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山形六日町教会

2021年5月2日

聖書:詩編69編14~19節 マタイによる福音書15章21~28節
「憐れんでください」波多野保夫牧師

先週開催されました教会総会において、2021年度主題聖句「約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。」(ヘブル10:23)に基づいて、「揺るがぬ希望をもって」が年間主題として承認されました。本日から週報の表紙に記載されています。コロナ禍が未だ去る様子を見せていない状況にありますが、キリストの福音を知り祈りを共にする私たちです。「揺るがぬ希望をもって」歩む山形六日町教会であり、一人ひとりでありたいと思います。
先週は年間主題聖句ヘブライ人への手紙10章23節を中心にみ言葉を聞きましたが、その際、旧約聖書詩編62篇から始めました。ダビデ王はその晩年に息子アブサロムが起こした謀反によって、エルサレムを追われ荒野へと逃げなければならない危機に陥っても、なお揺るぐことのなかった彼の信仰です。 わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。神にのみ、わたしは希望をおいている。神はわたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは動揺しない。(詩編62:6,7) この強い信仰がどの様に形作られたのかを見ました。羊飼いの少年はイスラエルの歴史上最高の王と呼ばれるようになったのですが、バテシバとの情事を含めて多くの試練や危機の中で、罪を犯し窮地に追い込まれるごとに、それでも愛し続けてくださる神様と出会いました。共にいてくださる神様に出会いました。この状況は現在の私たちに重なるのではないでしょうか? 
ヤコブの手紙1章2節以下です。小見出しに「信仰と知恵」とあります。1:2 わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。3 信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。4 あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。5 あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。ここでヤコブが言う知恵とは旧約聖書箴言が言います、「主を畏れることは知恵の始め」この知恵です。「この知恵に欠ける人の為に祈りなさい」です。ヤコブの勧めを続けましょう。6 いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。7 そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。8 心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です。 今年度の主題 「揺るがぬ希望をもって」歩む山形六日町教会であり、一人ひとりでありたいと思います。

さて本日与えられました聖書箇所ですが、詩編69篇から読んでいきましょう。69:2 神よ、わたしを救ってください。大水が喉元に達しました。3 わたしは深い沼にはまり込み 足がかりもありません。大水の深い底にまで沈み 奔流がわたしを押し流します。4 叫び続けて疲れ、喉は涸れ わたしの神を待ち望むあまり 目は衰えてしまいました。この様に始まります。ダビデがいつこの詩を読んだのかは定かではありませんが、内容の重苦しさから先週の詩編62編同様、息子アブサロムによって都から追われた時のことでしょう。苦しみが伝わってきます。
先ほど市川長老に読んでいただいた17節から18節。69:17 恵みと慈しみの主よ、わたしに答えてください 憐れみ深い主よ、御顔をわたしに向けてください。18 あなたの僕に御顔を隠すことなく 苦しむわたしに急いで答えてください。19 わたしの魂に近づき、贖い 敵から解放してください。先週、大いなる過ちから立ち直り強い信仰を取り戻したダビデ王を見ました。そのダビデ王がアブロサムによって命の瀬戸際に追い詰められた際の切なる祈りです。神様早く私を救い出してください。あなたにはそのお力があるのですから! この切実な祈りは聞き届けられました。サムエル記下はこの様に告げます。 ダビデはユダのすべての人々の心を動かして一人の人の心のようにした。ユダの人々は王に使者を遣わし、「家臣全員と共に帰還してください」と言った。(19:15)
この説教シリーズ「気概を示す」では聖書に登場する女性を取り上げ、その信仰を見ることで私たちに望まれる信仰の姿を見てきました。エステルに始まり、ルツ、ナバルの妻アビルなど旧約聖書が語る女性たち。新約聖書ではベタニアのマリアとマルタ、マグダラのマリア、そして主の母マリアなどです。名前の記されていない女性たちもおりましたが、それぞれの時代にそれぞれの状況にあって、愛してやまない神様への信仰を私たちに伝えてくれています。彼女の信仰は素晴らしい、素敵だ。こうありたい。これはいつの時代にあっても同じでしょうが「こうはなりたくない。こう有ってはいけない。」と言った半面教師も登場しました。神様はいろいろな方法で私たちに語り掛け導いてくださっているのです。そんな説教シリーズ「気概を示す」の25回目です。15章21節には イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。とあります。
30歳になって以来、主イエスは旧約聖書の時代から神様の民とされてきたイスラエルの人々が、罪を悔い改めて神様に立ち返る様にと語り、愛の業を行う日々を重ねていました。直前に3つのことが記されています。14章34節以下です。 こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いた。35 土地の人々は、イエスだと知って、付近にくまなく触れ回った。それで、人々は病人を皆イエスのところに連れて来て、36 その服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。力ある業は広く知れ渡っており、休む暇もなく憐みの心を持って働かれました。15章の冒頭では、わざわざエルサレムから難癖をつけるためにやってきた宗教指導者たちに「神様が律法をも守るように求められているのは、うわべを繕(つくろ)うことではなく、心から愛することだ。」このように諭されています。その後で、弟子たちに彼らに語った言葉の意味を丁寧に教えられました。そんな多忙な日々から離れて、ティルスとシドンの地方に行かれた。のです。週報に地図を載せておきましたが、この地方は当時ガリラヤを治めていたヘロデ・アンティパスの領地よりもさらに北側の地中海沿岸に位置しており、けがれた異教の地とされていましたから、イスラエルの人々は住むことはもちろん立ち入ることもしません。ですからこの旅の目的は、福音を宣べ伝えるためではなく、多忙な日々から解放されて、静かな祈りの時を持ち、弟子たちと親しく語り合うためでした。日々の忙しさを離れて神様に心を向ける時間、これは全ての人に必要であり、また恵みの時です。天地を創造された際に神様は7日目に休まれ、安息日を定められました。
私たちクリスチャンは週の初め、主の復活の日には、日常の営みから離れて礼拝に集います。御言葉に聴き賛美し祈り献げる時。礼拝の時は主イエス・キリストを最も身近に感じることが出来る癒しの時であり恵みの時・感謝の時・養いの時なのです。さてそんな折、この地に生まれたカナンの女がやって来ました。「気概を示す」25回のヒロインです。カナン地の住人は、モーセとヨシュアに率いられたイスラエルの民が入ってくる以前からの先住民の子孫です。バアルと言う恵みの雨を司る豊穣神、豊作の神であり多産の神を信仰しており、天地を創造された唯一の神を信じる者たちではありませんでした。カナンの女は「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」この様に叫び続けます。主イエスがガリラヤ地方でなさった力ある業は、異教の地にまで届いていました。愛する娘の病を治してもらいたい。母親の一念です。主イエス一行が、イスラエルの人々の追っかけから逃れて、祈りと語らいの静かな時間を持つためにやってきたことなどお構いなしです。ついに弟子たちは言いました。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」「しつこく付きまとわれてうるさくてかないません。私たちの大切な時間を邪魔されないように、願いを聞いてやるとかなんとかして、とにかく早く帰らせてください。」 この女性に同情しての言葉ではありません。主イエスと女性との会話です。 詳しく見ていきましょう。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」主イエスが地上に来られた第一の目的は、イスラエルの家の失われた羊、すなわち神の民として選ばれたイスラエルの人たちが、自分たちの罪を悔い改めて立ち返り、神様の愛の中を歩む幸せな人生を送る様になることでした。続けて「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」 人を犬にたとえるのは侮辱の意味あいを持ちます。イスラエルの人たちが異教の民・カナン人をこの様に呼んでいたのでしょう。あえてその言い方をして、この女性の真剣さ、さらに信仰を確かめられたのかも知れません。イエス様の前にひれ伏して、「主よ、どうかお助けください」と言った彼女はそんな言葉に全く怯(ひる)みません。27女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」私のような異教の民も神様がイスラエルの人に与えられる豊かな恵みのおこぼれに与らせてください。あなたにはそのお力があります。28節 そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。今日のヒロイン、カナンの女は主から「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。」この様に言われ彼女の祈りは願い通りに聞かれたのです。
こんな不遜なことを考えるのは私だけでしょうか? この女性は最愛の娘の病気をどうしても治したい。噂に聞いていたダビデ王の子孫だという方は病を癒す力があるという。その方は天地を創造なさった神様の子供だそうだ。娘の病気を治してくれる力があるかも知れない、いや治せるはずだ、絶対になおしてもらおう。主はこの女性に対して「あなたの信仰は立派だ」と言われたが、どこが立派なんだろう?  困って困って、他に方法がなくて一途の望みを持ってやって来ただけじゃないか。ご利益信仰とどこが違うんだ?
同じマタイ福音書8章5節以下に「百人隊長の僕をいやす」と小見出しが付けられた出来事があります。「部下が中風で苦しんでいるので治してほしい。」とローマの百人隊長がやって来て主に願ったのです。主イエスが「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われると、彼は「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。」権威をお持ちのあなたが治る様に言ってくださるだけで十分です。この様に答えました。ローマの百人隊長ですから権力を持った異教徒です。8:10 イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」 そして、百人隊長に言われた。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた。イスラエルの人々や宗教指導者よりも、この異教徒の百人隊長の信仰ははるかに素晴らしい。この様におっしゃったのです。百人隊長の祈りは願った通りに聞かれました。彼もまた願い事を持って主イエスの所に来た異教徒です。
ご利益信仰とどこが違うのでしょうか? しかし、主イエスご自身が、「あなたの信仰は立派だ」「これほどの信仰を見たことがない。」この様におっしゃっているのですから、彼女や彼の信仰は立派なものであり私たちが見習うべきものに違いありません。二人の共通点を見ていきましょう。まず二人とも異教徒の世界で育ち、過去において異教の神を礼拝していたことでしょう。この点では山形の多くの人に似ています。二人とも切実な求めを持ってイエス様の所に来ました。悪霊に苦しめられている娘であり、中風にひどく苦しむ部下の癒しを求めてやってきました。自分の利益ではなく周りにいる人を愛するが故です。二人とも「主よ」と呼びかけます。「イエスは神だ」との信仰の表明です。
カナンの女性はイエス様の前にひれ伏して願い、百人隊長「ただ、ひと言おっしゃってくだされば、わたしの僕はいやされます。」この様にはっきりと主イエスの権威を表明したのです。
私たち自身に関して、家族に関して、あるいは大切な部下であり、友人であり、隣人に関して、それぞれの課題を抱えて主イエスに願う。その様に祈ることはたびたびあります。大切な祈りです。いつもお話ししている様に、祈りの要素は、賛美と頌栄の他に「感謝の言葉、ありがとう」「罪の悔い改め、ごめんなさい」そして「お願いします」この3つです。
先ほどカナンの女性の信仰は「ご利益信仰とどこが違うというんだ?」この疑問を残して来ましたが、実はキリスト教は究極のご利益信仰なんです。なぜでしょうか? 私はいつも祈りの自主規制は必要ないと言っています。何を祈っても構いません。家内安全商売繁盛を祈り求めてかまいません。ただし、祈った結果与えられた神様のお答えには素直でなければいけません。本当に必要だ、為になるとお考えなら、叶えてくださるでしょうし、そうでないのなら無視してくださいます。願った以上に素晴らしいこともあります。私たちの祈りをフィルターにかけて必要なものは与え、ない方が良いもの、不必要なものは遠ざけてくださるのです。「ご利益」と言うより「恵み」と言った方が適切ですね。
私たちを愛してやまない方は、主の愛の中を歩む豊かな人生を与えてくださいます。悩み苦しみの中にあっても共にいてくださいます。さらに死後にまで及ぶ主の愛、永遠の命が約束されています。その明白な根拠があります。私の罪を負って十字架上で苦しみを味わわれた方が、死に勝利され復活された事こそが確かな証拠です。
聖書が語る3人の信仰を見てきました。ダビデ王は、神様に愛された典型的な人物です。しかし、その彼でさえ自分の地位や業績を誇り、神様の前で謙虚さを失った時に大いなる罪を犯しました。この点において、私たちも同じ危険性を持っています。神様の愛を見失ってはいけません。カナンの婦人とローマの百人隊長。二人とも世界を創造された全能の神を知らずに育ちました。日本の多くの方と同じです。しかし、この二人はイエス様に信仰を誉めていただいたのです。二人の行動は、周囲の人に愛情を注ぎ、その人を幸せにしたいという強い思いをもって主イエスのもとへやって来たことです。イスラエルの宗教指導者たちと違い、旧約聖書が語る「神様と隣人を愛しなさい」このご命令を知る由もありませんでしたがチャント実践したのです。そして「主よ」すなわち「イエスは神だ。救い主だ」と呼びかけています。なぜそんなことが出来たのでしょうか。
この婦人は「主イエスが力ある業を行っている救い主だ」といううわさを、娘の病気が治らない厳しい状況のもとで心に留めました。心を開いて聖霊を受け入れたのです。百人隊長も同じように心を開きました。結末だけを見れば、自分の力ではどうしようもない状況の中で、たまたま訪ねて行った人が良かった、神様の独り子だったということです。しかし、私たちはそこに神様のご計画と聖霊の働きを見ることが出来るのです。そして同じ聖霊が私たちにも働きかけてくださっているのです。ですから、私たちは心を開いて聖霊を受け入れ、そして主イエス・キリストについて行くのです。これが信仰であり、ここに希望があります。私たちは神様の愛の中を歩む豊かな人生へと招かれているのです。皆さんはすでに2021年主題「揺るがぬ希望を持って」歩み始めていらっしゃることでしょう。 祈りましょう。