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山形六日町教会

2021年5月9日

聖書:サムエル記下22章1~4節 マタイによる福音書7章24~29節
「岩を土台に」波多野保夫牧師

教会総会を終え、週報の表紙も新しい年間聖句と年間主題になりました。2021年度を「揺るがぬ希望をもって」歩んでまいりたいと思います。

今月から新しい2つの説教シリーズが始まります。本日が1回目になる「たとえて言えば」。主イエスは譬えを用いて、たびたび「神の国」の真理を語られました。
もう一つは「あなたへの手紙」。新約聖書は、主イエスの地上での活動を伝える4つの福音書と、それに続く主イエスの復活と昇天、そして聖霊を受けて誕生した教会のありさまを伝える使徒言行録。さらに教会は迫害の中で信仰の内容とその形を整えていったのですが、様々な問題とそれをどの様に乗越えて行ったのかを、使徒たちの手紙が生き生きと伝えています。最後に、主イエス・キリストの再臨、すなわち終末の様子を告げる黙示録があります。パウロやヤコブ、ペトロやヨハネ、ユダ、さらにヘブライの説教者たちの手紙は、それが当時の個人や教会に宛てられただけではありません。編纂され、書留郵便で送られてきているのです。差出人はイエス・キリスト、代筆者はパウロやヨハネなど。手紙の用紙は新約聖書。配達は聖霊。そして宛名はあなたです。シリーズ第1回は5月23日、ペンテコステの日になりますので暫らくお待ちください。
数年にわたって続けてきました「祈るときには」と「気概を示す」この2つのシリーズは終盤に差し掛かっていますが、祈りはどんな時にあっても私たちの生活の中心にあります。また、様々な時代にあって祈り、信仰に生きることで気概を示した女性たちを忘れることは出来ません。折を見て触れていきたいと思います。

さて、説教シリーズ「たとえて言えば」の1回目ですが、マタイによる福音書7章24節は、主イエスの  それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。
この言葉から始まっています。ここでおっしゃっている「これらの言葉」とは実は大変多くの言葉を指しています。マタイによる福音書5章から直前の7章23節までに語ってこられた言葉です。「山上の説教」と呼ばれます。5章1節2節に、イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。 とあるからです。新共同訳聖書では内容的な切れ目ごとに短い言葉で要約しています「小見出し」が付けられていますが、この小見出しは聖書原文には書かれていないので、司式者が朗読する際には読みません。しかし、大掴み(おおづかみ)にその内容を知りたい時に重宝します。

5章にはまず「山上の説教5-7章」とあります。3節以下を順に拾ってみますと「幸い」、「地の塩、世の光」、「律法について」、「腹を立ててはならない」、「姦淫してはならない」、「離縁してはならない」、「誓ってはならない」、「復讐してはならない」。禁止命令が続きます。決して人を幸福にしないことが禁止されています。神様は私たちの幸せを願っていらっしゃるから人を決して幸せにしないことを禁じられるのです。「でもそれなら、幸せをポンと気前よく下さったらいいじゃないですか。」もっともですが、私はそうして手に入れたものへの感謝は絶対に長続きしません。
パウロの言葉が思い起こされます。彼は自分の体に「とげが与えられている」と言います。そのとげは、マラリヤだとか癲癇(てんかん)だとか言われますが良く分かりません。「このとげが無ければもっともっと神様の為に働くことができます。どうぞとりさってください。」 何度も何度も祈ったパウロへの神様のお答えです。12:9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。10 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。(Ⅱコリント) 神様への思い上がりであり、隣人への思い上がり。これほど人をみじめにするものはありません。ですから、神様が祈りを聞いてくださることが恵みであるのと同じように、聞いて下さらないこともまた恵みなのだと知ります。神様の愛は私たちの思いよりもはるかに深いのです。
横道にそれました。山上の説教の小見出しを追っていきましょう。次は大変難しい戒めです。「敵を愛しなさい」。いかがでしょうか?しかしこれでやっと6章、半分ほどです。少し飛ばしながら続けると「祈るときには」「天に宝を積みなさい」「思い悩むな」「人を裁くな」「狭い門」。「心に響くいくつかの話を思い起こされたのではないでしょうか。
「山上の説教」は私たちが生きて行くうえで、その導きとなります。岐路に立たされた時に、選び取るべき道を明らかにしてくれる。そう言った教えの宝庫です。今日家にお帰りになったら、ぜひもう一度マタイによる福音書5章から7章までを読み直していただきたいと思います。
本日の聖句です。24節 それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。これらの言葉とは「山上の説教」で述べられた言葉です。たくさんありました。26節では わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。このようにおっしゃいます。これは実際に岩の上に立てられている家と、砂の上に立てられている家を比較して、そこに住んでいる人を賢い、あるいは愚かだと言っているのではありません。家を建てる場合、あるいは借りる場合でも岩の上の家を選びとれない場合は多いことでしょう。実際、私の育った家は砂地の上に立っていました。子供の頃、外で遊んで家に帰った時、ズボンの折り目に入った砂を畳にばらまいて叱られたものです。「やっぱり聖書に書かれている通りだ」と言われてしまうかも知れませんが、あくまでもたとえ話です。
岩の上の家と、砂の上の家双方に 雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけ ます。私たちの人生の中で起きる様々な出来事。主はその荒々しさについておっしゃっていますから、楽しいこと、うれしいことではなく、辛く苦しいこと悲しいことでしょう。押しつぶそうとします。思い出すのも辛い。現在も引きずっているかも知れません。「それが人生と言うものだ」としたり顔で言ったところで何の解決にもなりません。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけ とありますが、雨はこれからの田植に欠かすことが出来ません。「恵みの雨」と言う言葉もあります。若葉を渡って来る春風は心地よい香(かぐわ)しさを運んでくれます。聖書は聖霊を風にたとえます。
その一方で近年繰り返される自然災害です。豪雨や来る台風が荒々しくなっているように感じられます。同じ雨が恵みの雨であったり、豪雨や洪水にもなります。香しさを運ぶ風が草木をなぎ倒すだけではなく建物を吹き飛ばしてしまいます。だとしたら、先ほど「私たちの人生の中で起きる様々な出来事。主はその荒々しさについておっしゃっていますから、楽しいこと、うれしいことではなく、辛く苦しいこと悲しいことでしょう。」 この様に言ったことは正確ではありません。例えばお金です。お正月にはお年玉をもらってうれしかった思い出がありますが、思わぬ遺産が入ったり、宝くじに当たって身を持ち崩した話を聞きます。お金だけではありません。出世街道をひた走りに走ったり、あるいは、スターダムにのし上がって、気づいたら友達が誰もいなくなっていた悲劇などもあります。
岩の上に家を建てるのか、砂の上に家を建てるのか。私たちの人生の基盤をどこに置くかが問われています。もちろんしっかりとした信仰、主イエス・キリストを信頼して主イエスに従っていく人生こそが、岩の上に家を建てる人生です。
7章25節 雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。結婚式の際に、新郎新婦に誓約をしていただきます。その際に「その健やかな時も、病む時も、これを愛し、敬い、慰め、助け、節操を守る」ことを誓約していただきます。しかし、本当に強固な誓約は、二人が本当に強固な土台の上に立っているかによるのです。余談になりますが、私が研修の時にお世話になった牧師は、実は離婚歴を持っており、その時のことを説教の中で証ししています。仕事を辞めて神学校に入ったのですが、新約聖書の試験の前日に「あなたと同じ道を歩めない」と言って去って行ったそうです。しかし、彼は離婚と言う苦しみの中でなお、自分に働いて下さり慰めと勇気を与えたくださる方、主イエス・キリストに出会ったのです。私たち一人一人が人生の土台をどこに置くかが問われるのです。
しかし、この問いは個人にだけではありません。ペトロはある時イエス様に問われました。「あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」 ペトロ「あなたはメシア、生ける神の子です。」イエス様「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」(マタイ16:15-18)ペトロと言う言葉は原語で岩と言う意味です。教会は、まさにペトロの信仰、「あなたはメシア、生ける神の子です。」という信仰の上に立っているのです。もしそうでないのなら、人の思いが支配するのであれば、もはや教会ではありません。
さて、ここまでしっかりした土台、すなわちイエス・キリストへの信仰に立った人生が強烈な暴風雨にあっても、逆に照り付ける日差しの中にあっても、揺るがないことを聞いてきましたが、少し今日の聖書箇所の意味を膨らませてみましょう。どんな家に逃げ込むかです。草原を歩いている時に突然黒雲が現れ激しい雷雨に襲われた時にどこに逃げ込むかです。
私は子供の頃に見た「3匹のこぶた」と言うディズニー・アニメが思い浮かびました。オオカミが襲ってきた時です。わらの家と木の家は強烈な鼻息で吹き飛ばされてしまいました。2匹のこぶたが逃げ込んだのは、時間をかけてしっかりと積み上げたられたレンガ作りの家。3匹目のこぶたは逃げて来た2匹のこぶたを喜んで中に入れたのです。3匹のこぶたの命は守られました。
先週、主イエスが静かな祈りと弟子たちとの語らいの時を持つために、ティルスとシドン地方に行かれた時の出来事を見ました。娘の病気を治していただきたい一念でやって来た異教徒の彼女に、イエス様は「あなたの信仰は立派だ。」と言われ、娘の病は癒されました。そこで「もちろんこの女性の信仰は立派です。イエス様が認めています。しかし、異教の地にあって、たまたま噂を聞いて、出かけて行った先が良かったのではないでしょうか。」この様に申しました。私たちは今ここに集っています。どの様な切っ掛けがあったのでしょうか?たまたま手にした聖書が、たまたま教会の前で讃美歌が聞こえたから、たまたま嫁いだ先が、たまたま職場が。様々でしょうが、背景には必ず教会の祈りがあり、誘った方、導いた方の祈りがあったことは確かです。しかし“たまたま”と言う切っ掛け、その時は深く意識しなかった切っ掛けこそが神様の愛のご計画なのです。そしてあなたはその“たまたま”与えられたチャンスに心を開いたのです。

最初に読んでいただいた旧約聖書サムエル記下22章1節以下をもう一度お読みします。 ダビデは、主がすべての敵の手から、またサウルの手から彼を救い出された日に、次の言葉をもって主に歌をささげた。2 主はわたしの岩、砦、逃れ場 :3 わたしの神、大岩、避けどころ わたしの盾、救いの角、砦の塔。わたしを逃れさせ、わたしに勝利を与え 不法から救ってくださる方。4 ほむべき方、主をわたしは呼び求め 敵から救われる。
今私たちが招かれているのは、オオカミの鼻息で飛ばされてしまうような家でも、雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。家です。岩と言う意味を持ったペトロの信仰。「あなたはメシア、生ける神の子です。」と告白したペトロの信仰の上に建てられている教会です。岩を土台としている教会です。
7章24節に戻ります。 それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。賢い人 とはIQが高くて成績の良い人ではありません。知恵のある人です。箴言が言う「主を畏れることは知恵の始め」(9:10) 自分ではなく神様に栄光を帰する、神様のなさることを褒め称える。その謙遜さを持った人が「賢い人」です。どうすればその様な賢さ、神様の前で謙遜になれるのでしょうか? 神様の愛の中を歩み人生を送ることができるのでしょうか? これらの言葉を聞いて行う のです。「山上の説教」で語ったことを行いなさい。そうすればあなたは岩の上に家を建てる、すなわちしっかりとした信仰を持って人生を歩む者となります。嵐が来ようが、オオカミが襲って来ようが大丈夫です。
以前、お読みしたヤコブの手紙1章22節 御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。「あれー、波多野先生。パウロは信仰義認。救われるのは信仰だけと言っていますが?」ローマの信徒への手紙5章ですね。良い質問です。
説教シリーズ「あなたへの手紙」で、あらためて読みたいと思いますが、神様が義、すなわち正しい者と見なしてくださるのは主イエス・キリストへの信仰に依るだけです。永遠の命へと招いてくださいます。良い行いは、信仰の成長につれて自然に出てきてしまうのです。信仰のバロメータです。これを聖なる者に変化していく聖化、と呼びます。「山上の説教」で語られたことを実践する。確かに「敵を愛しなさい」この一つだけでも挫折してしまいそうです。でも最高の方法が私たちにはあるのです。岩の上に建てられた家に通う、オオカミに襲われた時にはレンガ造りの家に逃げ込む。そうです、教会です。週報の裏面にイラストを載せましたが、レンガ造りの家に十字架が立っていることに注目してください。
そこで、信仰の友と礼拝の時を持つのです。御言葉に聴き、祈り賛美し献げ仕える。そして共にいてくださる主イエスを強く感じて仰ぎ見る。私たちを謙遜にしてくれる一番の場所であり一番の時、それが礼拝です。この恵みの時からそれぞれの生活の場に戻る。そして次の週の初めに再び礼拝に集うこのリズム。素晴らしいですね。「三匹のこぶた」の歌声が聞こえます。「オオカミなんてこわくない。イェス様がいてくれるから!」本日の説教題「岩を土台に」は「教会を土台に」と読むことが出来ます。 祈りましょう。