会がなんでも時代の変化を取り入れるのが良いのでしょうか。やはり教会には守り抜かなければならないものがあります。私たち日本基督教団はそれを信仰告白と信仰告白に基づいた教会を形作るための教憲・教規においています。教会が守るべき規則です。しかし、規則が「古い革袋」になってはいけません。私たち一人一人もまた、しなやかさを保って、そして喜んで主のみ言葉を受け入れる革袋でなければ、力強い主の福音を受け止めることは出来ません。使わない筋肉は硬くなり衰えます。頭もそうでしょう。繰り返して使うことがしなやかさを保つのに必要です。 私たちの信仰であり、その入れ物の心も同じです。神様はその若さを保つ方法を与えてくださっています。日々聖書に親しみ祈ることに加えて、週ごとの礼拝です。共にいてくださる主を感じながら信仰の友と集い、み言葉に聞き祈り賛美し献げ奉仕する。この時が繰り返し与えられていることは、なんと大きな恵みなのでしょうか。集うことが叶わないときにその恵みに気づくのだとすればそれも神様の愛に満ちたご計画なのです。そんな時には置かれたところで祈りを共にしてください。礼拝に集う者は集えない者の為に祈るのです。 「新しい革袋」です。主の恵みを豊かにいただいて、主の為に喜んで働く山形六日町教会であり一人ひとりでありたいと思います。 祈ります。